第13話 「その感情の名前は、罪」
花緒からの連絡が3日途絶えた。ストレスで慈雨月の胃に穴が開きかけた頃、突然花緒からメッセージが届く。
――「亜蓮様が見つかりました」
その短い文面を見た瞬間、慈雨月の思考が真っ白になる。
本当、なのか?偽物?堕神の擬態……か何か?精神の限界が見せた幻覚では?
あらゆる可能性が頭をよぎるのに、それ以上の連絡がこない。毎日100回はスマホを見て、着信履歴を埋め、メッセージを送りまくった。睡眠不足なのに寝落ちすれば悪夢を見て、飯は流動食しか受け付けず、水は砂の味がし体重は3キロ落ちた。
そして更に2日経ってようやく、花緒と電話が繋がった。
『はい』
スマホ越しに花緒の声が聞こえる。
――生きていた……!!
その一声だけで、慈雨月は胸が締め付けられた。
「花緒……何日ぶりだよ。心配したんだぞ……!」
『申し訳ありません……』
久しぶりに聞くその声は、ひどく静かで、しかし妙に落ち着いていた。
「いや、無事ならそれでいい。それで、亜蓮は?」
『今は熱も下がって、安定しています』
「そう、か……」
安堵と脱力が一気に襲いかかる。椅子に身を沈めた慈雨月は、眉間を揉みながら小さく息を吐いた。
いざその瞬間が来てみると、言葉が出ない。信じられない。それが第一印象だ。"黄泉帰り"、そんな言葉さえ頭に浮かぶ。
「……色々聞きたいことはあるが……。とりあえず、これからどうするんだ?すぐに外に出すことは、できないよな……」
電話の向こうで、花緒が少し言い淀んだのがわかった。
『……はい。瘴気汚染の進行度が不明で……。しばらく付き添います』
「……そう、か」
(そうなるよな……)
予想はしていた答えだったが、実際に口にされると思った以上にキツいものがあった。
慢性的な瘴気汚染が引き起こす、死のリスク。このところ、千年京に長く滞在していた人間が外界に出ると、瘴気に馴染んだ体が拒絶反応を起こし、死に至るケースが頻発していたのだ。
亜蓮が見つかれば、彼女も必ず千年京に残ると言いだすと思っていた。亜蓮が見つかったのは奇跡のような幸いだ。だが慈雨月は何も言えず、椅子の背にもたれ天井を仰ぐ。
『……疑わないのですね』
「君が亜蓮だと判断したんだろう。俺はそれを信じるだけだよ。まあ、写真の1枚くらいは見せて欲しいけど」
『わかりました。あとで送ります』
…………。
沈黙。それも重たく、意味深な。
……なんだ、この空気。
慈雨月の胸の奥がざわつく。
『……慈雨月様』
感情を殺したような声に、慈雨月が身構えた。
「……ああ」
スマホの向こうで、花緒が息を整える。
『――婚約を、解消させてください』
言葉が落ちた瞬間、二人の間の空気が凍りつく。慈雨月は息を詰めたのち僅かに笑った。
「はは、なるほどね……。やっと電話が繋がったと思ったら別れ話か。どういう了見だい?」
『……ここ数日、真剣に考えた結論です』
足元を見つめながら、花緒は低く告げる。
「この婚約は、もともと義務的なものでしたよね。華上の血を引く慈雨月様が、秘術師の血筋を残すために」
「それは違うって、前にも言ったはずだよな? で? もう亜蓮が戻ってきたから、俺はお役御免ってわけか?」
『そういうことでは……ありません。ですが私はもう、飲まず食わずで五日間動き続けられるような身体なんです……。そんな私と結婚するなんて……』
「現実的じゃないって?」
慈雨月の声は震えていた。花緒の息が詰まる。
『……慈雨月様』
「問題ないね、そんなの。俺がいつ“まともな人間"を求めたんだ?」
『でも、私は……慈雨月様には、他の、もっと……』
「聞きたくない」
低く鋭い声。しかし、その奥にあるのは痛みだ。
「……じゃあ、そっちがその気なら、こっちも言わせてもらおうか」
慈雨月の声に明確な怒気がこもった。初めて聞く声音に、花緒の胸がすくむ。
「婚約が白紙になるなら、そっちの援助は打ち切るよ? 戻ってきたばかりの亜蓮に、稼ぎや後ろ盾があるわけないよな?君の生活。家だってなんだって、君が俺の婚約者だから支えてるって自覚はある?」
花緒は唖然としたが堪えきれず声を上げた。
『……それを今言いますか!!?』
「ああ言うね! というか、言わせたのは君の方だからな!?」
