表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
華炎戦譚 ー呪われた都で異形となりし神々を祓え ー  作者: 葵蝋燭
第二章 「永祭結界《アトノマツリ》 編」
19/43

第11話 「嘘つきと婚約者」



乾いた木の引き戸を前に、花緒は立ち止まり、息を整える。


 ――落ち着け。

 ――大丈夫。

 ――いつも通り……いつも通り……。


 だが、扉をノックしようとした花緒の手が止まる。


 その右手の薬指には、細く光る銀色がある。


 モモには、全ては話さなかった。


 それは花緒が悩みの本質から逃げたせいでもあるし、

それが自分の、一番汚い、知られたくないところだったからだ。


(まだ……話したくない)


 ふとした時、花緒の視線は嫌でも指輪に惹きつけられる。


 ……思い出してしまう。


 一番苦しかった時間を、()()()に縋って生きていた。


 大人になった亜蓮にどうしようもなく心が揺れるくせに、この人の存在を断ち切れなかった。


 この人のお陰で、私は今……戦えている。


「……中途半端だ」


 あれはまだ、逢魔時から一週間しか経たない日のことだ。



* * *



 およそ、1年2ヶ月前。

 千年京 某所。


 泥にまみれた指が地面を掻いた。


 花緒は必死に息を吸い込もうとする。その肺が刺すように痛い。


 雨が降っていた。

 冷たく、鋭く、世界を塗り潰すように。


「……はぁ、はぁ」


 体が重い。感覚のない手のひらが泥と雨に濡れていた。


(亜蓮様……どこ……)


 木の幹に手をつき、立ち上がる。引きずるように足を運ぶ。


 分かっていた。

 無理をしすぎていることも、今の自分に千年京へ挑む力などないことも。


 それでも、やめることなどできない。一刻も早く会いたい。


 この悪夢の中に、亜蓮がひとり取り残されているかもしれないのに、どうして私が立ち止まってなどいられるだろう。



 ――雪乃と見られる遺体を発見したのは、昨日だった。


 山道の奥、泥に濡れた斜面の傍らに、焼け焦げた黒い塊が横たわっていた。


 原形はほとんど留めていない。


 だが、傍らに転がる焦げたブレスレットと、屋敷から続いていた血痕が、それが雪乃であることを静かに示していた。


(亜蓮様を庇って、ここまで逃げてきたんですね……)


 千年京では、遺体が見つかること自体が奇跡だった。


 瘴気に晒された人間は、やがて人の形を失い、地に呑まれる。


 その中で、ここまで痕跡が残っていたということが、彼女の最後の意志を物語っていた。


(私が、見つけなければ……)


 何度も、何度も、気配を探る。

 全神経を研ぎ澄ませ、どんな微かなものでも、と。


 だが、応えるものは何もない。


 喉の奥が焼けつくように痛む。全身を走る痺れは、すでに限界を迎えた証拠だった。


 だが、その時。


 ズズ……ズズズ……


 地面が揺れる。

 雨に打たれる土の中から、何かが這い出してくる気配がした。


「——っ!」


 体に刻み込まれた警戒心が、刹那のうちに危険を察知する。


 地面に赤い目が鋭く光り、狐の影が立ち上がる。


 堕神——!


(影のみの低級神……! でも、今は戦う余力が……!)


 キシャーッ!!


「くっ!」


 跳びかかる黒影に、咄嗟に結界を張る。


 バキィンッ!!


 瞬く間に結界に亀裂が走り、砕ける。


 反動で弾かれ、崩れた瓦礫に叩きつけられる。

 太腿に、肉を裂く鋭い痛みが走った。


「――っ!!」


 鋭い痛みに悲鳴すら間に合わない。


 バシャ!!


 鮮血が、雨に散る。


 ――直後。


 ゾワ……ゾワゾワ……


 異様な気配が、全方位から湧き上がる。


「——!!」


 無数の魅魅蚓が、血に反応し、花緒を囲むように湧き出した。


 狐の影が跳躍し、眼前に飛び掛かる――。



* * *


 

 外界 某所。

 夜のホテルのロビー。


 慈雨月(じうつき)は足を止め、スマホの画面を見た。


(……もう、随分と連絡がつかない)


 花緒と最後に話してから、どれくらい経っただろうか。


 何度もメッセージや電話を入れてはみているものの、一向に反応がない。


 仕事の対応に追われていたとはいえ、もっと強引に連絡を取るべきだったか。


(——どこで、何をしてる?)


