第3話 「アジト」
千年京が「生きては帰れぬ神域」と呼ばれる所以は、その異質で過酷な環境にある。
――そのひとつに『瘴気』。
千年京を覆う赤黒い霧であり、『禁域』……イロハ桜の真下へ近づくほど濃度が増す。
耐性のない者にとって、それは猛毒にも等しい。軽度なら幻覚や幻聴、頭痛、吐き気や肉体的な苦痛で済むが、限界を超えれば、人は人でいられない。肉体が崩壊し環境に取り込まれるか、人外化が始まる。
瘴気に耐性のない者は、戦うどころか生存すら許されない世界なのだ。
* * *
瘴気のまとわりつく空気の中を進んでいたはずなのに、モモはふと呼吸が楽になったことに気づいた。
肌に触れる風が軽い。視線を上げると、木々の隙間に湧き出る泉があった。
千年京の空気が肌を指すような冷たさを持っているのに対し、泉の周囲の空気は柔らかくて心が安らぐみたいだ。
「ここ、なんか雰囲気が違いますね」
「アジトに移動する時は、瘴気の影響が少ない龍脈か龍泉を利用すんねん。知っとくと色々便利な場所やで」
御之が泉の淵まで降り、モモにも隣に来るように顎で促す。
泉のそばまで降り、水面に目を落とせば、どこまでも透き通る水の底に金色の砂が静かに光を散らしていた。
綺麗だ。見ているだけで、心の奥に溜まっていた澱が洗われていくみたいだ。
「まぁ見ててみ」
御之が泉に手をかざすと、小さな光の陣が魔力に反応して浮かび上がる。
目がくらむほどの光が一瞬周囲を塗りつぶした。耳がキンと詰まるような圧迫感と、足元が宙に浮いたような浮遊感のあと、地面が硬く変わった。湿った土や草ではなく、ひんやりとした石の感触が足の裏に伝わる。
目の前に、広い和風の土間玄関が広がっていた。
「えっ……うわ、場所が変わった!?」
殺風景な土間の端に無骨な黒いバイクが鎮座し、わずかにオイルの匂いが漂っている。空気はひんやりと澄んでいて、奥の木戸の隙間からかすかに木の香りがした。
足元に目を落とすと、タイルと石でできた魔法陣が静かに存在感を放っている。
「アジトの転移陣やで。ぼちぼち覚えてなー」
御之がさらっと言いながら靴を脱ぐと、ちょうど花緒が現れた。――げっ、と嫌そうな顔をする花緒。
「あれ? 千助は?」
「帰りました」
花緒と御之がドアの先に進む。モモが慌てて自分の脱いだ履き物を揃えて上がると――。
「わぁ……!」
目に飛び込んできたのは、まるで物語に出てくる秘密基地のような光景だった。
黒い革張りのローソファ。鉄脚の長テーブル。天井には配管がむき出しになって絡み合い、無骨な鉄の階段が2階へと続いている。その全体を、洒落たシーリングライトが照らしている。部屋の一面には障子戸が続いていて、夜の色が薄く透けている。
荒々しいのに洗練された雰囲気に、モモの心は一瞬で奪われる。ここがただの生活空間ではなく、戦いを日常とする者たちの「アジト」であることが一目で分かった。
「素敵な基地ですねー!」
目を輝かせながらまじまじと見渡していると、ふと、生活感溢れる小上がりの畳スペースを見つける。
片付けられず残ったマグカップの中には、飲みかけのお茶が残っていて、座布団は枕に使ったのか折り曲げられたまま。無骨な部屋の中で、ここだけ人の温かみがあった。
モモの視線に気づいた花緒が、嫌なものを見られた顔をして小上がりに向い、てきぱきと片付け始める。
「見苦しいものをお見せしました」
「全然! むしろこういうの好きです! みんなここで生活してるんですね!」
(すっごく綺麗な人……)
モモはドキドキしながら、慣れたように片付けを進める花緒を見つめた。
