第11話 「嘘つきと婚約者」
乾いた木の引き戸を前に、花緒は立ち止まり、息を整える。
――落ち着け。
――大丈夫。
――いつも通り……いつも通り……。
だが、扉をノックしようとした花緒の手が止まる。
その右手の薬指には、細く光る銀色がある。
モモには、全ては話さなかった。
それは花緒が悩みの本質から逃げたせいでもあるし、
それが自分の、一番汚い、知られたくないところだったからだ。
(まだ……話したくない)
ふとした時、花緒の視線は嫌でも指輪に惹きつけられる。
……思い出してしまう。
一番苦しかった時間を、この人に縋って生きていた。
大人になった亜蓮にどうしようもなく心が揺れるくせに、この人の存在を断ち切れなかった。
この人のお陰で、私は今……戦えている。
「……中途半端だ」
あれはまだ、逢魔時から一週間しか経たない日のことだ。
* * *
およそ、1年2ヶ月前。
千年京 某所。
泥にまみれた指が地面を掻いた。
花緒は必死に息を吸い込もうとする。その肺が刺すように痛い。
雨が降っていた。
冷たく、鋭く、世界を塗り潰すように。
「……はぁ、はぁ」
体が重い。感覚のない手のひらが泥と雨に濡れていた。
(亜蓮様……どこ……)
木の幹に手をつき、立ち上がる。引きずるように足を運ぶ。
分かっていた。
無理をしすぎていることも、今の自分に千年京へ挑む力などないことも。
それでも、やめることなどできない。一刻も早く会いたい。
この悪夢の中に、亜蓮がひとり取り残されているかもしれないのに、どうして私が立ち止まってなどいられるだろう。
――雪乃と見られる遺体を発見したのは、昨日だった。
山道の奥、泥に濡れた斜面の傍らに、焼け焦げた黒い塊が横たわっていた。
原形はほとんど留めていない。
だが、傍らに転がる焦げたブレスレットと、屋敷から続いていた血痕が、それが雪乃であることを静かに示していた。
(亜蓮様を庇って、ここまで逃げてきたんですね……)
千年京では、遺体が見つかること自体が奇跡だった。
瘴気に晒された人間は、やがて人の形を失い、地に呑まれる。
その中で、ここまで痕跡が残っていたということが、彼女の最後の意志を物語っていた。
(私が、見つけなければ……)
何度も、何度も、気配を探る。
全神経を研ぎ澄ませ、どんな微かなものでも、と。
だが、応えるものは何もない。
喉の奥が焼けつくように痛む。全身を走る痺れは、すでに限界を迎えた証拠だった。
だが、その時。
ズズ……ズズズ……
地面が揺れる。
雨に打たれる土の中から、何かが這い出してくる気配がした。
「——っ!」
体に刻み込まれた警戒心が、刹那のうちに危険を察知する。
地面に赤い目が鋭く光り、狐の影が立ち上がる。
堕神——!
(影のみの低級神……! でも、今は戦う余力が……!)
キシャーッ!!
「くっ!」
跳びかかる黒影に、咄嗟に結界を張る。
バキィンッ!!
瞬く間に結界に亀裂が走り、砕ける。
反動で弾かれ、崩れた瓦礫に叩きつけられる。
太腿に、肉を裂く鋭い痛みが走った。
「――っ!!」
鋭い痛みに悲鳴すら間に合わない。
バシャ!!
鮮血が、雨に散る。
――直後。
ゾワ……ゾワゾワ……
異様な気配が、全方位から湧き上がる。
「——!!」
無数の魅魅蚓が、血に反応し、花緒を囲むように湧き出した。
狐の影が跳躍し、眼前に飛び掛かる――。
* * *
外界 某所。
夜のホテルのロビー。
慈雨月は足を止め、スマホの画面を見た。
(……もう、随分と連絡がつかない)
花緒と最後に話してから、どれくらい経っただろうか。
何度もメッセージや電話を入れてはみているものの、一向に反応がない。
仕事の対応に追われていたとはいえ、もっと強引に連絡を取るべきだったか。
(——どこで、何をしてる?)