 ジャケットのポケットに突っ込んだスマートフォンを取り出し、着信履歴を確認する。


 スクロールしても、花緒の名前はない。


 その時——

 スマホが震えた。


 見慣れない電話番号だが、迷わず出る。


「はい。……えっ?」


 電話の向こうから聞こえてくる言葉に、慈雨月の顔色が変わった。



* * *



「花緒!!」


 遠くから男の呼ぶ声がした。


 石のベンチに腰掛けていた花緒が、呆然と顔を上げる。


 車のライトが雨粒を照らし、ぼんやりとした光の輪を作っている。


 その中から、濡れた茶髪を揺らしながら、背の高い男が一直線に駆け寄ってきた。


「花緒、私だ。わかるか?」


 その声に、花緒の喉がかすかに震えた。


 強く温かな手が、花緒の両腕を包む。


「……慈雨月、様……」


 支えられた途端、張り詰めていた力がほどけ、体がぐらりと傾ぐ。


 崩れ落ちる前に、慈雨月の腕がしっかりと受け止めた。


 花緒の服はあちこち裂け、血が滲んでいる。

 冷たい雨が肌を打ち、体は氷のように冷えきっていた。


「……申し訳……ありません……」

 

「謝らなくていい」


 低く優しい声が、迷いなく降りてくる。慈雨月はコートを掛け、肩を軽く押さえた。


「もう大丈夫だ」


 その言葉に、花緒はようやく力を手放し目を閉じた。


「こちらの女性は、お知り合いで間違いありませんか?」


 若い救急隊員が慎重に声をかける。


「誰か家族はいないかと聞いたら、貴方の名前を出したので……」


 困惑したように花緒を見る隊員の視線を、慈雨月は黙って受け止める。


「千年京内部で保護されていました。病院へ搬送しようとしましたが、行きたくないとの一点張りで、救急車にも乗ろうとせず……」


 慈雨月が花緒に目を戻すと、その瞼はすでに閉じられていた。



* * *



 花緒が目を覚ますと、そこは静かなホテルの一室だった。


(……ここは)


 温かく、広い室内を見渡す。


(どこかのホテル……?)


 ここにいてはいけない。

 そう思うのに、痛む体は動かない。


 ふと、後頭部に違和感を感じて手を伸ばす。

 

 髪が解かれている。

 ――簪がない。


 慌てて首を振り、ベッド脇のサイドテーブルに簪が置かれているのに気づく。


 その時、ドアが開いた。


「……起きていたのか」


 入ってきた慈雨月は、花緒の足元にしゃがむと、そっと顔を覗き込んだ。


「丸一日眠っていたよ。よほど疲れていたんだね」


「……」


「……痛むか?」


「……」


 花緒は小さく目を伏せる。


 慈雨月は一度目を逸らすと、片膝をついたまま花緒をしっかりと見つめた。


「花緒。君は……もうあそこに行かないほうがいい」


 静かな声だった。

 けれど、そこに滲んでいるのは怒りでも悲しみでもない。

 ただ、純粋な憂いと、花緒への気遣い。


「ボロボロになっていく君を、これ以上見過ごすことはできない」


 花緒は俯き、答えられなかった。


 慈雨月が少し黙り込む。


「……花緒、このまま外で私と暮らさないか」


「……え?」


 思わぬ言葉に顔を上げると、慈雨月は続けた。


「華上の血筋を残さねばならない。こんな時だけど……君なら理解してくれると思う」


 そう言って、彼は花緒の右手を取る。


 次の瞬間、指先に冷たい金属の感触が触れた。


 ——指輪。


「これは……」


「深い意味はない。ただの虫除けだよ」


 そう言いながらも、慈雨月の目は優しかった。


「花緒は、いい子だからね」


 指に嵌められた指輪を、花緒はそっと見つめる。

 けれど、どうしてかそれを外すことはできなかった。


(事態は……ここまで深刻だったのか。)


 花緒が奥歯を噛みしめる。


 亜蓮の生存が絶望的な今、華上の当主は最も華上の血が濃い分家の慈雨月だ。


 そして華上家は術師の素養があり、その教育を受けた人間を縁者として引き入れる。


 今……その条件に最も当てはまるのは、花緒だ。


 あの災禍を奇跡的に逃れた慈雨月と花緒が結ばれるのは、とても自然で、必然的なことだった。


「しばらくは私の秘書として働けばいい。千年京のことは、国家退魔師隊に任せよう」


「国家、退魔師隊……?」


「まだ公になっていないが、国家規模の魔術師部隊が組織されるらしい。既に魔力を利用した魔導技術の研究も進められている。

 ……行方不明者の捜索も、彼等の指揮で行われる予定だ」


 慈雨月の言葉に、花緒の意識がぼやけていく。


(私のやっていることは、誰かが代わりにできること……?)


