第8話 「氷の檻、炎の影」
千年京、都市部――。
国家退魔師隊本部は、白塗りの壁の巨大な箱風の建物だ。
前庭のただっぴろい芝生の丘には、松の木が一本、悠然と佇む。
周囲は巨大な結界が一帯を覆い、瘴気を遮断している。
その外では、妖怪や魅魅蚓が飢えた獣のように獲物を求めて彷徨う。
――研究棟。
眼鏡のボサボサ頭の男――薬師寺が廊下に出てため息をついた。
一晩中、怪我人の治療の応援に駆り出され、ようやく解放された仮眠明けだった。
昨晩、市街エリアの広範囲にわたり魅魅蚓が大発生したのだ。
それを、氷室隊長があの氷結魔術で一掃したらしい。
――市街地ごと凍てついた。
まるで一夜にして極寒の冬が訪れたかのように、石畳は青白い氷に沈み、建物は分厚い氷柱と化した。
結果、現れた敵を一網打尽にすることはできても、氷室の魔術を避けられた者はほとんどいなかった。
「……バケモンかよ」
薬師寺はぼさぼさ頭を掻きながら、呻くように呟く。
その時、廊下の向こうから靴音と金属の鳴る音がした。
……平門 氷室だ。
冷たい廊下に靴音が響く。
その歩調は一定で、迷いがなく、まるで戦場の延長にでもいるかのような足取りだ。
(でたよ……)
ことの元凶のお出ましに、薬師寺は言葉にならない嘆息を漏らした。
敵味方の識別なく、存在する全てを氷漬けにする超広範囲攻撃。
大量の負傷者、回収できていない隊員も数名、挙句医療班や部外者の自分まで地獄を見るハメに……。
(瘴気汚染なんてごめんだから、結界内で働ける研究職に就いたのに……)
最近はここも、まるで戦場の延長のようだ。
("歩く災害"め……)
しばらく、氷室の隊は使い物にならないだろう。
どれだけ敵を狩れようが、味方の損耗が激しければ戦術としては下策だろうに。
氷室が目の前で立ち止まる。
……なんだ、用があるのは俺か。
「困るんですよ、氷室隊長。無駄に怪我人増やされちゃぁ」
困ると言いながら、薬師寺の話し方はどこか無遠慮だ。
「治癒だって魔力は使うんですからね。あんたと違って、人間辞めたい奴ばっかりじゃないんですよ。下々の者の酷使はやめてもらえます?」
突然、氷室が血の入ったガラス管を突き出した。
「……なんですか、これ?」
薬師寺が怪訝そうに氷室を見返す。
氷室は答えない。
ただ、無言で突き出す。
薬師寺は嫌な予感がしながらもそれを手に取り、血液を指先で揺らして見た。
しかし、その間に氷室は背を向け歩き出す。
「調べろ」
「おおおおおおおお!!?」
薬師寺が、立ち去る氷室とガラス管を慌てて二度見する。
「ちょ、ちょ、ちょなんすかコレ!? それに、人に物を頼むタイミングが違いますよねぇ!? 調べろって何を!? 健康診断なら事務通してくれますー!?」
「暁月のリーダーの血液だ」
その言葉に、薬師寺が固まった。
「あとは言わなくてもわかるだろう」
氷室は肩越しに薬師寺を一瞥し、冷たい廊下を進む。
「……これで、奴が何者かわかる」
そう一人呟くと、氷室は白い闇のような廊下へと消えていった。
薬師寺は、氷室の後ろ姿を見送りながらうんざりと顔を顰める。
だが、彼の首筋にはじっとりと冷や汗が滲んでいた。
氷室の漆黒の戦闘服の下。
肌の一片すら見せないその身の内に、まだ”人”は残っているのか――。
(半径1キロを一瞬で凍らせる化け物が、俺達と同じ人間なんですかねぇ……?)
薬師寺の目線が、ガラスの中の赤黒い液体に向けられる。
――およそ1ヶ月前、突如として活動を開始した謎の退魔師新勢力、暁月。
そのリーダーと噂される赤目の青年……。
(目撃者の噂だと、華のような業炎を操る日本刀の使い手で、実力は氷室と互角かそれ以上だとか……)
目の前の血が、まるで得体の知れない不気味なものに映る。
これが何を意味するのか、氷室が何を求めているのか、薬師寺はすぐに理解した。
うんざりと顔を顰めながらも、喉の奥がひどく渇いてくる。
こいつもまた、俺の知る"人"なのか、それとも――。