ジャケットのポケットに突っ込んだスマートフォンを取り出し、着信履歴を確認する。
スクロールしても、花緒の名前はない。
その時——
スマホが震えた。
見慣れない電話番号だが、迷わず出る。
「はい。……えっ?」
電話の向こうから聞こえてくる言葉に、慈雨月の顔色が変わった。
* * *
「花緒!!」
遠くから男の呼ぶ声がした。
石のベンチに腰掛けていた花緒が、呆然と顔を上げる。
車のライトが雨粒を照らし、ぼんやりとした光の輪を作っている。
その中から、濡れた茶髪を揺らしながら、背の高い男が一直線に駆け寄ってきた。
「花緒、私だ。わかるか?」
その声に、花緒の喉がかすかに震えた。
強く温かな手が、花緒の両腕を包む。
「……慈雨月、様……」
支えられた途端、張り詰めていた力がほどけ、体がぐらりと傾ぐ。
崩れ落ちる前に、慈雨月の腕がしっかりと受け止めた。
花緒の服はあちこち裂け、血が滲んでいる。
冷たい雨が肌を打ち、体は氷のように冷えきっていた。
「……申し訳……ありません……」
「謝らなくていい」
低く優しい声が、迷いなく降りてくる。慈雨月はコートを掛け、肩を軽く押さえた。
「もう大丈夫だ」
その言葉に、花緒はようやく力を手放し目を閉じた。
「こちらの女性は、お知り合いで間違いありませんか?」
若い救急隊員が慎重に声をかける。
「誰か家族はいないかと聞いたら、貴方の名前を出したので……」
困惑したように花緒を見る隊員の視線を、慈雨月は黙って受け止める。
「千年京内部で保護されていました。病院へ搬送しようとしましたが、行きたくないとの一点張りで、救急車にも乗ろうとせず……」
慈雨月が花緒に目を戻すと、その瞼はすでに閉じられていた。
* * *
花緒が目を覚ますと、そこは静かなホテルの一室だった。
(……ここは)
温かく、広い室内を見渡す。
(どこかのホテル……?)
ここにいてはいけない。
そう思うのに、痛む体は動かない。
ふと、後頭部に違和感を感じて手を伸ばす。
髪が解かれている。
――簪がない。
慌てて首を振り、ベッド脇のサイドテーブルに簪が置かれているのに気づく。
その時、ドアが開いた。
「……起きていたのか」
入ってきた慈雨月は、花緒の足元にしゃがむと、そっと顔を覗き込んだ。
「丸一日眠っていたよ。よほど疲れていたんだね」
「……」
「……痛むか?」
「……」
花緒は小さく目を伏せる。
慈雨月は一度目を逸らすと、片膝をついたまま花緒をしっかりと見つめた。
「花緒。君は……もうあそこに行かないほうがいい」
静かな声だった。
けれど、そこに滲んでいるのは怒りでも悲しみでもない。
ただ、純粋な憂いと、花緒への気遣い。
「ボロボロになっていく君を、これ以上見過ごすことはできない」
花緒は俯き、答えられなかった。
慈雨月が少し黙り込む。
「……花緒、このまま外で私と暮らさないか」
「……え?」
思わぬ言葉に顔を上げると、慈雨月は続けた。
「華上の血筋を残さねばならない。こんな時だけど……君なら理解してくれると思う」
そう言って、彼は花緒の右手を取る。
次の瞬間、指先に冷たい金属の感触が触れた。
——指輪。
「これは……」
「深い意味はない。ただの虫除けだよ」
そう言いながらも、慈雨月の目は優しかった。
「花緒は、いい子だからね」
指に嵌められた指輪を、花緒はそっと見つめる。
けれど、どうしてかそれを外すことはできなかった。
(事態は……ここまで深刻だったのか。)
花緒が奥歯を噛みしめる。
亜蓮の生存が絶望的な今、華上の当主は最も華上の血が濃い分家の慈雨月だ。
そして華上家は術師の素養があり、その教育を受けた人間を縁者として引き入れる。
今……その条件に最も当てはまるのは、花緒だ。
あの災禍を奇跡的に逃れた慈雨月と花緒が結ばれるのは、とても自然で、必然的なことだった。
「しばらくは私の秘書として働けばいい。千年京のことは、国家退魔師隊に任せよう」
「国家、退魔師隊……?」
「まだ公になっていないが、国家規模の魔術師部隊が組織されるらしい。既に魔力を利用した魔導技術の研究も進められている。
……行方不明者の捜索も、彼等の指揮で行われる予定だ」
慈雨月の言葉に、花緒の意識がぼやけていく。
(私のやっていることは、誰かが代わりにできること……?)