 不意に落ちた視界に、指輪が優しく光る。

 だとしても、これを受け入れる資格は、自分には……。


「慈雨月様……私は……」


「花緒」


 慈雨月が、そっと名前を呼んだ。


「勘違いしないでほしいんだが……私は身を固めるなら君とがいいと思っていたよ」


「……」


「こんな形になってすまない。本当はもっとちゃんとするつもりだった。でも……君まで失いたくない」


 低く落ち着いた声が、静かに言葉を紡ぐ。


 花緒は無意識に指輪を外そうとした。

 だが、途中で手を止める。


 慈雨月は、そんな花緒の右手を優しく包んだ。


 ――あたたかい。

 久しぶりに触れた人の温もりに、花緒の胸がじわりと切なく痛む。


 視界が熱く濡れて、滲んでいく。


 今はただ、彼の優しさに縋りたかった。


「ゆっくり考えてくれとは言えない状況で申し訳ない。でも俺は、本気だよ……」


 慈雨月はそこで口をつぐんだ。


 優しく花緒の手に力を込めると、そっと手を離し、立ち上がる。


「……何もまともに食べてないだろう? 何か食事を用意させよう」


 そう言い残し、静かに部屋を出て行った。


 花緒は窓の外を見た。

 どこまでも静かで穏やかな、人の町の星々が広がっている。


 温かい部屋。

 生きた人の手。


 あの異界の空気はもっと冷くて、心まで凍えそうだった。


「……亜蓮様」


 唇がぽつりと呟く。


 ガラスには、ただただ無力な人間の虚ろな顔が映っていた。



* * *



 翌朝。


 慈雨月が部屋の扉をノックし、開く。


 そこには、ベッドの隅に座り、据え置きの小さな聖書を開く花緒の姿があった。


「……おはようございます。慈雨月様」


 花緒が顔を上げ、静かに微笑む。


 その表情を見て、慈雨月は知らず胸を撫で下ろした。


 右手の指輪は昨日のまま、彼女の指にある。

 それを見た瞬間、胸の奥に愛おしさが込み上げた。


「おはよう」


 静かに歩み寄り、そっと隣に腰を下ろす。

 二人分の重みで、ベッドの隅がわずかに沈んだ。


「……それは、備え付けの聖書だね」


「目が覚めてしまって。することもなかったので……」


 花緒は視線を落とし、静かに聖書を閉じる。指先に、まだかすかな強張りが残っていた。


「手はまだ震えるか。顔色は昨日より良さそうだね」


 そう言いながら、慈雨月は花緒の右手を自分に引き寄せた。


 もう片方の手で、名残惜しそうに花緒の髪を優しく撫でる。


「すまないが、まだ仕事が残っている。もう行かなくては」

「わかりました」


 花緒の返答は淡々としながらも柔らかい。


「慈雨月様……何かすることをくださいませんか。何かしていないと、気がおかしくなりそうで……」


 慈雨月は困ったように眉を顰めた。


「そうだね、今は休むのが君の仕事だ。とはいえ、君の性格上、じっとしているのは辛いだろうが……」


「いえ。それで結構です」


 花緒は静かに微笑んだ。

 その傷を隠すような笑みに慈雨月の胸が痛む。


「一人にさせてすまない……。食事は好きなものを取ってくれ。夜には一度帰るよ」


 慈雨月は僅かに手に力を込めた。


「明日には東京へ行く。……ついてきてくれるね?」


「……はい」


 そっと背中に腕が回され、胸に抱き寄せられる。熱い両腕に優しく力が込もった。


「絶対に、幸せにする」


 もう離さない。決して後悔させない。

 温もりと、静かに伝わる決意がそう語りかけてくる。


 花緒はただ、甘い心地よさに身を預け、虚空を見つめる。


 その左手には――小さな聖書があった。



* * *



 慈雨月は足早にタクシーへ乗り込んだ。

 ドアが閉まると同時に、老執事が静かに口を開く。


「11時間26分のタイムロスでございます」


「わかっている」


 慈雨月はわずかに苛立ちを含んだ声で言った。

 車が静かに発進する。


 ――何もできない自分が歯痒い。


 兄達のような術師の才覚も、異形と戦えるような強い体もない。

 

