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*番外編1 「初めての逢瀬」慈雨月×花緒


こちらの番外編はスキップしても本編に支障の無い恋愛パートです。

濃いめの恋愛展開が苦手な方はご注意ください。

読んでいただければ慈雨月と花緒の1年間での関係の深まりや、花緒の心の葛藤を感じてもらえる内容にはなっております!




 夜——。

 森の麓に、闇に溶け込むように黒いミニバンがひっそりと停まっていた。


 静寂に包まれた車内から、慈雨月(じうつき)が音もなく降り立つ。

 夜気はひんやりと肌を撫でるが、それ以上に胸の内を冷やすのは、待つ時間の長さだった。


「……」


 何度も指を組み、ほどく。落ち着かない心を誤魔化すように夜風を吸い込んだ、その時——。



「お待たせしました」


 木立の向こうから現れたのは、複雑な表情を浮かべた花緒(はなお)だった。

 片脇にヘルメットを抱え、僅かに乱れた横髪を耳にかける。


 ――会えた。たった一言の挨拶すら、慈雨月の胸に甘く響く。

 

 無事でよかった。それだけの想いが、理屈よりも早く体を動かした。そっと、だが迷いなく腕を伸ばし、花緒を抱きしめる。


「おかえり」


 揶揄(からかい)も軽口もない、ただ愛しい人を迎える声音だった。

 腕の中で、花緒が小さく息を飲むのがわかる。けれどその表情は、どこか、申し訳なさそうだった。



* * *



 車内に戻ると、慈雨月はふっと緊張を緩め、運転席のシートに身を預けた。花緒はヘルメットを足元にしまっている。


「バイクはどうしたんだ?」


「途中で停めてきました」


「歩いてくるなら、言ってくれたら良かったのに」


 苦笑するが、花緒は答えに迷ったように目を伏せるだけだ。慈雨月はふっと笑って話題を変える。


「今日は何をしたい? 食べたいものはあるかい?」


 静かで穏やかだが、どこか嬉しそうな声だった。


「保存食ばかりでは、食べた気がしないだろう」


 だが、花緒は何も答えない。


「……特にないなら、私が決めてもいいかな?」


 返事を待たぬまま、慈雨月がハンドルに手を伸ばしたその時。


「……っ」


 ふいに、咳が漏れる。


「大丈夫ですか?」


 心配そうに覗き込む花緒に、慈雨月は息を詰まらせながらも苦笑した。


「いや、大したことはない。ただの風邪だよ」


 そう言いながらも、咳を覆うように口元を肘で押さえた。


「すまない、マスクをさせてくれ」


 悔しそうに、ポケットから白いマスクを取り出す。


「今日はご自宅で休みましょう」


「……え?」


 驚く彼の反応に、花緒は少しきまり悪そうに目を伏せる。


「……体調が悪い時は、休まれるべきです」


 けれど、辿り着いたのはグランドホテルのスイートルームだった。共用のリビングスペースにキッチンまでついており、寝室は個室が二つついていた。


「……ご自宅で、と言ったはずですが」


「家だと仕事がしたくなってしまうから、嫌なんだよ」


 眉を寄せる花緒に、慈雨月は苦笑する。何気なくミネラルウォーターをグラスに注ぎ、それを一口含む。


「君の分も」


 手を差し出され、花緒はわずかに躊躇しながらも、グラスを受け取った。


「……ありがとうございます」


 静かに水を口に運ぶ。やがて、カウンターの上に、二つのグラスが並んだ。


「おいで」


 静かな声が、誘うように響く。慈雨月が、柔らかく手を広げた。

 だが、花緒はその場から動かない。

 慈雨月は微笑を深め、ほんの少し強引に、腕を伸ばした。