声を荒げる主の後ろで、老秘書が深々とため息をつく。
『それは……亜蓮様が身内で甥っ子だから、という理屈で済むことでは!?』
「はは……ふーん。君にはそこまで俺がお人好しに見えてたんだ」
皮肉げに笑う慈雨月だったが、声音に余裕はない。
「今の俺、心境最悪なんだけど? ようやく電話が繋がったと思ったら突き放されて、“ありがとう、さようなら”? それで? 今後も善意で援助してもらえると思ってるの?」
『はあ、な、なんなんですか……? なんでそんなこと、ほんっと……! ほんっとに、悪魔みたいな人ですね!?』
「はいはい、脅迫です! 悪魔です!」
吐き捨てた慈雨月が、苦しげに呼吸を整えた。声がふっと落ちる。
「……違うんだ。そういうことが言いたいんじゃ、ないんだ」
その一言に、花緒の口が閉じる。
「――“君がいい”。君が人間かどうかなんて、関係ない。俺にとっては、それが全てなんだよ」
何か言おうとした花緒の言葉が詰まった。ここで花緒が拒絶すれば、彼を立ち直れないほど壊しかねない、脆くて痛々しい声だった。
「俺は千年京には入れないし、これからはそう簡単に会えないかもしれない。でも、だからって気持ちが変わるわけじゃない。」
慈雨月の声が、静かに続く。
「君は俺のためを思って突き放そうとしてるんだろうけど……。でも、それは俺の望んでる形じゃないんだよ……」
花緒の胸の奥が、じくりと痛んだ。
本当にそれでいいのだろうか。それは、この人を縛ることになるんじゃないのか?
私なんかと結婚するより、もっと長生きできる人を選んだ方が、この人の為なのに。なのに……。彼の気持ちをを聞くと、言葉が出なくなるのは、何故なんだ。
「……なあ、花緒」
『……』
「もう、こういう話はやめにしないか」
花緒が、唇をきゅっと引き結ぶ。
「壊れてるって、君が思ってるその部分も……俺にとっては、大事な君の一部なんだよ」
ずきんと胸に痛みが走り、指先が無意識に胸元のシャツを握りしめる。
――どうして?
(どうしてこの人は……いつも私の欲しい言葉をくれるんだろう……)
花緒は目を伏せ、息を吐いた。しばらくの沈黙ののち、
『――わかり、ました』
ぽつりと、それだけを答える。
すると慈雨月も、ようやく張り詰めていた息を吐いた。
「……よし。それじゃあ、婚約は継続。支援も継続。異論ないね?」
『はい』
「それと、今度からはもうちょっと……何ていうか、連絡ぐらいは入れてくれよ。ほんと……心臓に悪い」
「はい……すみません」
「いや、俺も……言い過ぎた。ごめん……」
慈雨月の声が沈む。
「……辛いよな。怖い、よな」
穏やかで、優しく頭を撫でるような声。花緒が自分の体をさする。
『……いえ』
花緒の胸が、締め付けられるように痛んだ。
「とにかく、君の体が壊れないか心配だ。すぐに手伝える人間を送ろう。気休めでも、少し体を落ち着けた方がいい」
「はい」
花緒が目を伏せる。
この人は、こんな私も人扱いしてくれる。だからこそ、彼を道連れにしたくないのに。
花緒は静かに視線を落とす。
「その……慈雨月様」
「ん?」
「……いつも、ありがとうございます」
慈雨月が電話の向こうで息を呑む。そして、ふっと微笑む気配がした。
「いいんだ。俺がそうしたいからしてるだけなんだから」
遠くから抱きしめてくれるようなその声に、花緒の胸の奥が熱くなり、スマホを握る指に力が籠る。
「おやすみ、花緒」
「……おやすみなさい」
スマホを内ポケットにしまい、花緒は冷たい廊下を歩き出す。足音がやけに重く響いた。
(──信じてもらえるのだろうか。亜蓮様の、あの姿を。)
実際に流れた時間とは不釣り合いな成長……花緒自身でさえ、まだすべてを飲み込めていない。それでも確信はある。あれは、まぎれもなく亜蓮だ。
(……だとすれば、あの話も、現実として動き出すのかもしれない)
慈雨月が口にしていた、亜蓮の養子縁組。それに伴う、婚姻の必要性。
けれど。
(……今の亜蓮様は、一体、何歳なのだろう)
姿形は、どう見ても成人していた。まだ若さの残る顔立ちだが子供ではない。声も、体つきも、もはや少年のものではなかった。
(……となれば、扱いも大人として──?)