 瘴気耐性もなく、千年京での滞在、活動は不可能……。


(……無力だ)


 慈雨月はグッと目を閉じる。


 あの日、華上で育て上げられた術師は皆死んだ。


 華上の本家も、分家も、皆諸共に死んだ。


 華上だけではない。遠都にいた術師と呼ばれる人間は、誰一人としてあの厄災を生き残れなかった。


(もう――俺しかいない)


 この弱くて脆い体と、そこに宿る僅かな術師の力が、この世に残る最後の華上の血脈……。


 だが――

 もし、亜蓮が生きていれば……。


(いや、仮に亜蓮が生きていたとして、たった10歳の子供に何ができる?)


 ……生きているわけがない。


 稀代の天才とまで言われた雪乃でさえ、なす術なく死んだのに――。



 


 その日の夜。

 慈雨月はホテルの廊下を歩きながら、帰りが少し遅くなったことを詫びる言葉を考えていた。


 思った以上に拘束されてしまった。


 帰り道、途中で花緒に連絡を入れようかとも思ったが、疲れて眠っているかもしれないと考え直した。


 それに、昨日のことがあったからこそ、直接顔を見て話したかった。


 部屋の中に入り、真っ直ぐに花緒の個室に向かう。


「花緒?」


 ノックの音。

 しかし、返事はない。


 もう一度少し強めにノックしてみるが、やはり応じる気配はなかった。


 不審に思い、ドアノブを回す。

 鍵は、かかっていなかった。


 ——ガランとした、空の部屋。


 慈雨月の背筋に、冷たいものが走る。


 ベッドのシーツは綺麗に整えられ、荷物の一つもない。

 サイドテーブルの上にあった銀の簪も消えている。


 まるで最初から誰もいなかったかのような、完璧なまでの痕跡の消し方だった。


「……くそっ」


 弾かれたように振り返り、他の部屋を探しに走る。


 廊下を駆け抜け、フロントに駆け寄るが、スタッフの誰も花緒の姿を見ていなかった。


 まるで影のように、気配を消して姿を消したのだ。


 その時、スマホが鳴った。


 着信――花緒。


 一瞬、身体が硬直する。

 嫌な予感が、背筋を這い上がる。


 だが、次の瞬間迷うことなく通話ボタンを押した。



* * *



 低く唸る風鳴り。

 霧のような瘴気が夜空を流れ、光る桜の花びらが舞う。


 耳元にスマホを当てる花緒の顔が、青白く照らされた。


  "わたしは誰を遣わすべきか。

  誰が我々のために行くだろうか。"


