第4話 「国家退魔師隊の氷狼」
冷たい空は深い闇に沈み、風は低く唸っている。桜が夜空を覆うように枝を広げる隙間を、白い人魂が静かに舞っていた。
国家退魔師隊の目をかいくぐりながら、亜蓮は龍脈の転移点を目指していた。
近くに迫る複数の足音に、亜蓮は廃れた建物の物陰へさっと身を隠した。
駆け抜けていく全身白の戦闘服。八咫烏を模した胸のピンバッジ。
――国家退魔師隊の隊員だ。
「……あっちだ!」
男の叫びとともに、数名の影が闇の街へ駆けていく。亜蓮は息をひそめたままその背中を見送り、小さく安堵の息を漏らした。
(御之の撹乱がうまくいっている……)
魔力を抑えれば気づかれることはないが、完全に油断するわけにはいかなかった。
このところ、国家退魔師隊の監視が異様に厳しい。……モモを自分に同行させるのは危険だった。
肩に冷たい夜気が降りる。首筋を這う風が、誰かに見られている感覚を運んでくる。
(何か、おかしい……)
どこかに、明確な視線がある気配が消えない。
亜蓮は着物の合わせからスマホを取り出し、やや慣れてきた手付きでスリープを解除する。目的は、瘴気の影響が薄い龍脈か竜泉のポイント。そこを使って転移し、アジトに戻るつもりだった。
アジトは結界で隠された場所にあるから、ポイントにさえ辿り着けば――。
「……あ?」
だが、スマホの画面には、どこかで見たような巫女服の少女と大きな帽子を被った魔女っ子が雀牌を構えていた。
《極限魔導雀豪伝☆極・死闘編(Ω)》
(……御之だな)
眩しく光るスマホの画面を、亜蓮は虚しく見つめる。いつそんな暇があるのやら各方面遊び好きで、アジトの端末や亜蓮のスマホに勝手に奇怪なアプリを仕込むのはいつも御之だ。そして、いつも花緒に道端のクソに向けるような目で見られる。
(いや、別に……いいんだけどさ……)
深く考えるのをやめて、どこか哀しげにそっと画面を閉じた。
膝を抱え、額を押し当てる。冷たい夜風は、亜蓮の心の隙間まで入り込んでくる。
(……これ以上、誰も巻き込むつもりはなかったのに)
胸の奥にじくじく痛みが広がる。モモとのやり取りが、残響のように頭を離れない。
自分の未熟さが、また周囲を危険に晒してしまった。だが、見て見ぬ振りはできなかった。消し去りたいあの日の自分が、モモの姿と重なったから。
幼く、無力で、目の前に圧倒的な力を持つ誰かが助けに来てくれたらと、
願って、
願って、
叶わなかった。
だからこそ、彼女の気持ちを無視することもできなかった……。
(それに――)
俯く亜蓮の目に、微かな光が揺らぐ。
モモの目がどこか、"似ていた"。
強気で、破天荒で、自分の中の怒りと衝動に正直で。
そんな姉がもし生きていたら、きっと同じように言ったんじゃないかと思ってしまった。
星一つない暗闇を見上げる。
誰にも負けない力を得た。それでも、心の中には今も内気で臆病者な子供のままの自分がいる。
(こんな時、もし姉さんだったらなんて考える自分が……一番嫌いだ……)
スマホが微かに揺れ、亜蓮は我に返った。画面には「花緒、到着」「ついたで〜⭐︎」の通知。
「……よかった」
亜蓮はほっと胸を撫で下ろした。その表情に、僅かに笑みが戻る。冷たい夜の空気を思い切り吸い込むと、胸の奥で小さな炎が灯る。
後悔してどうなる。
守れ。
どんなに臆病だろうが頼りなかろうが、もう立ち止まるわけにはいかないのだ。
(――成すべきことを果たせ)
亜蓮が目を開けた時、臆病な少年の影は消え失せ、鋭い決意が宿っていた。
――だが、夜気を裂くように甲高い悲鳴が響いた。
「たすけてえええっ!!」
はっと、亜蓮の身体が反射的に立ち上がる。
(こんな時間に子供?)
声は近い。けれど妙に通りの良い、作られたような叫び声だった。一瞬の疑念が頭をよぎるが、体はすでに走り出していた。
何か、嫌な予感がする。だが、近くで誰かが助けを求めている以上無視などできない。
(いた――!)
