第9話 氷の檻と炎の影
千年京 都市部
国家退魔師隊本部ーー。
白塗りの壁の、巨大な箱風の建物。
ただっぴろい芝生の丘に、松の木が一本、悠然と佇む。
巨大な結界が一帯を覆い、瘴気を遮断している。その外では、妖怪や魅魅蚓が飢えた獣のように獲物を求めて彷徨う。
ーー研究棟。
眼鏡のボサボサ頭の男ーー薬師寺が廊下に出てため息をついた。
一晩中、怪我人の治療の応援に駆り出され、ようやく解放された仮眠明けだった。
昨晩、市街エリアの広範囲にわたり魅魅蚓が大発生した。
それを、氷室隊長があの氷結魔術で一掃したらしい。
ーー市街地ごと凍てついた。
まるで一夜にして極寒の冬が訪れたかのように、石畳は青白い氷に沈み、建物は分厚い氷柱と化した。
結果、現れた敵を一網打尽にすることはできても、氷室の魔術を避けられた者はほとんどいなかった。
「……バケモンかよ」
薬師寺はぼさぼさ頭を掻きながら、呻くように呟く。
その時、廊下の向こうから、靴音と金属の鳴る音がした。
……平門氷室だ。
冷たい廊下に靴音が響く。
その歩調は一定で、迷いがなく、まるで戦場の延長にでもいるかのような足取りだ。
(でたよ……)
ことの元凶のお出ましに、薬師寺は言葉にならない嘆息を漏らした。
敵味方の識別なく、存在する全てを氷漬けにする超広範囲攻撃。
大量の負傷者、回収できていない隊員も数名、挙句医療班や部外者の自分まで地獄を見るハメに……。
(瘴気汚染なんてごめんだから、結界内で働ける研究職に就いたのに……)
最近はここも、まるで戦場の延長のようだ。
("歩く災害"め……)
しばらく、氷室の隊は使い物にならないだろう。
どれだけ敵を狩れようが、味方の損耗が激しければ戦術としては下策だろうに。
氷室が目の前で立ち止まる。
……なんだ、用があるのは俺か。
「困るんですよ、氷室隊長。無駄に怪我人増やされちゃぁ」
困ると言いながら、薬師寺の話し方はどこか無遠慮だ。
「治癒だって魔力は使うんですからね。あんたと違って、人間辞めたい奴ばっかりじゃないんですよ。下々の者の酷使はやめてもらえます?」
突然、氷室が血の入ったガラス管を突き出した。
「……なんですか、これ?」
薬師寺が怪訝そうに氷室を見返す。氷室は答えない。ただ、無言で突き出す。
薬師寺はそれを反射的に手に取り、血液を指先で揺らして見た。
しかし、その間に氷室は背を向け歩き出す。
「調べろ」
「おおおおお!!?」
薬師寺が、立ち去る氷室とガラス管を慌てて二度見する。
「ちょ、ちょ、ちょなんすかコレ!?それに、人に物を頼むタイミングが違いますよねぇ!?調べろって何を!?健康診断なら事務通してくれますー!?」
「暁月のリーダーの血液だ」
背中を向けたまま氷室が言い、薬師寺が固まった。
「あとは言わなくてもわかるだろう」
氷室は薬師寺を一瞥し、冷たい廊下を進む。
「……これで、奴が何者かわかる」
そう一人呟くと、氷室は闇のような廊下へと消えていった。
薬師寺は、氷室の後ろ姿を見送りながら、うんざりと顔を顰める。
だが、彼の首筋にはじっとりと冷や汗が滲んでいた。
氷室の漆黒の戦闘服の下。
肌の一片すら見せないその身の内に、まだ”人”は残っているのかーー。
(半径1キロを一瞬で凍らせる化け物が、俺達と同じ”人間”なんですかねぇ……?)
薬師寺の目線が、ガラスの中の赤黒い液体に向けられる。
ーーおよそ1ヶ月前、突如として活動を開始した謎の新勢力、暁月。
そのリーダーと噂される赤目の青年……。
(目撃者の噂だと、華のような業炎を操る日本刀の使い手で、実力は氷室と互角かそれ以上だとか……)
目の前の血が、まるで得体の知れない不気味なものに映る。
ーーこれが何を意味するのか、氷室が何を求めているのか、薬師寺はすぐに理解した。
うんざりと顔を顰めながらも、喉の奥がひどく渇いてくる。
"こいつ"もまた、俺の知る"人"なのか、それともーー。