 ——そのまま、花緒を引き寄せる。思わず息を詰める花緒を、慈雨月の腕がしっかりと抱きしめた。


「やっと、会えたね」


 低く甘やかな囁きが、耳元に落ちる。回された腕が、花緒の腰に絡みつくように強くなる。


「……こうでもしないと、君は私に振り向いてくれなかったろうから」


 ――どきっ、と花緒の頬が熱を帯びる。


「不謹慎だが……この状況を少し、嬉しく思ってるよ」


 その言葉に、花緒は息を呑んだ。慈雨月の腕が、そっとほどかれる。


「……」


 花緒はわずかに戸惑いながらも、抱きしめられていた温もりが名残惜しく感じた自分に気づき、ぎゅっと胸の前で拳を握る。

 そんな彼女の様子を見透かしたか、慈雨月はころっと雰囲気を変えた。


「ここ、温泉があるんだけど、入る?」

「え?」


 拍子抜けするほど軽いトーンに、思わず目を瞬かせる。


「せっかくだし、ゆっくりしてきなよ」


 慈雨月は笑いながら促し、花緒は小さく頷いた。



* * *



 湯船に体を沈めると、じんわりと全身が温まっていくのがわかる。


「……はぁ」


 花緒は小さく息を吐き、天井を見上げた。広い浴場に一人きり。響くのは、微かな湯の波紋の音だけ。


 ——気持ちいい。

 心の奥に張り詰めていたものが、ふわりと解けていくようだった。


 ゆっくりと体を洗い、ドライヤーで髪を乾かしながら、無意識に慈雨月のことを考える。


 ——なんだろう、あの人は。


 まるで、流れのままに身を委ねてもいいような錯覚に陥る。慈雨月だって、突然身内を亡くした傷はまだ癒えないはずなのに。


(――気を、遣ってくれてるんだろうか……。)


 浴場を出ると、カウンターの前で缶コーヒーを飲む慈雨月の姿があった。無造作に首だけ傾ける彼と目が合う。


「少し散歩しようか」


 夜風が、湯冷めした肌を撫でる。人もまばらな、夜の駅前。駅前の道は静かで、足音がやけに響いた。


 見上げると、星もいくつか瞬いている。温まった体が少し冷えるけれど、澄んだ空気が心地よかった。


 車の音、遠くの川のせせらぎ、時折響く電車の振動。誰も、自分を気にする者はいない。平穏に溶け込むような、夜。


 ふと、慈雨月が歩みを止める。指差す先には、駅前の雑然とした台湾料理屋。


「ここしか開いてないみたいだ」


 そう言って、迷いなく引き戸を開けた。暖かな光とふわりとした油の香りに包まれる。


 店内は地元の人々で賑わっていた。華金のサラリーマン達、卓を囲む老人達、小さな男の子と母親がテーブルの隅に身を寄せ、笑い合う家族が大皿を分け合う。


「すぐテーブルが空くって」


 店員の言葉通り、間もなくテーブル席がひとつ空き、二人はそこに腰を下ろす。適当に一品ずつ頼み、料理を待つ間、花緒は周囲を見回した。


 なんでもない、日常。ただの金曜日の夜。けれど、それがやけに眩しく見えた。


 ——ずっと、遠く離れていた世界。


 やがて運ばれてきた中華飯の湯気が、ぼやけた視界に広がる。

 途端、熱いものが込み上げた。涙が零れる。止めたかった。でも、どうして泣いてるのかわからなかった。

 ただ、冷たく傷ついた心を柔らかくほぐされているみたいで。

 世界が、あまりにも普通で。温かくて、優しくて。幸せと悲しみが同居した、この当たり前の世界に、普通の世界に……ずっと帰りたかった気がして。


 溢れる涙は抑えきれず、頬を伝っていく。言葉もなく、一口、二口。

 花緒は黙って食べた。口を動かしながら、涙だけを流し続けた。

 泣いている時間はない。そう思うのに、涙は後から後から零れ落ちていった。





 ――店を出ると、夜風が頬の熱を冷ましていく。

 

