第2話 「逢魔時」
「ご当主が危ない状態でして……亜蓮様、雪乃様。少しの間離れます」
夕方前、花緒が急に出発の準備を始めた。花緒は僅かな手荷物を持って、屋敷の門の前で申し訳なさそうに眉を下げる。
「ええっ! そんなのずるい! 私も父様に会いたい!」
雪乃が駄々をこねるのを横目に、亜蓮は口をつぐんだ。父の容体が悪いというのは、薄々わかっていた。だけど、何か言おうとすると喉が詰まるみたいで、結局何も言えない。
「申し訳ありません。あちらに着いて落ち着いたら、テレビ電話を繋ぎますから」
花緒の視線が亜蓮に向く。行くのは花緒の方なのに、彼女の方が心細そうだった。
「亜蓮様、私が不在の間の指導は他の者に任せましたので、よろしくお願いいたします」
「わかった」
亜蓮がしっかりと頷いた。主人の頼もしい返事に、花緒の表情が僅かにほっと和らぐ。
そのやりとりを、雪乃はじーっと見つめていた。
「……あーあーいいなぁ〜〜」
わざとらしいくらい妬ましそうな雪乃に、亜蓮はむっとしかめ面になった。
「まだ言ってるの? 僕達は行けないんだってば」
「違う! 亜蓮はこんなに優しい執事がいていいなぁって! なんで私には誰もつかないかなぁ〜?」
素っ頓狂な声で大袈裟に不満を言う雪乃に、亜蓮は唖然となった。花緒はきょとんとしたが、ぷっと吹き出してくすくす笑う。そんなの、雪乃の破天荒さにみんなついていけなくなったからに決まってる。
「ねえ亜蓮、花緒ちょうだい! お願い! 代わりになんかあげるから!」
「やだよ……! 僕の執事なんだから……!」
微笑ましいやりとりに、花緒はちょっと誇らしそうな微笑みをくすりと浮かべた。
「それだけ、雪乃様の才能は突出しているということですよ。でもその錫杖は、元の場所にお戻しくださいね」
「はぁーい」
「そうそう、父上のことは安心して任せなさい」
ひょこっと、背の高い茶髪の男が門から顔を出した。
【慈雨月 遙霞 34歳 亜蓮の叔父】
都会で社長業をやっている亜蓮の叔父――父の弟の慈雨月だ。
「父上のところには私と花緒が行くからね。雪乃、亜蓮、君達はいつも通りに過ごしなさい」
「慈雨月も、なんでよりによって花緒を連れ出すの……?」
亜蓮が非難めいた目で慈雨月を睨む。他に手の空いている者もいるだろうに、この男は隙あらば花緒ばかり連れ回そうとする。
「亜蓮の教育係が終わったら、花緒は私の秘書になってもらうからね。今から慣れてもらわないと」
「今のは初耳ですね……」
「あれ、そうだったかな?」
花緒が冷めた声でため息をつくのに対し、慈雨月は調子良く笑う。
姉といい慈雨月といい、どいつもこいつも好き勝手を……。納得いかない表情で、亜蓮が密かにため息をついた時だった。
「そうよぉ〜! パパのことはママ達に任せて、子供は元気に、しーっかり修行なさあ〜〜い!」
振り返ると、よそ行きの着物と大きな旅行カバンを持った女性が輝かんばかりの笑みで立っていた。
もう一人、自由奔放な人間が残っていた。……母である。
【華上 芽覚 ?歳 亜蓮の母】
「奥方様も、お勤めがあるでしょう……!」
「ええ〜都会のパンケーキぃ〜!」
不満そうに唇を尖らせる母が、花緒に屋敷の中へ押し返されていく。
しょうもないやり取りを見て、不安そうだった亜蓮の顔に少しだけ笑みが戻った。そんな亜蓮の顔を見て、花緒は密かに胸を撫で下ろす。
「……亜蓮様」
花緒の優しい声に、亜蓮が顔を上げる。
「先程のお言葉、執事冥利に尽きます。私も精進いたしますから、亜蓮様もしっかり鍛錬なさってくださいね」
「うん、わかった」
迷いのない主人の返事に、花緒も安心したように頷いた。
立ち上がり背を向けた彼女の後ろ髪で、銀の簪――その身の生涯を己が主人に尽くすと決めた従者の証が、西陽を受けて一瞬煌めく。
「それでは、行ってまいります」
「お土産楽しみにしてるね〜!」
花緒は亜蓮達に向かって、何度も頭を下げながら屋敷を去っていった。
振り返る彼女の顔には、やはり言葉にしがたい不安が滲んでいた。その言い知れぬ表情に、亜蓮は胸の奥がざわつくのを感じる。
――どうしてだろう。何か、とてつもなく嫌な予感がする。今花緒を追わないと、二度と彼女に会えない様な気すらする。
不安になって空を見上げる。空は少し日が傾き黄昏色を帯びはじめていた。