不意に落ちた視界に、指輪が優しく光る。
だとしても、これを受け入れる資格は、自分には……。
「慈雨月様……私は……」
「花緒」
慈雨月が、そっと名前を呼んだ。
「勘違いしないでほしいんだが……私は身を固めるなら君とがいいと思っていたよ」
「……」
「こんな形になってすまない。本当はもっとちゃんとするつもりだった。でも……君まで失いたくない」
低く落ち着いた声が、静かに言葉を紡ぐ。
花緒は無意識に指輪を外そうとした。
だが、途中で手を止める。
慈雨月は、そんな花緒の右手を優しく包んだ。
――あたたかい。
久しぶりに触れた人の温もりに、花緒の胸がじわりと切なく痛む。
視界が熱く濡れて、滲んでいく。
今はただ、彼の優しさに縋りたかった。
「ゆっくり考えてくれとは言えない状況で申し訳ない。でも俺は、本気だよ……」
慈雨月はそこで口をつぐんだ。
優しく花緒の手に力を込めると、そっと手を離し、立ち上がる。
「……何もまともに食べてないだろう? 何か食事を用意させよう」
そう言い残し、静かに部屋を出て行った。
花緒は窓の外を見た。
どこまでも静かで穏やかな、人の町の星々が広がっている。
温かい部屋。
生きた人の手。
あの異界の空気はもっと冷くて、心まで凍えそうだった。
「……亜蓮様」
唇がぽつりと呟く。
ガラスには、ただただ無力な人間の虚ろな顔が映っていた。
* * *
翌朝。
慈雨月が部屋の扉をノックし、開く。
そこには、ベッドの隅に座り、据え置きの小さな聖書を開く花緒の姿があった。
「……おはようございます。慈雨月様」
花緒が顔を上げ、静かに微笑む。
その表情を見て、慈雨月は知らず胸を撫で下ろした。
右手の指輪は昨日のまま、彼女の指にある。
それを見た瞬間、胸の奥に愛おしさが込み上げた。
「おはよう」
静かに歩み寄り、そっと隣に腰を下ろす。
二人分の重みで、ベッドの隅がわずかに沈んだ。
「……それは、備え付けの聖書だね」
「目が覚めてしまって。することもなかったので……」
花緒は視線を落とし、静かに聖書を閉じる。指先に、まだかすかな強張りが残っていた。
「手はまだ震えるか。顔色は昨日より良さそうだね」
そう言いながら、慈雨月は花緒の右手を自分に引き寄せた。
もう片方の手で、名残惜しそうに花緒の髪を優しく撫でる。
「すまないが、まだ仕事が残っている。もう行かなくては」
「わかりました」
花緒の返答は淡々としながらも柔らかい。
「慈雨月様……何かすることをくださいませんか。何かしていないと、気がおかしくなりそうで……」
慈雨月は困ったように眉を顰めた。
「そうだね、今は休むのが君の仕事だ。とはいえ、君の性格上、じっとしているのは辛いだろうが……」
「いえ。それで結構です」
花緒は静かに微笑んだ。
その傷を隠すような笑みに慈雨月の胸が痛む。
「一人にさせてすまない……。食事は好きなものを取ってくれ。夜には一度帰るよ」
慈雨月は僅かに手に力を込めた。
「明日には東京へ行く。……ついてきてくれるね?」
「……はい」
そっと背中に腕が回され、胸に抱き寄せられる。熱い両腕に優しく力が込もった。
「絶対に、幸せにする」
もう離さない。決して後悔させない。
温もりと、静かに伝わる決意がそう語りかけてくる。
花緒はただ、甘い心地よさに身を預け、虚空を見つめる。
その左手には――小さな聖書があった。
* * *
慈雨月は足早にタクシーへ乗り込んだ。
ドアが閉まると同時に、老執事が静かに口を開く。
「11時間26分のタイムロスでございます」
「わかっている」
慈雨月はわずかに苛立ちを含んだ声で言った。
車が静かに発進する。
――何もできない自分が歯痒い。
兄達のような術師の才覚も、異形と戦えるような強い体もない。
瘴気耐性もなく、千年京での滞在、活動は不可能……。
(……無力だ)
慈雨月はグッと目を閉じる。
あの日、華上で育て上げられた術師は皆死んだ。
華上の本家も、分家も、皆諸共に死んだ。
華上だけではない。遠都にいた術師と呼ばれる人間は、誰一人としてあの厄災を生き残れなかった。
(もう――俺しかいない)
この弱くて脆い体と、そこに宿る僅かな術師の力が、この世に残る最後の華上の血脈……。
だが――
もし、亜蓮が生きていれば……。
(いや、仮に亜蓮が生きていたとして、たった10歳の子供に何ができる?)
