*番外編3 「愚かな私」慈雨月×花緒
こちらの番外編はスキップしても本編に支障の無い恋愛パートです。
濃いめの恋愛展開や変態成分が苦手な方はご注意ください。
◆「証拠」
きっかけは、何気ない雑談だった。
その日、花緒は病院や買い出しなど街で用事を済ませた後、慈雨月の過去を知る友人たちと顔を合わせる機会があった。
「あっ……そっか、君が……」
「あの、何がとは言わないけど、大丈夫……?」
「その、嫌だと思ったら素直に逃げなよ?」
えっ、何その反応……。詳しく話を聞き、言い淀む彼らから情報を引きずり出し、絶句した。
変態。控えめに言ってやばい。
開いた口が塞がらなかった。誰一人、花緒を揶揄って言っている感じではなかった。
そんな人物と、これから付き合っていくというのか?いつもの慈雨月のミニバンの中。二人きりになったとき、花緒はついに口を開いた。
「……安心して、お付き合いできません」
「はい?」
慈雨月が怪訝そうに眉をひそめる。
「先程、慈雨月様のご友人たちの話を聞いて、慈雨月様の性癖が……その……とてもマニアックである可能性が高いと判断しました」
「いや、ちょっと待て。誰がそんなこと言った?」
「……皆さん、口を揃えておっしゃっていました」
「くっ……!」
慈雨月は悔しそうに拳を握る。
「アイツら、余計なことを……!」
「慈雨月様は否定されますか?」
「当たり前だろ! 俺は普通だ!」
その時、慈雨月の表情がふと変わった。ふっと唇を歪め、不敵に笑う。
「……なるほどわかった。証拠があればいいんだな?」
「え?」
「証拠があれば、俺が”普通”だって納得できるんだろ?」
「そ、そうですね」
やや不穏めいていたが、花緒は素直に頷いてしまった。慈雨月の笑みが深まる。
「じゃあ、俺の家に来るかい?」
この時断るべきだったと、花緒は後になって強く後悔することになる。
「さあどうぞ、見てごらん?」
慈雨月の家のリビングに通されるなり、花緒の目の前に積まれたのは、大量の漫画、DVD、USBメモリ、ハードディスク。
そのどれもが、“花緒そっくり”な女の子が登場するものだった。ショートハーフアップ、細身、キリッとした目元の女性キャラクターが、ありとあらゆるシチュエーションで、ありとあらゆる目に遭っている。
「…………」
「ほら、ちゃんと見てごらん?」
慈雨月がタブレットをスワイプしようとして、
「は!? ちょ、やだ! やめてください!!」
「なんで? これが俺の”証拠”なんだから、ちゃんと確認しなきゃ。俺の性癖が花緒だって証拠がね?」
慈雨月は花緒の肩をぽんぽんと軽く叩きながら、ニコニコと微笑む。
「ちなみに、漫画も動画も、俺がずっと集めてたやつだから」
「!!?」
「そうだなぁ。君が18の時からだから、ざっと2〜3年分?」
花緒の顔から血の気が引いた。2〜3年でこの量……!?悍ましいものを見る目で花緒は辺りを見回す。
目の前に広がるのは、間違いなく”慈雨月の趣味”だ。
「いやぁ〜俺の性癖、分かってもらえた!?」
「分かりたくなかったです!」
もうこんなところいられるか!花緒が逃げようとした、その腕を慈雨月がスッと掴む。
「……でもさ、こういうの、君も少しは興味あるんじゃないの?」
耳元で囁くような声。背筋がぞくりとする。
ふと目を落としたテーブルの上には、ありとあらゆる目にあって幸せそうな自分そっくりのキャラクターが――。
「そ、そ、そんなこと……」
「だって、ほら、君が言ったんだろ? 俺の性癖がマニアックらしくて不安だって」
至近距離で、慈雨月の瞳が楽しそうに笑う、
「だから、ちゃんと確認しないと。俺の趣味が、君の許容範囲かどうか」
「……っ、や、やめ」
「ん?やめる? 」
慈雨月はニッコリと笑った。
「ああ、そうだ……。この間の続きがまだだったね」
にっこりと腹黒い笑みが浮かぶ。花緒の顔が耳まで真っ赤になり、心臓がバクバクと鳴る。
私は、私は一体何を、何を見せられてるんだ……!!?