袋小路の奥を亜蓮の目が捉える。
3匹の赤黒い瘴気の蛇――魅魅蚓が、1人の少年を追い詰めていた。
「誰か! 誰かあっ!!」
少年が腰を抜かしたまま後ずさり、背中に冷たい壁が当たった。逃げ場を失った少年を捉えようと、魅魅蚓は鎌首をもたげ蠢く。
――瞬間、闇が赤く閃いた。
3体の魅魅蚓の胴体が一度に裂け、断面から灰になって消える。
少年が恐る恐る目を開ける。僧侶風の佇まいの青年が、赤く輝く刀を握り立っていた。
「……大丈夫?」
刀が亜蓮の手の中で光となり、消え去る。恐怖に凍り付く少年に振り返り、手を差し伸べた。
「……国家退魔師隊じゃ、ない」
少年は震える肩で亜蓮を見つめる。次の瞬間、少年は拒絶するように亜蓮の手を振り払い、つまづきながら走り出した。
「わああああーーっ!!」
「待て! 1人じゃ……!」
亜蓮が足を踏み出したその瞬間、全身に氷のような寒気が走った。
闇の奥、鋭い視線が亜蓮を貫く。
(しまった――今ので魔力を――!)
「ッ!!」
反射で後方へ飛び退く。直後、ガキィン!!と氷の刃がコンクリートを貫いた。冷気が爆発するように広がり、足元から路地一帯が凍てつく。
――ドッ、と闇から黒い巨体が舞い降りる。
「…………ようやく出てきたか」
ゆっくりと上がる顔に、無機質な狩人の目が光った。
ぞっと、亜蓮の心臓が恐怖に竦む。
氷のように低く、感情のない声。黒い影が悠然と立ち上がり、黒い熊のような巨体が退路を塞ぐ。
――全身、黒の戦闘服だ。
腰と両脚に装備された、鏡のように磨き上げられたアイスダガー。白銀の短髪、無機質な瞳。吐き出す息すら凍りそうな、極寒の気配を纏った存在。そして、隊長格を表す――国家退魔師隊の金のバッジ。
この男の名を、千年京で知らぬ者などいない。
千年京最強の男――“平門 氷室”。
「……っ」
亜蓮の喉がひとりでに乾く。
国家退魔師隊最強の称号を持ち、冷酷無比で知られる”氷狼”だ。
(やられた……! よりによって、こいつが……!)
薄々気づいていた。ずっと背後に何かがついてきていた気はしていたのだ。
氷室は亜蓮を品定めするように見下ろすと、無造作に後ろの少年を振り返った。
「い、言われた通りにしたぞ!」
少年が縋るように氷室の脚にしがみついた。だが、氷室は無言で脚を振り払い、少年が乱暴に地面に転がる。
「邪魔だ」
(……っ!)
亜蓮の眉が険しく歪み、思わず前に飛び出しそうになる。氷室は少年の目の前に封筒を放り投げた。胸元に落ちたそれを、少年は泣きながら抱きしめる。
(お金に困っている子供を囮にしたのか……!)
亜蓮が怒りにグッと奥歯を噛んだ。
「……角を曲がった先に、退魔師隊の部隊が待っている。保護を求めれば応じるだろう」
だが、氷室が言い終えるより早く、少年が苦しみ始めた。
「……無事に辿り着ければ、だがな」
少年が地面にうずくまり、呻き声を上げる。
(瘴気の侵食か……まずい!)
「おい!」
亜蓮が少年に駆け寄ろうとする。だが、氷室がその進路を遮るように立ちはだかった。
「戦いの最中に人の心配か?」
氷室の目が冷たく光る。抜けられる隙がどこにもない。亜蓮の首筋に冷たい汗が伝った。
(……俺を誘い出すためだけに、この子を?)
怒りが体の奥底から静かに燃えたぎり、恐怖が掻き消えていく。亜蓮は姿勢を低くし、静かに構えを取った。
(冷静になれ。今ここで戦いに集中するな。目的は一つ)
亜蓮の視線が一瞬、子供を捉える。
(子供を連れて、この場を離れる……!)
亜蓮は手に魔力を込めた。手の中に赤い日本刀が現れると、氷室は満足そうに悠々と構える。
「それでいい」
氷室は呟き、アイスダガーに手をかけた。余裕を含み、戦いを楽しむような気配。獲物を狩る狼が、逃げ場を一つも与えないよう迫るようなプレッシャー。
アイスダガーが引き抜かれる、鋭い氷音が響いた。
「……ただの腰抜けではなければいいが」
刃に、氷室の冷酷無比な双眸が映る。
一拍。互いに息を呑み込む。
次の瞬間、空気が爆ぜた。
氷室が地を蹴った。
ドッ!!と空気が震える。熊のような巨体が、まるで銃弾のように一直線に迫る。
(速い!)