皺ひとつないワイシャツに、黒のスラックス。サスペンダーが美しく沿い、足元まで隙がない。
背筋の通った細い体。深緑の髪は活動の邪魔にならないようショートハーフアップに、そこから覗くうなじにまで品がある。冷たく見える翠色の瞳に、柔らかい丸みを帯びた顔立ち……。
まるで、凛とした硝子細工みたいだ。触れたら割れそうで、それでも、見とれてしまう。
ふと、花緒の後髪に刺された簪に目が止まる。女性向けに見える、蝶の形をした銀細工だ。華美すぎシンプルながら凝った技巧。そして右手の薬指には、銀の指輪。
――簪に、右薬指の指輪。モモにだってわかる。それを意味するところは一つしかない。
「そっか! 花緒さんが、亜蓮さんの婚約者さんなんですね!」
花緒の肩がびくっ!!と跳ねた。
「…………は?」
強張った表情の花緒が振り返る。そして鬼気迫る表情で詰め寄った。
「待って。誰が、誰の婚約者ですって?」
「えっ、え? 花緒さんが、亜蓮さんの、ですよね?
」
「えっ……」
「だって亜蓮さんのこと、『亜蓮様』って呼んでるし。その簪も、もらったものですよね!」
花緒は僅かな間、口を開けたまま言葉を失っていた。
だが次の瞬間、
「……違います」
冷え切った目になって断言した。
「えっ!? でも指輪……」
「ただの虫除けです」
「えっ……そんな高そうな指輪を……?」
花緒が僅かに目を丸くして、指輪を二度見した。花緒が返す言葉を失っていると、御之が爆笑した。
「モモちゃん、花ちゃんは亜蓮の執事やで」
「執事!?」
モモの声が裏返る。
「えっ、執事って、あの執事!? 燕尾服着て庭で紅茶淹れてくれるやつですか!?」
「……あなたの想像しているそれとは違います」
花緒が強張った顔で突き放そうとするが、モモは動じない。モモのズレた反応に御之が腹を抱えて笑っている。
「すごい! 私、執事さんにはじめて会いました! ていうか、執事って男の人がやるものじゃないんですか?」
「別に決まりはありませんし、あなたの感想はどうでもいいです。それに私は、亜蓮様に対して邪な感情は一切ありません」
「えー? ええやん、認めたら」
「は??」
花緒がわずかに動揺して眉を上げた。声が少し震えている。御之はニヤニヤと意味深に笑った。
「まーしゃーないわなぁ。あんなに可愛かった弟みたいな相手が、ちょっと見ない間に男になってんやもんなぁ……違和感ありまくりやわなぁー?」
「……?」
モモが御之と花緒を見比べるが、花緒の表情はひくひくと引き攣っている。
「ほら、あれや! 家族やと思ってたのに、久しぶりに会ったら意識してもうて――
ズバァン!!!
突如、御之の耳元で結晶が炸裂した。真っ赤な顔で唇を引き結ぶ花緒の右手が、かすかに震えている。
モモはびっくりして硬直した。ずっと冷静だった花緒が、初めて本当に動揺している。
「びびったー!! こっわ!!!」
「死ね糞金髪。すぐにこの人に空き部屋を案内してください。さもなくば奥歯から一本ずつ全部の歯を消し飛ばす!!」
「最初が死ねやん! なんでやねん! そんなん女の子同士の方がええやん!」
「私は亜蓮様の執事であって、あなた達の世話係ではありません!」
花緒はテーブルの上だけを手早く片付けると、モモを避けてスタスタと歩いていく。
「あ! 何か手伝えることありますか? やりますよ!」
「結構です!!」
花緒が力任せに部屋のドアを閉めた。想定以上のわかりやすすぎる反応に、御之が呟く。
「めちゃくちゃ動揺しとるやん……」
*
――ガチャン!