「――も、もうよくわかりました! 失礼いたしました!!!」
全力でリビングを飛び出す。慈雨月はそれを追いかけることなく、ソファに腰を下ろし、愉快そうに笑った。
「だんだん扱い方のコツが掴めてきたなぁ」
それにまあ、こういうじゃれあいも悪くない。
だが、そう思っていた翌日――。
「慈雨月様、少しお時間をいただけますか?」
花緒は静かに、しかし確固たる決意をもってそう言った。対する慈雨月は、いつもの調子でひらひらと手を振る。
「何? まだ昨日のこと根に持ってるの?」
「ええ、もちろんです」
目が冷たい。一瞬たじろぐものの、慈雨月はすぐに薄く笑った。
「まぁまぁ、そんなに気にしないで。ちゃんと俺の好みは確認できて安心できたんだしさ」
花緒がサッと手を差し出す。
「慈雨月様、スマホをこちらに」
「……ん?」
慈雨月の笑顔が傾いた。
「慈雨月様のいかがわしいデータ、すべて削除します」
「…………ん!? ちょ、待て待て待て!? 何を言ってるんだ!?」
「見た限り、すべてのデータに共通点がありました。つまり、慈雨月様の”趣味”は完全に一致しています。ゆえに、これらを消去することで、慈雨月様の性癖を矯正することが可能かと」
「ん!? いや!? 矯正って何!? あと何その俺悪いことしたみたいな!?」
花緒は無言のまま、慈雨月をじっと見つめる。花緒が引く様子がないのを悟り、慈雨月は渋々ため息をつき、
「……わかった。ほら、スマホ」
おとなしくスマートフォンを差し出した。花緒はそれを受け取ると、迅速かつ冷徹に中身を確認。慈雨月の目の前で、すべてのデータを無慈悲そのものに削除していく。
「う、うわぁぁぁぁ!!」
慈雨月の悲痛な叫びが響く。
「俺の、俺の努力の結晶が……!」
「努力の方向性を間違えています」
慈雨月は今にも泣きだしそうな顔をしているが、花緒は一切の容赦をしない。
「タブレットもお願いします」
「いや、それはさすがに……!」
「観念してください」
淡々とした声が、慈雨月の逃げ道を塞ぐ。まるで取り調べのような雰囲気の中、慈雨月は泣く泣くタブレットを差し出した。
「――これで完了です」
1時間後。花緒はデータを完全に削除し、純真無垢となった端末を慈雨月に返した。データフォルダは空っぽ。検索履歴も、閲覧履歴も抹消され、紙媒体も全て燃えるゴミ袋の中だ。ついでに、隠し撮りしていた花緒の写真まで……。
慈雨月は手元のスマホとタブレットを呆然と見つめる。
「……全部、消された……」
「これで、慈雨月様もまともな人間に戻れますね」
「元からまともだったよな!?」
慈雨月は叫ぶが、花緒の真顔はスッキリとしている。
だが、直後花緒は耳を疑うことになる。
「くそ……わざわざ高い金払って作ってもらったのに……」
「……は?」
花緒が思わず聞き返す。
「ま、いいや。またデータを送ってもらおう」
そう言いながら、慈雨月は淡々と何処かにメッセージを送り始めた。
「……え? ちょっと待ってください、今なんて?」
「だから、作らせたんだよ」
慈雨月はスマホを弄りながら、にっこりと笑う。
「俺の"趣味"の漫画を描いてくれって」
「!!?」
花緒の思考が停止した。
「あれ、その様子だと気づかなかったかな」
慈雨月は勝ち誇ったように笑いながら、花緒に近づく。
「この漫画の登場人物の名前……“花ちゃん”なんだけど」
その瞬間、花緒の頭の中に、昨夜見せられた映像や漫画の内容がフラッシュバックする。