 ふと顔を上げるとホテルの灯りが、ビルの上にぽつぽつと灯っていた。信号機の色が、赤から青へと変わる。また、光が涙に滲む。


「……」


 視界がぼやけていく。鼻をすすり、袖で涙を拭う。堪えきれなくなり、橋の手すりに手をかけ、嗚咽をこぼした。


 川の音が、優しく耳を撫でる。

 慈雨月は何も言わない。ただ、隣にいて、目を細め同じ景色を眺めていた。


 ――残された二人。

 街灯の光が、川面に淡く映る。その光と闇の中に、二人だけが並んで立っていた。

 花緒の涙が、静かに止まるまで。



* * *



「……ありがとうございました」


 部屋に戻ると、花緒は少し恥ずかしそうに頭を下げた。


 暖房の効いた部屋のぬくもりが、冷えた肌の冷たさをじんわりと溶かしていく。慈雨月は微笑みながら、ゆるやかに首を横に振った。


「少し顔色が戻ったみたいでよかったよ」


 そう言ってキッチンへ向かい、お湯を沸かし始めた。花緒が思わず自分の頬を触る。……そんなに酷い顔をしていたんだろうか。


「……」


 花緒が彼の後ろ姿をじっと見つめる。


「……あの、少し休まれてはいかがですか?」

 

「ん?」


 慈雨月が顔を上げる。

 そう、ずっとこの人は座っていない。さっきから、ひとときも休むことなく、自分の世話を焼き続けてくれている。


「私がやりますから、座ってお休みになってください」


 そう申し出ると、慈雨月は目を伏せた。言葉を探すように、視線が揺れる。気まずそうに目を逸らし、何か言いかけては、また閉じる。強ばった顔で、ぎこちなく笑った。


「いや……座りたくないんだ」

 

「……?」


 意味のわからない返事に、花緒が小さく首を傾げる。


「ですが、お休みになったほうが良いかと」


 そう言って、彼女はためらう慈雨月をそっとソファの前へ導いた。

 慈雨月はその場に立ち尽くしたまま、しばし沈黙する。そして、ふっと短く息をつくと、


「じゃあ……」


 花緒を見下ろしながら、微笑んだ。


「君も、来てくれる?」


 静かに、どこか甘えるような眼差しを向ける。

 花緒の胸がどきっと鳴った。

 慈雨月はゆっくりと腰を下ろし、片手を差し出す。


「おいで」


 まるで懐に誘うようみたいに。花緒は一瞬ためらったものの、おずおずとその手を取る。そして、そっと隣に腰を下ろした。

 ほんの少しだけ触れる肩先から、慈雨月の温もりが伝わる。繋がれたままの手。熱の移った指輪。


「……ごめん。今日はもう遅いし、休もう」


 感情を押し殺すような言葉とともに立ち上がると、大きくて温かい手が離れる。


「おやすみ。ゆっくり体を休めなさい」


 そのまま視線を戻すことなく、静かに個室へと消えていった。

 残された花緒は、ソファの上でじっと自分の手を見つめる。ほんの数秒前まで、慈雨月の温もりがあった手を——。



* * *



 マスクを外しベッドに横たわり、慈雨月は天井をぼんやりと見つめていた。


 部屋はしんと静まり返り、聞こえるのは自分の呼吸と、ときおり漏れる咳の音だけ。


 乾いた喉が痛む。この歳になっても、いまだに病弱な体が憎い。季節の変わり目は、無理をするといつもこうだ。


 目を閉じ、浅く息を整えたその時——

 静かに、ドアが開いた。

 気配に気づき、驚いて視線だけを動かす。足音はとても小さい。ためらいがちに近づいてくる気配。


 そして次の瞬間、ベッドがわずかに沈む。


(……え?)