……生きているわけがない。
稀代の天才とまで言われた雪乃でさえ、なす術なく死んだのに――。
*
その日の夜。
慈雨月はホテルの廊下を歩きながら、帰りが少し遅くなったことを詫びる言葉を考えていた。
思った以上に拘束されてしまった。
帰り道、途中で花緒に連絡を入れようかとも思ったが、疲れて眠っているかもしれないと考え直した。
それに、昨日のことがあったからこそ、直接顔を見て話したかった。
部屋の中に入り、真っ直ぐに花緒の個室に向かう。
「花緒?」
ノックの音。
しかし、返事はない。
もう一度少し強めにノックしてみるが、やはり応じる気配はなかった。
不審に思い、ドアノブを回す。
鍵は、かかっていなかった。
——ガランとした、空の部屋。
慈雨月の背筋に、冷たいものが走る。
ベッドのシーツは綺麗に整えられ、荷物の一つもない。
サイドテーブルの上にあった銀の簪も消えている。
まるで最初から誰もいなかったかのような、完璧なまでの痕跡の消し方だった。
「……くそっ」
弾かれたように振り返り、他の部屋を探しに走る。
廊下を駆け抜け、フロントに駆け寄るが、スタッフの誰も花緒の姿を見ていなかった。
まるで影のように、気配を消して姿を消したのだ。
その時、スマホが鳴った。
着信――花緒。
一瞬、身体が硬直する。
嫌な予感が、背筋を這い上がる。
だが、次の瞬間迷うことなく通話ボタンを押した。
* * *
低く唸る風鳴り。
霧のような瘴気が夜空を流れ、光る桜の花びらが舞う。
耳元にスマホを当てる花緒の顔が、青白く照らされた。
"わたしは誰を遣わすべきか。
誰が我々のために行くだろうか。"
不意に、コール音が止む。
『花緒、今どこにいるんだ』
焦燥を滲ませた慈雨月の声が響いた。
「……千年京です」
夜空を仰ぐと、闇の向こうに満開の花が静かに揺れていた。
『どうして……』
慈雨月の息遣いが震え、落胆が喉の奥で詰まる。
「……申し訳ありません」
花緒は高い崖の上から、怪しく光る千年京の街の灯りを見下ろす。
「慈雨月様のお気持ちは嬉しいです。私などでは身に余るほどのご好意をいただきました。ですが、私は……」
花緒は、ぐっと目を閉じた。
「今頃、亜蓮様が一人きりで、この冷たい地獄でどんな辛い思いをしているのかと考えると……息をするのさえ苦しいんです……」
花緒が胸をぎゅっと掴み、目に涙が溢れた。
冷たい夜風が、ふわりと花緒の髪を揺らす。
「……愚かなんです、私は」
『……』
「どうか、私なんかのことは忘れて……慈雨月様は、もっと素敵な方と、幸せになってください」
冷たい夜風の音だけが通り抜ける。
少しの沈黙の後……
電話の向こうで、わずかに息をつく気配がした。
『――わかった。気をつけて行っておいで』
励ますように、静かで強い声が優しく響く。
慈雨月が顔を上げ、窓の向こうを見る。
夜の闇の中に、霧のドームがぼんやりと輝いている。
『私にできることはなんでもしよう。千年京に私の隠れ家がある。禁域からは遠く離れた森林区域にあるから、おそらく無事なはずだ。活動拠点に使うといい』
「……ありがとうございます」
花緒が自分の薄情さを噛み締めるように呟く。
『それと、瘴気の影響が少ない龍脈と竜泉のポイントも送ろう。瘴気汚染者の体調が一時的に回復したという報告がきている。活用してくれ』
花緒の手の中でバイブが鳴る。
画面を確認すると、スマホにマップ情報が送られていた。
花緒の胸に熱さと痛みが押し寄せた。
涙を堪え、ぐっと目を閉じる。
「――感謝します。慈雨月様」
『それと、そこで活動して良いのは一年だ。それ以上は許さない』
「……え?」