「……つ、つまり……名前も私にして妄想してたってことですか!?」
にこ、と慈雨月が誇らしそうに笑った。
花緒の顔が一気に真っ赤になる。
「わ、私今日はこれで」
「おっと、逃がさない」
花緒が逃げ出すより早く、慈雨月が腕を伸ばし彼女の腰を引き寄せる。
「これで納得できたろ? 俺がどれだけ花ちゃんに夢中か」
「〜〜っっっぅ……変態っ!!!」
「まあまあ、そんなこと言わないで」
慈雨月は花緒の耳元で優しく囁く。
「俺が一番好きなのは花だよ」
花緒が口を開く間もなく、慈雨月の唇が軽く触れる。
「んっ……」
温かくて、柔らかい。花緒の頭の中が、慈雨月のペースに染められていく。
「俺には花ちゃんがいるから……もうこんなものいらないのかな」
慈雨月が囁くと、花緒はますます真っ赤にして唇を尖らせた。
「……変態」
――――――――――
◆ 「罪と温もり」
数ヶ月後――。
「は?」
花緒は、静かすぎるグランドホテルのフロント前で硬直した。
「だから、一室しかとってないよ」
「——は!?」
先ほどまでの疲れはどこへやら、一瞬で全身の神経が総立ちになる。だが、慈雨月は悪びれることなく、むしろ誇らしそうに微笑んでいた。
「何か問題でもあるかな?」
「……大アリです!!」
「でも婚約者でしょ?」
「だからって一室は——!!」
思わず声を上げかけ、慌てて口をつぐむ。周囲に視線を走らせると、フロントのスタッフが申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「もう他に空きがないんだよ」
慈雨月は、軽く肩をすくめてみせる。
「嘘です」
「ほんと。試しに聞いてみる?」
花緒はギリギリのところで踏みとどまった。ここで聞いて、もし本当に満室だったらかなり恥ずかしい。
「それに——」
慈雨月がさりげなく、花緒の耳元へ顔を寄せる。
「大丈夫、クイーンだから広いよ?」
「!!」
顔に一気に熱が上る。
「ベッドが狭いわけじゃないし、お互い端っこで寝れば問題ないでしょ?」
「そういう問題じゃなくて——!!」
必死に抗議しようとするが、慈雨月は余裕そのものの笑みを崩さない。
「そんなに俺と一緒が嫌?」
言葉に詰まった。嫌、かと聞かれると、それもまた違う。
「……しょうがない」
「!? 何がしょうがないんですか!」
「もう遅いし、別のホテル探すのも面倒だろ?」
言うが早いか、花緒の手首を掴んでスタスタと歩き出す。
「あっ……!」
「大丈夫。変なことはしないって」
……嘘くさい。嘘くさいけど、反論する隙もなくエレベーターに押し込まれた。
「……あの」
「うん?」
「ベッドの境界、絶対に越えないでください」
慈雨月は笑う。
「保証はしない」
花緒の心臓が、最悪の状況を想定して暴れ出した。
*
部屋に入った途端、花緒は勢いよくソファへ駆け込み、膝を抱えて小さくなった。
「……そこ、寝るところじゃないよ」
ベッドの上から、慈雨月が軽く笑いながら言う。
「知ってます」
「なら、こっちにおいで」
「嫌です」
ピシャリと拒絶する。慈雨月は困ったように笑いながら「またまた」とでも言いたげな顔をしたが、花緒は決して動かなかった。
「……そんなに嫌?」
「……」
「そんなに俺のこと、嫌い?」
ズキッと胸が痛んだ。
花緒が唇をぎゅっと結ぶ。慈雨月の声色が、少しだけ悲しみを帯びた気がした。
嫌いか、と聞かれると、それも違う。ただ、翻弄されるのが苦しくて、どうしても素直になれなかった。