全身に生ぬるい風が通り過ぎる。胸の奥に小さな針が刺さるような痛みが走り、亜蓮は立ちすくむ。
「亜蓮、来なよ! いい場所教えてあげる!」
突然、雪乃が錫杖を持ったまま走り出した。はっとなって、亜蓮は慌てて振り返る。
「あっ……! それ先に返すんじゃなかったの!?」
「まだ使うのー!」
幼い二人が無邪気に駆け出した。ゴウッという音と共に、周囲の桜の木がざわめきだす。生ぬるい風に煽られ、無数の花びらが散り乱れる。
景色を覆い尽くす異様な桜色が、遠ざかる二人の影を消していった。
* * *
都会の景色が近づくにつれ、車窓を眺める慈雨月は穏やかながらも寂しげな表情を浮かべていた。
「都会の喧騒には慣れたつもりだが、こうして久々に田舎に戻ると、静けさが恋しくなるな」
隣に座る花緒は緊張した面持ちで俯く。
(なぜだろう……さっきから胸騒ぎが止まらない。)
引き返せ、今すぐ戻れと、何かがずっと背中で囁いているみたいだ。今帰らないと、取り返しのつかないことになると。
「……お戻りになるのは本当に短い間だけなのですか?」
「兄上の容体次第だがね。とはいえ大丈夫だろう。あれはそう簡単には死なないよ」
どこか冗談交じりの声色だったが、花緒の視線は足元に固定されていた。胸の中の焦燥感は、消えるどころか増していく。車内放送が響き、目的地まで列車が停車しないことを告げた。
不安な気を逸らすために、花緒は口を開いた。
「慈雨月様……この頃夢を見るとおっしゃいましたね」
「ん? ……ああ、妙な夢だったよ。大きな門を見たんだ」
慈雨月は窓の外を見つめたまま、目を細める。
「空を裂くような門だったよ。大きくて、冷たくて、空は焼けるように赤くて――」
その言葉に合わせるように、新幹線の轟音が低く響く。花緒の心臓が、嫌な音に同期するかのように早まっていく。
「――まるで、地獄の夜明けのようだったよ」
その時、花緒の背筋に冷たい氷片が落ちた。
――耳元で、鈴の音が微かに響く。夕空の中、幼い亜蓮が不安そうに手を振る。その手を掴もうとする焦りも虚しく、亜蓮の姿は暗闇に溶けるように消えた。
……その時だった。
それが、起こったのは。
*
――あの日を忘れなどしない。
2029年4月13日 16時――。
後に逢魔と呼ばれる神格による大災害が、日本・遠都地方で発生した。
【 大厄災 逢魔時 】
黒い巨人のような姿をした、人形の異形。
無上の魔逢、あるいは畏みの主上とも呼ばれる、古代から伝説に残る魔の根源。今風に言えば……魔王、という表現が近いかもしれない。
巨人が放つ魔力により、日本の神仏霊妖は魔に落ち、異形と成って人々を襲った。
――しかし、これを封じるための超規模な結界術が発動。逢魔は遠都ごと幽閉されるも、結界の中は呪いと災禍に満ちた地獄となった。
こうして、呪われた都・『千年京』が構築されるまでの一連の事件を『逢魔時』と呼ぶ。
そしてこの日、華上の術師は、ただ私一人を残して皆――……
* * *
――夕方の少し早い時間だった。
突然、新幹線の窓越しに見える空が赤黒く染まりだす。破られた皮膚の傷口のように、空間が裂けた。地響きのような轟音と共に、その奥から現れた――「門」。
「あれは……!」
慈雨月と花緒が窓枠に身を乗り出す。
それは、この世の理を無視した異形だった。巨大な赤黒い門が空に、浮いている。
周囲の乗客達も異様な景色に驚き、ざわめきが広がる。不安そうに顔を見合わせる者、次々とスマホで撮影する者も現れる中、誰も何もできないでいた。
屋敷の方向だ。
花緒の胸に冷たい恐怖が走った。あの「門」が、屋敷を――いや、この世界を魔に染め、破壊しようとしているのだと直感的に理解した。
「亜蓮様っ!」
花緒は咄嗟に席を立った。だが、その手を慈雨月が鋭く掴む。
「どこへいく気だ!」
「決まってるでしょう!? 戻るんです!」
「だめだ! 今行っても巻き込まれるだけだ!」
「しかし!!」
花緒は振り払おうとするが、慈雨月は冷静に告げる。
「それに、この新幹線は終点まで止まらない」
絶望に目を見開いた花緒の耳を、新幹線の轟音が貫いた。
振り返る車窓、遠のく景色。ここが密室だと思い出した瞬間、花緒の心は絶望に染まった。
「亜蓮様……雪乃様……!!」