 息が止まった。そっと身を滑らせるように、花緒が布団に入り込んでくる。——正面からではなく、背中合わせに。


 薄い布越しに伝わる温もりに心臓がばくばく高鳴る。


(……おいおい)


 目を伏せ、唇を噛む。彼女がどんな格好なのかを思い浮かべた途端、余計に意識してしまう。

 体温を感じる距離。それなのに、花緒は何も言わない。


「……花緒?」


 小さく呼びかけると、彼女の肩がぴくりと震えた。少しして、震えるような声が落ちる。


「……そんなふうに避けられると、不安になります」


 その一言が、胸の奥を締めつけた。しばし沈黙ののち——


「……ははっ」


 思わず笑みがこぼれた。


「先に逃げたのは君だったのに」


 からかうように言うと、花緒が気まずそうに身を縮める気配が伝わった。


「花緒」


 静かに名を呼び、体を捩って彼女を抱き寄せる。その瞬間、花緒の目に、じわりと涙が浮かぶ。


(——この人は、私の婚約者なんだ)


 その実感が、胸の奥を熱く満たす。

 もう、私達しかいないんだ……。


「……あ」


 慈雨月が小さく息を漏らした。

 不思議そうに顔を上げる花緒。慈雨月の表情が、どこか歪む。


「……ごめん」

「え……?」


 花緒がきょとんとした、その直後。


「……っ!?」


 一気に顔が赤くなる。


「す、すみませんっ、私、これで——!」


「こら、観念しろっ」


 慈雨月が笑いながらしっかりと抱きすくめた。


「いやいやいやいやっ!」

「いやじゃないくせに」

「な、なん、で……っ!」


 もがく花緒の手首を取り、慈雨月は愛おしそうに花緒を見つめる。


「……もう少し、こうしていよう?」


 低く囁かれ、たまらず花緒はぎゅっと目を閉じた。

 心臓がうるさい。体が熱い。


(だめ……)


 けれど、心地よくて離れられない。

 ずっとあの冷たい町で一人だった。焦がれたように本能が求めた……人の体温だった。


「……っ」


 呼吸を整えようとしたその時、慈雨月の指が首の後ろをそっと撫でる。甘く痺れる感覚が、背筋を駆け抜ける。その反応に気づいたのか——


「……キス、してもいい?」


 耳元で囁かれた声に、心臓が跳ねた。

 慈雨月はそれを察したように笑い、ゆっくりと顔を寄せる。


 ――この人は、私の……


「──大好きだよ」

 

 唇が重なる。

 最初は触れるだけのキスだった。

 ためらいがちな、けれど確かな想い。


 それだけで胸が痛いほど高鳴る。慈雨月の指が髪に触れた瞬間、花緒の体がぴくりと震える。


 一度離れて見つめ合い、もう一度、そっと重ねる。


 今度は少しだけ、長く。

 離れて、また重なって。

 優しく、何度も、何度も。

 

 ――心の傷が、じわじわと癒えていく。


 その時、


「……っ!」


 唇に沿う熱に、驚いて身を引こうとしたが、


「……っ、ごめん、もう少し」


 慈雨月が囁き、少し強引に組み敷きながら深く唇を重ねた。


 呼吸すら奪われるほどの、甘くて深い口づけ。その熱が、心の奥まで染み渡る。


 天井が蕩けていく。体温が熱くて、気持ちいい。足りないものが、埋められていくみたいだ。


「……花……」


 唇が離れ、互いの息が混ざり合う程近くで、慈雨月の瞳が花緒を覗き込む。


「……俺のものだね」


 髪を梳く指が、震える花緒の頬をなぞる。


「ずっと、ずっと欲しかった……」


 その目が切なく揺れる。


「戻ってきてくれて……ありがとう」


 その声に、安堵と哀しみが滲む。花緒の胸が詰まる。


 ——ああ。

 この人は、本当に、私のことを……。


 花緒の指が、慈雨月の胸元に触れた。


(それなのに私は、この人を置いて……)


「……慈雨月、様……」


 その瞬間、慈雨月が口元に笑みを浮かべ、何かを堪えるようにぐっと手を握る。

 そっと身を離し、またあの大人の目で笑った。


「……ごめん。続きは、ちゃんと元気になってから」

 

「え……」


 花緒が赤くなって固まる。


(そ、そうだった……風邪……!)