 不意に、コール音が止む。


『花緒、今どこにいるんだ』


 焦燥を滲ませた慈雨月の声が響いた。


「……千年京です」


 夜空を仰ぐと、闇の向こうに満開の花が静かに揺れていた。


『どうして……』


 慈雨月の息遣いが震え、落胆が喉の奥で詰まる。


「……申し訳ありません」


 花緒は高い崖の上から、怪しく光る千年京の街の灯りを見下ろす。


「慈雨月様のお気持ちは嬉しいです。私などでは身に余るほどのご好意をいただきました。ですが、私は……」


 花緒は、ぐっと目を閉じた。


「今頃、亜蓮様が一人きりで、この冷たい地獄でどんな辛い思いをしているのかと考えると……息をするのさえ苦しいんです……」


 花緒が胸をぎゅっと掴み、目に涙が溢れた。


 冷たい夜風が、ふわりと花緒の髪を揺らす。


「……愚かなんです、私は」


『……』


「どうか、私なんかのことは忘れて……慈雨月様は、もっと素敵な方と、幸せになってください」


 冷たい夜風の音だけが通り抜ける。


 少しの沈黙の後……

 電話の向こうで、わずかに息をつく気配がした。


『――わかった。気をつけて行っておいで』


 励ますように、静かで強い声が優しく響く。


 慈雨月が顔を上げ、窓の向こうを見る。

 夜の闇の中に、霧のドームがぼんやりと輝いている。


『私にできることはなんでもしよう。千年京に私の隠れ家がある。禁域からは遠く離れた森林区域にあるから、おそらく無事なはずだ。活動拠点に使うといい』


「……ありがとうございます」


 花緒が自分の薄情さを噛み締めるように呟く。


『それと、瘴気の影響が少ない龍脈と竜泉のポイントも送ろう。瘴気汚染者の体調が一時的に回復したという報告がきている。活用してくれ』


 花緒の手の中でバイブが鳴る。

 画面を確認すると、スマホにマップ情報が送られていた。


 花緒の胸に熱さと痛みが押し寄せた。

 涙を堪え、ぐっと目を閉じる。


「――感謝します。慈雨月様」


『それと、そこで活動して良いのは一年だ。それ以上は許さない』


「……え?」


 思いもよらない言葉に、花緒が瞬きする。


『一年経っても亜蓮が見つからなければ、外に出て私と結婚してもらう。いいね?』


 優しく諌めるような声に、花緒は理解した。


 これが、慈雨月にできる最大限の譲歩。


「――はい」


 花緒が凛然と顔を上げた。


 覚悟と意思を取り戻した目に、後押しするように風が吹く。


『ふふ、俺も諦めの悪い人間だけど、君も大概だね』


 花緒の返答を聞くと、慈雨月は少し笑ったようだった。


「申し訳ありません」


『いや、そこも気に入っているところだよ。いいかい、くれぐれも無理は禁物だ。看過できないと判断すればすぐに戻ってもらう。君はもう、私のフィアンセなんだからね』


「はい」


『それと……今度こそ、嘘はごめん被りたいね』


「はい。もう逃げません」


『……頑張りなさい』


 電話が切れる。



「……宜しかったのですかな?これで」

「良いわけないだろ」


 老執事が後ろから声をかけ、慈雨月はうんざりとため息をついた。


「でしたら、私衛に命じて連れ戻しましょう」


「……そんなことをしても、彼女の気持ちが離れるだけだ。

 とにかく、出来得る最大限のサポートをする! お前も手伝え! いいな!?」


 半ば投げやりに指を立てる慈雨月に、老執事が肩をすくめた。


「惚れた側の弱みですな。"当主代理"?」

「……」


 慈雨月は苦々しく笑い、闇の彼方を見つめる。


 ――指輪程度では首輪にならなかったか。


「……キスくらいはしておくべきだったかな」



 


 花緒は静かにスマホを下ろした。

 その指に、指輪が細く光る。


 花緒は星一つない夜空を見上げた。


 ゆっくりと目を閉じ、深く息を吸う。異界の空気と魔力で、冷たく肺を満たす。


(――亜蓮様は生きている。)


 無惨に焼け落ちた屋敷の景色が、まざまざと脳裏に蘇る。


 だが――一室だけ……たった一室だけあった。

 火の手も、堕神の襲撃も免れた部屋が。


 子供部屋だ。

 

 亜蓮の子供部屋だけが、ぽつりと異質に残されていた。


 和箪笥の取手には、外から木刀が差し込まれ、中から開けられぬよう封がされていた。


 そして、その扉を開いた中には……何もなかった。


 ただ……ちょうど。

 10歳くらいの子供が一人、座り込めるだけの僅かな空間を残して――。


(どんな理屈かはわからない。でもあの状況下で、亜蓮様はきっと誰かに匿われ、隠された。そして姿を消した……)


 必ず、どこかにいる。


 花緒は髪を束ね、蝶の簪をひと挿しする。



  "わたしは誰を遣わすべきか。

  誰が我々のために行くだろうか。"


  "ここにわたしがおります。

  わたしを遣わしてください。"



 ――この魔境に巣食うのは、呪われ、魔に堕ちた神々だけ。


 それでも、私が行く。

 私が……選ぶんだ。


 指が太腿をなぞると、光の粒子がふわりと立ち上り、傷は跡形もなく塞がった。


「――」


 花緒は屹然と顔を上げる。


 亜蓮様がどこかで生きているなら、

 私は何度でも、ここに挑み続ける。





「くそ!! やっぱり婚姻届だけでも書かせるべきだった!!」


 執務に没頭していた慈雨月が突然バッと顔を上げた。


 老執事が怪訝そうに首を傾げる。


「はて、何をそんなに急がれますかな? 他に敵がいるわけでもなし」


「……嫌な夢を思い出したっ……!」


 慈雨月は頭を抱え、忌々しげに奥歯を噛みしめる。


(空振りであってくれっ……!)


 微弱ながら、慈雨月が持つ唯一の能力――()()()


 的中率3割と低打率。故に能力と呼ぶことすら微妙な力なので、気にも留めていなかったが……。


 嫌な予感がする……!!


「亜蓮が、大人になって現れる夢だ……!」


 



お読みいただきありがとうございます♡

お気軽にリアクション(いいねボタン?)いただけるとモチベーションになります(*^^*)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