「このままずっと俺のこと拒絶し続けるつもり?」
「……」
「どうやっても、俺と君は結婚して、華上の血筋を残すことは決まってるのに?」
慈雨月の声は静かで、悲しげだった。花緒の心臓がぎしりと嫌な音を立てる。
「……」
言葉を返せないまま、指をぎゅっと握りしめる。
「慈雨月様、は……」
震える声を押し殺しながら、ようやく言葉を絞り出した。
「慈雨月様は、私を揶揄って楽しんでますよね?」
「え?」
「私にいつも……際どい悪戯をして、私の反応を見て楽しんでますよね」
目を伏せたまま、やっとの思いで言葉を継ぐ。
「私は口じゃ貴方にかなわないし……行動で抵抗するしかないんです」
慈雨月は少しの間、黙った。長い沈黙の後、小さくため息が聞こえる。
「……ごめんね」
顔を上げると、慈雨月が悲しそうにこちらを見ていた。
「君が可愛いから……つい、揶揄いたくなるんだ」
「……」
「もしかしたら……照れ隠しだったのかもしれないね」
どこか自嘲気味に微笑む。
「俺、そんなに君に嫌われることしてた?」
そう言われると、花緒の心がちくりと痛んだ。恥ずかしかったけど、その好意はむしろ嬉しかった。馬鹿なのかとは思ったけど。
――小さく横に首を振る。
「……私も……」
膝を抱えていた手を、ゆっくりとほどく。
「ごめんなさい……」
花緒の謝罪に、慈雨月は少し驚いたように目を見開き、すぐにふっと微笑んだ。
「いいや」
彼の声は、いつもより優しく、深くなっていた。
「……おいで」
花緒は少し迷うようにまつげを伏せ、それでも、ゆっくりとソファから立ち上がった。
躊躇いながらも、慈雨月のもとへ歩み寄る。ベッドの傍まで来ると、慈雨月は花緒の頭をそっと撫でた。
「今までごめんね」
大きな手のひらが髪を梳く。それから、そっと花緒の体を引き寄せ、胸元に抱き寄せた。
驚くほど、花緒の体は抵抗せずに腕の中に収まる。柔らかな髪が触れて、心臓の鼓動が静かに響いた。
「もう、揶揄うのやめてほしい?」
囁くように尋ねると、花緒は小さく首を横に振る。
「……そう」
慈雨月の口元が和らぐ。
「本当は……普通に君と接した時に、君に拒絶されるのが怖かったんだ」
静かに吐き出された言葉に、花緒の胸がずきりと痛む。抱かれているのは自分のはずなのに、慈雨月の方がずっと不安そうだった。
慈雨月は腕をほどき、まっすぐに花緒を見つめる。
「今日はちょっと……恋人らしく甘えても、引かないでくれる?」
その問いに、花緒はまつげを伏せ、小さく息を呑んで——それから、囁くように答えた。
「……その方が、好ましいです」
「……そう」
慈雨月の胸が熱くなる。ゆっくりと、慈雨月は花緒の頬に手を添える。
「大丈夫、君の嫌がることはしないから」
囁く声に、花緒の肩がわずかに震える。
それから、二人の顔がゆっくりと近づく。
触れ合う吐息。
頬がかすかに擦れ合い、そして——熱い唇が、そっと触れる。
何度も、何度も、触れては、離れる。
慈雨月の指が頬を撫で、髪を梳く。
次第に深く、強く。いつもの軽い戯れではない。
彼の手は、いつもよりも優しく、そして迷いなく花緒の肌に触れていた。
その感触に、花緒の身体が震える。
「……っ、……」
「……花緒」
耳元で囁かれた名に、背筋が震える。全身がじわじわと熱を帯び、体の奥が切なく疼く。
──彼は、優しくて、誠実だ。
押し倒されたベッドの上、覆いかぶさる彼の体温がすぐそばにある。瞳を見つめられるだけで、心臓が跳ねた。