華上の後継者として、彼を迎えるのか?後ろ盾は何もないとしても、血筋は確かだ。ならば、自分は――。
――ぞくりとした。
足が止まり、胸の奥に薄い警報が鳴る。
やめろ。それ以上踏み込むな。考えるな。考えるな。考えるな。
(……そう、だ。今は、まず現状を正しく伝えることが先)
花緒は頭を横に振り、足を進める。寝室の扉に手をかけ、音を立てぬよう中へ入った。
寝台の隅へそっと腰を下ろす。そこには、静かに眠る亜蓮の姿があった。
安らかな寝息。油断しきったような寝顔には、どこか無防備な影が落ちている。この場所が安全だと信じきったような、子供のような寝顔。
(……熱は下がったのに、まだ意識がはっきりしない)
視線が、わずかに布団から覗く手元へ落ちる。その手は、かつての亜蓮の手よりもずっと骨ばっていた。自分が知っていた亜蓮の手は、もっと細く、柔らかかったはずだ。
幼く頼りなかった、小さな手。
けれどそれが今は、剣を握り続けたような節くれだった指をし、戦い慣れた、緊張の残る筋肉の硬さをしていた。まるで、生き抜くために、絶えず剣を振るい続けてきたかのような――。
「……亜蓮様」
……きっと彼は、自分などとは比べ物にならないような地獄を見てきたのだ。
再会の喜びはある。でも、手放しで喜べない。喜んではいけない気がする。
「……何が、あったんですか」
独り言のように、問いが漏れる。花緒は、そっと手を伸ばした。張りついた前髪を指で梳こうとして、 一瞬、躊躇う。
(……触れても、いいんだろうか)
迷いながらも、指先は引き寄せられるように動く。指の腹が、昔もそうしたように、淡く乱れた前髪を梳く。
(……懐かしい)
体温はあるはずなのに、ひんやりとした感触が指に伝わる。まるで、別の世界から戻ってきたみたいだ。
この一年、何度も思い出した顔。けれど、今ここにいる彼は、どこか遠い場所で生き抜いてきた、別人みたいで。
もっと、確かめたかった。もっと近くで、この人の温度を感じたかった。自分なんかがおこがましいかもしれない。でも、その傷を、少しでも癒してあげたい。
(……抱きしめてあげたい)
そんな思いが、不意に浮かんだ、
──その時。
ガッ!!と鋭く手首が掴まれた。
「──っ!」
花緒の声が跳ね、心臓が爆ぜるように鳴る。
亜蓮の手が、花緒の手首を掴んでいた。指先は細く、力はひどく頼りない。それでも決して逃さないように、しがみつくように握り締められている。
赤い瞳が細く、鋭く開く。呼吸は浅く、荒い。何かに警戒するような、剥き出しの気配。
──まるで、手負いの獣。
焦点の定まらない目で、花緒を睨む。
「あっ、亜蓮様っ……! そ、その……!」
「……………」
反射的に呼びかける。けれど、言葉が続かない。
次の瞬間──亜蓮の瞳が、花緒を映す。すると、瞳の奥の警戒が、ふっと緩んだ。
獣のようだった目に、少年の面影が蘇る。だが、掴まれた手は強張ったまま離れようとしない。
(怖がらせたかもしれない……! 何か、何か言わなきゃ──)
そう思うのに、声が出ない。頬に熱が集まり、鼓動がどんどん速くなる。
そして、不意に亜蓮の視線が動いた。
花緒の右手、その指に──指輪。
その一瞬、赤い瞳がわずかに揺れる。
探るように、確かめるように、何かを問いかけるように──。
そして、次の瞬間、その瞳から力が抜けた。
「…………」
――ふっと、指が離れた。
亜蓮の指が、何かを諦めたかのようにゆっくりと落ちていく。力尽きるように、赤い瞳が再び、深い眠りに閉ざされた。
「……っ、はぁ……はぁ……っ!」
花緒が手首を引き寄せる。震える手で、胸の前に押し当てた。
息が整わない。頭が真っ白だ。脚に力が入らず、遅れてやってきた熱が頬を焼く。
(……だめだ。気づいちゃだめだ。認識するな……考えるな……!)
心の奥が、冷たくなる。花緒は両手で顔を覆い、なおも呼吸を整えられずにいた。
「私、私──っ!」
震える指が、助けを求めるように指輪を握りしめる。なのに、視線は、眠る亜蓮に釘付けだった。
違う。こんなの違う!
これは──そんなんじゃない……!!