思いもよらない言葉に、花緒が瞬きする。
『一年経っても亜蓮が見つからなければ、外に出て私と結婚してもらう。いいね?』
優しく諌めるような声に、花緒は理解した。
これが、慈雨月にできる最大限の譲歩。
「――はい」
花緒が凛然と顔を上げた。
覚悟と意思を取り戻した目に、後押しするように風が吹く。
『ふふ、俺も諦めの悪い人間だけど、君も大概だね』
花緒の返答を聞くと、慈雨月は少し笑ったようだった。
「申し訳ありません」
『いや、そこも気に入っているところだよ。いいかい、くれぐれも無理は禁物だ。看過できないと判断すればすぐに戻ってもらう。君はもう、私のフィアンセなんだからね』
「はい」
『それと……今度こそ、嘘はごめん被りたいね』
「はい。もう逃げません」
『……頑張りなさい』
電話が切れる。
「……宜しかったのですかな?これで」
「良いわけないだろ」
老執事が後ろから声をかけ、慈雨月はうんざりとため息をついた。
「でしたら、私衛に命じて連れ戻しましょう」
「……そんなことをしても、彼女の気持ちが離れるだけだ。
とにかく、出来得る最大限のサポートをする! お前も手伝え! いいな!?」
半ば投げやりに指を立てる慈雨月に、老執事が肩をすくめた。
「惚れた側の弱みですな。"当主代理"?」
「……」
慈雨月は苦々しく笑い、闇の彼方を見つめる。
――指輪程度では首輪にならなかったか。
「……キスくらいはしておくべきだったかな」
*
花緒は静かにスマホを下ろした。
その指に、指輪が細く光る。
花緒は星一つない夜空を見上げた。
ゆっくりと目を閉じ、深く息を吸う。異界の空気と魔力で、冷たく肺を満たす。
(――亜蓮様は生きている。)
無惨に焼け落ちた屋敷の景色が、まざまざと脳裏に蘇る。
だが――一室だけ……たった一室だけあった。
火の手も、堕神の襲撃も免れた部屋が。
子供部屋だ。
亜蓮の子供部屋だけが、ぽつりと異質に残されていた。
和箪笥の取手には、外から木刀が差し込まれ、中から開けられぬよう封がされていた。
そして、その扉を開いた中には……何もなかった。
ただ……ちょうど。
10歳くらいの子供が一人、座り込めるだけの僅かな空間を残して――。
(どんな理屈かはわからない。でもあの状況下で、亜蓮様はきっと誰かに匿われ、隠された。そして姿を消した……)
必ず、どこかにいる。
花緒は髪を束ね、蝶の簪をひと挿しする。
"わたしは誰を遣わすべきか。
誰が我々のために行くだろうか。"
"ここにわたしがおります。
わたしを遣わしてください。"
――この魔境に巣食うのは、呪われ、魔に堕ちた神々だけ。
それでも、私が行く。
私が……選ぶんだ。
指が太腿をなぞると、光の粒子がふわりと立ち上り、傷は跡形もなく塞がった。
「――」
花緒は屹然と顔を上げる。
亜蓮様がどこかで生きているなら、
私は何度でも、ここに挑み続ける。
*
「くそ!! やっぱり婚姻届だけでも書かせるべきだった!!」
執務に没頭していた慈雨月が突然バッと顔を上げた。
老執事が怪訝そうに首を傾げる。
「はて、何をそんなに急がれますかな? 他に敵がいるわけでもなし」
「……嫌な夢を思い出したっ……!」
慈雨月は頭を抱え、忌々しげに奥歯を噛みしめる。
(空振りであってくれっ……!)
微弱ながら、慈雨月が持つ唯一の能力――予知夢。
的中率3割と低打率。故に能力と呼ぶことすら微妙な力なので、気にも留めていなかったが……。
嫌な予感がする……!!
「亜蓮が、大人になって現れる夢だ……!」
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