――愛されてる。
受け入れてしまえ。
このまま受け入れてしまえば、楽になれる。
幸せになれる。
そう、彼の腕の中で、全てを忘れてしまえたら、どれほど幸せだろう。
──なのに。
涙が、頬を伝った。
「……花緒?」
慈雨月の動きが止まる。
花緒は唇を噛み締め、震える声で言った。
「……私は……幸せになる権利が、あるんでしょうか」
咳を切ったように、涙が溢れる。
「亜蓮様が……どんな目にあっているのかもわからないのに……」
息が、苦しい。
「こんな気持ちになってて、いいんでしょうか……」
愛されれば愛されるほど、押し寄せる自己嫌悪と罪悪感が、胸を締めつける。
私だけが、幸せな気持ちになっていいはずがない。
でも、これは華上を残すためには必要な行為で。
華上の血を引いた人間が慈雨月しか残っていない今、跡目を残すことは一刻を争うことで。
早く後継を産まないと……
でも、でも……!
「っ……亜蓮様っ……亜蓮様っ……! ごめんなさい、ごめんなさいっ、私……!!」
花緒は嗚咽を堪えきれず、慈雨月の胸に顔をうずめた。
「……考えすぎだよ」
慈雨月の優しい声が、頭上から降ってきた。そして、壊れ物のように優しく花緒を抱きしめる。
「ごめ、なさ……慈雨月様、わた、わたし……」
「……いいんだ。俺もごめん」
その言葉が、優しすぎて、余計に涙が止まらなかった。
「……大丈夫。もう寝よう。君を傷つけることはしたくない」
何もかも包み込むような温もりに、花緒は身を委ねる。そっと目を閉じ、やがて、安心したように意識を手放した。
*
朝の光が、柔らかくカーテン越しに差し込んでいる。
花緒は、ベッドの上でぼんやりと窓の外を眺めていた。
白いシーツの上、軽い寝間着のまま腕を抱く。夜の余韻が、まだ心の奥に残っていた。
自分は、昨夜、慈雨月を拒んだ。けれど、それは彼のことが嫌いだからではなく——。
思考の海に沈みかけたその時、バスルームの扉が開く音がした。
「おはよう」
振り向くと、シャワーを浴びたばかりの慈雨月が現れた。濡れた髪をタオルで拭きながら、花緒の隣に腰を下ろす。
「君が何を拒んでいたか、やっとわかった気がするよ」
そう言って、優しく頭を撫でる。花緒は申し訳なさそうに顔を上げた。
思えば、彼女が拒んでいたのは、
――喜びや、幸せ、そのものだったのかもしれない。
自分だけが生き残り、自分だけが幸せになろうとしている、罪悪感。あの日から一度も、慈雨月は花緒の笑った顔を見たことがない。
「……花緒は優しいな」
慈雨月の手は、変わらず優しく、迷いない。彼に触れられることに、もはや抵抗はなかった。それなのに、胸の奥が、痛む。
「でも、君が俺のことを嫌ってるわけじゃなくてよかった」
ふっと、慈雨月が微笑む。
「……慈雨月様のことは、好きです」
花緒の声は、震えていた。
「でも、これ以上は……私……」
慈雨月は、その言葉を遮るように、穏やかに微笑んだ。
「初めて好きだって言ってくれたね。……今は、それだけで十分だよ」
花緒の肩を抱き寄せ、優しく腕の中に包み込む。
「……もう一回、言ってくれるかな?」
顔を離し、慈雨月はふっと首を傾ける。花緒は、迷いながらも、彼の瞳をまっすぐに見つめた。
「……慈雨月様が、好きです」
そう告げると、慈雨月は満足そうに微笑み、花緒に口づけた。
(でも……)
花緒が目を伏せる。慈雨月の好意を素直に受け取れない理由は、それだけではない。