水滴が弾ける音に、花緒がハッとなった。シンクにマグカップを置くと、思ったよりも強く音が響いてしまった。
水が流れたままの蛇口。流し台に手をついたまま、花緒の手が止まる。
「…………」
――赤い閃光が、閃く。
精悍な横顔。
鋭い眼差し。
獲物を追う獣のように研ぎ澄まされた動きが、脳裏に焼き付いて離れない。
「……はぁ」
気まずくなって、額に手を当てる。耳まで赤く染まりかけたのを誤魔化すように髪を掻き上げた。
――花緒。
ぎゅっ、と心臓が痛む。優しく呼ぶ低音が熱く耳に甦り、連鎖するように記憶が引っぱり出される。
鋼のように引き締まった体。しなやかに伸びる腕。わずかに遅れてなびく黒衣。敵を斬る一太刀一太刀は指先まで研ぎ澄まされて美しく、そして――。
「……もう!!」
何かを振り払うように首を振って、勢いよく蛇口を閉めた。無理やり意識を切り替えようとする。
だが……。
――これは、まずい。
自分の顔が熱いのを誤魔化しながら、花緒はそっと頬を撫でた。やめたいのに、どうしても亜蓮の顔がちらついて止まらない。
「違う、私……」
掠れた声を漏らしながら、花緒はとうとう悶絶してその場にうずくまる。止まらない恥ずかしさと自己嫌悪で、しばらく動けそうになかった。
* * *
「ん~、とりあえず2階のゲストルームでええか」
御之がぼやきながら階段を上がり、モモが後ろをついていく。
窓のない廊下は暗く、足音がやけに響いた。どの部屋も空き部屋なのだろう。廊下に並ぶ扉はどれも閉ざされていて、人気がない。
御之が一番奥のドアを開けた。
「ほいっと」
パチン。電気をつけると、柔らかな光が部屋を満たす。
ふわっとした優しい白と木の温もり。シンプルなセミダブルベッドに、控えめなグレーのクッション。隅に小さな机と軽い椅子。和紙のランプがベッド脇で優しく灯っている。ゲストルームらしい静けさと、さりげない可愛らしさ。
「おお〜可愛い!」
「君全部感動してくれるからおもろいな」
「だってすっごい可愛い部屋じゃないですか!」
「まぁモモちゃんにはちょうどええか」
確かに、御之の長身ではこの部屋は手狭だろうが、小柄なモモにはぴったりだ。
「じゃあこの部屋もらっていいですか?」
「気に入ったなら好きに使うてええよ。一応言うとくと、花ちゃんの部屋は一階、亜蓮の部屋は中庭の離れやからな」
「え? 御之さんの部屋は?」
「俺はたまに泊まるだけやで~」
ということは、御之には他に拠点があるのだろうか。気さくなようで、どこか他人と一線を引いている人なのかもしれない。
「お風呂は一階な。着替えは花ちゃんからもらっとき」
「え? でもさっきは面倒見ないって……」
「そんなドロドロの格好でおらせるほど鬼やあらへんて」
御之が手をひらひらさせながら笑う。
後でモモが教えられた浴室のドアを開けると、すでにきちんと畳まれた着替えが用意されていた。
「ほんとだ……」
驚きながらモモは服を手に取る。上下黒のスポーツジャージだ。畳まれた着替えを手に取ると、ふわっと柔軟剤のいい匂いがした。
それから、浴室の戸をそっと開け、中を覗き込む。たっぷりのお湯が張られた真っ白なバスタブ。ウォールナット色の木目の壁に、冷たそうな黒い石の台座、真新しい銀色のシャワー。夜の色に染まった細長い小窓には、湯気がかすかに絡んでいる。
棚には見覚えのあるメーカーのシャンプーのボトルが並んでいて、ほっと肩の力が抜けた。
「良かった〜普通のお風呂で」
(檜風呂とか全面大理石だったらどうしようかと思った)