「な、いや、なんで謝るんですかっ!」


「いや、君は今がいいかもだけど……俺はするなら万全の時がいいし」


「なっ!? い、意味わかりません!」

 

「ふふっ」


 慈雨月はベッドに倒れ込み、やるせなく笑う。


(でもこれは……ちょっと後悔しそう)


 額に腕を乗せて、小さくため息をついた。

 が、何か思い直したように体を起こしかけ、すぐにまた崩れ落ちる。


「えっ、うそ!? やだ、大丈夫ですか!?」

「ああ……」


 花緒が慌てて手を伸ばすと、慈雨月は首を横に振る。


「……大丈夫。それより、風邪うつしたらごめん」


「それは、別に構いませんが……」


「そうだね。うつったなら、君ももう少し長くここにいられる」


「も、もうっ……!」


 慈雨月は花緒の手を取ると、指輪を確かめるように親指で何度も撫でる。愛おしそうに、不安を払うように。そして、包むように手を握った。


「おいで」


 少し顔をむくれさせていた花緒が、おずおずとその胸に身を預ける。


「……おやすみ、花緒」

「……おやすみなさい」


 互いの温もりを確かめながら、夜は静かに更けていった。



* * *



 ──朝。

 まぶたの裏がうっすら明るくなり、花緒は静かに目を開けた。


 隣には、穏やかな寝顔の慈雨月。その額にそっと手を当てる。


「……良かった」


 熱の引いた肌に、小さく安堵の吐息を漏らす。


 昨夜、胸を焦がしたあの熱は、彼のものだったのか、自分自身のものだったのか。今となっては、もう、わからない。

 でも、そんなことは、今はどうでもよかった。


 彼と私は、まだ、生きている。



* * *



 黒いミニバンが朝の山の麓に静かに停まった。

 

 エンジンが止まり、車内に静寂が落ちる。窓の外には、山へと続く細い道。これから進むべき場所が、その先にある。


 花緒は一度深く息を吐き出し、ゆっくりとシートベルトを外した。


「お世話になりました」


 ドアに手をかけながらそう言うと、助手席にいた慈雨月が、少しだけ眉を寄せる。


「やめてくれよ。他人じゃあるまいし」


 気怠げな笑みを浮かべ、肘をついたまま頬杖をつく。


「お世話されましたーって言うならまだ許す」

 

「うっ……」

 

「なんなら、惚れ直しましたでもいいよ」

 

「言いません」


 呆れたようにそう返しながら、花緒は目を伏せ、唇を噛んだ。名残惜しさが、胸の奥で疼く。――行きたく、ない。


 その気持ちを察したように、慈雨月がそっと手を伸ばし、花緒の肩を引き寄せた。

 広い胸に顔を埋めた瞬間、あの夜の温もりが蘇る。

肌越しに伝わる鼓動、体温、低く囁く声。全てがまだここにあって「行かないで」と言うのに、私はまたあそこに戻ろうとしている。


「――頑張っておいで」


 慈雨月が言った。その声に、花緒は祈るように腕を回す。

 やがて、二人の体が静かに離れた。名残を惜しむように、慈雨月が花緒を見つめる。


「……いってまいります」


 そう言った瞬間、慈雨月がわずかに目を丸くした。数秒、驚いたように花緒を見つめ——やがて、ふっと目を細めて笑う。


「……ああ、いいね、それ」


 微笑みながら、慈雨月はそっと花緒の頬に触れた。


「ちゃんと、帰ってくるんだよ」


 静かに囁いて、慈雨月が身を屈める。そっと唇を重ねた。


「いってらっしゃい」


「……行ってきます」


 ヘルメットを抱え、花緒は静かにドアを開ける。車を降りて、花緒は慈雨月に背を向けた。彼の視線を背中に感じながら、山へと続く道を踏みしめていく。


 黒いミニバンのドアが静かに閉まり、エンジンが再びかかる音がした。


 振り返らなかった。

 引き留めなかった。


 けれど——きっと。

 最後まで、互いの姿を見つめていた。


 

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