亜蓮は小さな身体を瞬時に跳ね上げ、氷の一閃を紙一重で躱わした。細身の身体が風のように跳ね上がる。氷室の背後に着地と同時、亜蓮は日本刀を消し、倒れている少年へ疾走した。
だが、氷室は頭上の亜蓮を冷たい目で追っていた。余裕を残した動きで、腰の奥から一本の小型ナイフを引き抜く。一撃目は、ただの牽制。
「そうくると思っていた」
氷室が右腕を振り抜く。冷気の刃が獲物を追尾するように一直線に飛び、少年を抱き起こした亜蓮の肩を抉る。セレーションが肉を引き千切り、血の飛沫が舞った。
「っ゛!」
亜蓮が呻きを噛み殺す。焼け付くような痛みが肺を塞いだ。だが、氷室は片眉を僅かに上げた。
(これでいい……ッ!)
傷を突き刺す冷気と痛みが肺を圧迫する。亜蓮の足は止まらない。素早く少年の身体を抱え、そのまま壁を蹴って廃ビルの上に跳躍する。
氷室からアイスダガーが放たれた。迷いのない軌道。狙うのは亜蓮の眉間。こちらの力量を試されるかのような第二撃。
亜蓮は僅かに首を逸らす。瞬間、右手が弾かれたように動いた。
――カシン!
風を裂く音とともに、ダガーの柄を正確に掴む。
「……!」
氷室の目が細められる。何かを察したような僅かな表示の変化。
――廃ビルの上に立つ、赤目の青年。炎のように燃える亜蓮の双眸が、氷室を射抜く。そして、左手がゆっくりとダガーの刃を握りしめた。
冷たい金属が掌を裂き、血が弧を描いて宙に舞う。亜蓮は苦悶一つ見せず、赤い刃を躊躇なく路地に叩き捨てた。
……キィィン!!
静寂の中、刃が地に転がる音が響き渡る。
「もう少し頑張るんだ……!」
亜蓮はしっかり少年を胸に抱いた。全速力でビルの上を駆け抜け、足元から溢れる血が軌跡を残す。喧騒に気づいた退魔師隊の声が地上から上がったが、亜蓮は全てを振り切るように、闇の中へと消えていった――。
* * *
氷室は、静かになった闇を見上げていた。
路地に視線を落とす。茶封筒とナイフだけが、戦闘の名残のように転がっていた。
氷室は音もなく歩み寄り、転がったナイフを拾い上げる。刃の溝を伝う血を見つめながら、懐から小さなガラス管を取り出した。そこに、部下の退魔師が駆け込む。
「平門隊長! 追わせますか!」
「行かせておけ」
「は……?」
「聞こえなかったか? 追うなと言っている」
隊員が戸惑いを露わにする中、氷室は血液の一滴をガラス管に滑らせ、ポケットに丁寧にしまった。
「目的は果たした。それに――」
地面が、不気味に蠢いた。
「……ッ!」
隊員が顔を引きつらせ、声を失う。壁という壁から這い出す、無数の赤黒い瘴気の蛇――魅魅蚓。
氷室は血の飛び散った地面を見下ろした。
――魅魅蚓は生きている生物の血に引きつけられる。だから、氷室は多量の流血を避けるため、確かに亜蓮の肩を僅かに掠める位置を狙ってダガーを放ったはず……だった。だが、亜蓮はわざと体をずらして深く斬りこませ、流血を大きくした。
二投目のダガーをただ躱さず掴んだのも、わざと自分の血を撒き散らし、この混然とした状況を作り出すため。
血の匂いに惹かれ、闇が蠢いた。壁という壁から、無数の赤黒い瘴気の蛇が這い出す。街は、突然の襲撃に遭う隊員達の悲鳴で充満していく。
月光を背に氷室を見下ろす、亜蓮の燃えるような赤い目が蘇る。奴と目が合った瞬間、声が聞こえた。
――まさか、この程度で死んだりしないよな?と。
「……ただの腰抜けではないらしい」
氷室の口角が歪むように笑む。そんなこと、今なお手傷を負いながら逃走している亜蓮も同じだろうに。
無数の魅魅蚓に囲まれてもなお、氷室の目は楽しげだった。その目は狼のようにぎらつき、次なる計画を見据えていた。
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◆魅魅蚓ー 蚯蚓状瘴気魔
瘴気が凝縮し、魂の欠片や残留思念と融合して生まれた異形。知能はなく、本能的に生命エネルギーを求めて蠢く。瘴気の中を這い回って動く姿や形状がミミズに似ているのが由来。体長1〜3メートル程、赤黒い縄状の姿、生きている生物の血に引き寄せられる性質を持つ。常に2,3匹の小集団で移動し、瘴気の濃い場所ほど発生しやすい。蛇のように絡みつき、締め付けながら生命エネルギーを吸収する。単体では脅威にならないが、数が増えると非常に危険。