おかしな想像にモモは一人でふふっと笑う。湯船に浸かると、ふわりと全身の疲れが抜けた。
「幸せだ~……」
疲れが溶けるように湯に馴染んで、じんわりと身体の奥が温まっていく。
(お風呂なんて久しぶりだな……)
ぼーっと天井を見上げると、まるで映画の中のことのようにこれまでの出来事が蘇ってくる。
(知らない世界だ……)
不気味な街、生きているみたいな桜、金色の泉、魔術でしが辿り着けないアジト……。
わからないことが多すぎる。でも、不安よりも知りたい気持ちと好奇心が勝っていた。
(それに、亜蓮さん……)
記憶の中の彼の姿が蘇る。
戦場で見た、鋭い眼差し。なのに、私を助けたときは驚くほど優しい声をしていた。
(もっと話してみたい)
そう思うと、胸の奥がそわそわしてくる。
早く、帰ってこないかな。
* * *
「遅い……」
花緒の呟きが、夜の廊下の闇に沈む。
外は平和過ぎるほど静かだが、花緒の胸のざわつきはおさまらない。
「亜蓮まだみたいやな?」
御之がポケットに手を突っ込みながら現れる。さっきのように揶揄う空気はなかった。
「メッセージには既読がつきましたが、返事がありません」
「ふうん……」
御之はガラケーを開き、式神の消耗具合を確認する。揺動に放ったクロチが攻撃された形跡はないが……この画面だけでは何があったかわからない。
(ちゅーか……)
口元に手を当てて考えこむ花緒を、御之がちらりと見る。
(さっきの今でその態度なん……? 切り替え早っ)
そこには、主人の身を案じる冷静な執事としての花緒しかない。女の子ってわからん……などと御之が思っていると、花緒がすっと顔を上げた。
「少し、様子を見てきます。貴方はここにいてください。あの子も、貴方の方に懐いてるようですし」
花緒が言うと、御之はガラケーを閉じながら軽く笑った。
「花ちゃん。モモちゃんの攻撃受け止めるんに、結構魔力消耗したやろ? 今動くのは危ないで」
図星だったのか、花緒は指先の震える両手を後ろに隠す。目が合うと、御之は余裕の表情で首を傾げた。
(万が一戦闘になった場合、今の私は足手纏いになる可能性の方が高い……)
悩み抜いた花緒の顔に諦めの色が浮かび、体の力が抜ける。
「……わかりました。でも一つ」
花緒がずい、と御之に詰め寄る。
「消耗が激しかったのは、半分あなたのせいですから。暴走癖も大概にしてください」
「あはは、かんにんやで~」
御之は悪びれもせず、ひらりと手を上げた。
*
「お風呂いただきました~……あれ?」
メインルームに戻ると、部屋は静まり返っていた。
カウンターの上を見やると、ラップのかかった皿と、ステンレスの保温水筒と湯呑みがあった。湯気で少し曇ったラップの内側に、まだほんのり温かさを残したおにぎりが2つ並べられている。
畳スペースでは、花緒が座布団を二つ折りの枕にし、静かに寝息を立てていた。無防備な寝顔に、散らばった毛先が少し乱れていて、ここまでずっと休まず世話を焼いてくれていたことが伝わってくる。
……ありがとう。そう口に出しかけたが、お礼を声にするのもためらわれるほど部屋は静かだった。
ひたひたと歩く足音すら大きく聞こえ、ほんの少し前まで賑やかだった空間が、今はやけに広く、ひんやりとしている。
「亜蓮様……」
その時、ぽつりと花緒の唇が動いた。
モモが少し驚いて振り返ると、花緒の目に薄らと涙が浮いている。モモの目にはそれが、花緒が何か辛いことを思い出して泣いているように見えた。
「……」
ふと見上げた壁掛け時計の針は、午前3時を指している。