自信がないのだ。
自分が、この人の隣にいていいのか。
僅かな睡眠でも動ける体。人間離れしていく身体能力。魔力に体が馴染めば馴染むほど、元の自分から遠のいていく感覚がする。
――私はまだ……人間なんだろうか。
「ふふ、なんだか新鮮だね」
「……えっ?」
不意に慈雨月がくすりと笑って、花緒は我に帰った。
「あ……な、何がですか?」
慈雨月は花緒の頬を指で撫でながら、わざとらしく言った。
「君がこんなふうに素直になるのがさ」
「えっ……!? べ、別に……今、素直になったつもりは……!」
「ううん、なったよ」
嬉しそうに笑いながら、慈雨月は花緒の両手を取る。
「でもね、花緒」
不意に、慈雨月は声を低くした。
「亜蓮のことだけど……もし見つかれば養子に取ろうと考えてる」
「……え?」
花緒の思考が真っ白になる。
「もし無事に見つかっても、あいつはまだ小さいし、何の後ろ盾もないだろう。だから、あいつが自立するまでは面倒を見るつもりだよ。もちろん……それには、君と戸籍上の夫婦になる必要があるんだけど」
穏やかだが力を持った声に、花緒は呆然とした。
何故だろう。思考が止まる。
(――そう、か……。私が慈雨月様と結婚すれば、亜蓮様を守ることができる。家族として、そばにいられる……)
この結婚は、亜蓮のためにも、なる……。
「な、悪い話ばかりじゃないだろ?」
真剣に考え込む花緒に、慈雨月はふっと微笑む。
顔を上げた花緒の目は、今までになく素直で穏やかだった。
「……はい」
「ふふ、良かった」
慈雨月は嬉しそうにしながら手を伸ばし、ベッド脇の引き出しの中から何かを取り出す。
花緒はぼんやりと見ていたが、次の瞬間、その手元のものを認識して——。
「へ!?!?」
声にならない悲鳴をあげた。
「な、な、なっ……え、え、ちょっと、何持ってるんですか!?」
「ん?」
慈雨月は無邪気な笑顔で、小さな箱を指先で示す。
「こっちはいいよね?」
「よくないです!!」
花緒は慌ててベッドの上で後ずさるが、すぐに腕を引かれ、慈雨月の膝の上に戻された。
「……これが婚約者としての妥協ラインだと思うんだけど、どうかな?」
「なっ、な、な……!!??」
耳元に意地悪く囁かれる声。言葉にならず、花緒の顔が真っ赤になる。
「あ、もちろんこれは花緒が一人で使うためのものだよ? まあ、俺がちょっと手伝うことは……あるかもしれないけど」
「ま、待ってください、待って!? 何言ってるんですか!?」
花緒の顔はみるみる真っ赤になっていく。
「でも、一線は越えないよね?」
「な、なりませんけどっ!! それ以前の問題ですっ!!」
花緒が叫ぶと、慈雨月は楽しそうに目を細めた。
「ダメ?」
「絶対ダメです!!!」
「つまらないなぁ。 じゃあ持って帰っていいよ」
「いりません!!!」
慈雨月の胸元を叩いて抗議する花緒に、慈雨月はからからと笑う。そして、ふと微笑むと、あの大人の笑顔で言った。
「怒ったところも好きだよ」
「〜〜〜っ……!!」
花緒は耳まで赤くしながら震えた。
この人は、本当にっ……!!
「もう、こ、この話は終わりですから!!」
真っ赤になって、逃げるようにバスルームに消える。
そんな花緒の背中を、慈雨月は手をひらひら振りながら愛おしそうに見つめた。
「……本当だよ」
ぽつりと、慈雨月が呟く。
――揶揄いたくなるんだよ。
少しでも、君の自由な感情が戻るように。




