第1話 「あの日までは、ただの春」
――2029年、春。
華上の屋敷は、山の麓に佇む静寂の中にあった。
木々が風に揺れ、春の鳥が鳴く中、使用人達の慌しい呼び声だけが浮いて聞こえる。
「雪乃様ー! どこですか!」
少年―― 亜蓮は、鯉が泳ぐ池のほとりで膝を抱え、それらの声を聞き流すように水面をぼんやりと見つめていた。
気の弱そうな赤い瞳に、少し目にかかる黒い短髪。細身で小さな体躯に、薄鼠色の着物袴。
【華上 亜蓮 10歳 秘術師の少年】
桜の花びらが、春風に乗ってふわりと池に舞い落ちた。今日も、使用人と術師達が姉を探して家中を駆け回っている。……また、父の大事な錫杖がないのだろう。
亜蓮は一つ息をつくと、喧騒を避けてそっと屋敷を離れた。
お気に入りの一本桜の丘に来ると、亜蓮は先客がいるのに気づく。やたらと勇ましい声と共に、少女が落ちてくる花びら目掛けて錫杖を突いていた。
「せい! やあ! せやあっ! せやーーっ!!」
棒術を応用した見事な錫杖捌きに、子供じみた遊びが組み合わさって、あまりに間抜けな光景に言葉を失う。
少女の動きが止まってようやく、亜蓮は口を開いた。
「……ねえ、それ……父さんに怒られるよ」
「――亜蓮」
錫杖をひと振りし、肩に担ぐ――姉。風切音と鈴の音を残して振り返ると、にやりと笑った。
「あんたってさぁ……ほんっと気が小さいよね」
【華上 雪乃 14歳 秘術師の少女……天才】
姉――雪乃の言葉に、亜蓮は不機嫌そうに顔を顰めた。
* * *
ふたりで桜の木の枝に乗って、眼下の華上家を見下ろす。
雪乃は錫杖をかかえながら、仏壇から掻っ払ってきた饅頭を食っていた。錫杖もまた、千年以上前から受け継がれてきたと教えられている、由緒ある宝具だ。なのにそれが、こうして戦陣の練習相手にパクられてきている。
これが、歴代最強の秘術師と呼ばれる、華上 雪乃14歳の本性である。
常人離れした身体能力、精神力、勘の鋭さ。遊び感覚で術も武道も体得するセンス。時代が違えば、歴史に名を残すほどの鬼神になったと言われているが……。生まれる時代を間違えれば、ただの“奇人”だ。
「……姉さんはいつかばちが当たると思う」
「わかってるよー。だから修行頑張ってるんじゃん! でもこういうのも練習になるかなーと思って。あんたこそどうなの?修行」
亜蓮は答えられず黙り込む。
「……姉さんはいいよね。才能あって」
「はあーまたそれー? ほんと卑屈だよねあんたー」
さっき、剣術の師範に向けられた呆れ顔と同じ反応だ。
真面目なのはいい。でも気が弱すぎる。ここぞという時の気迫と信念が足りない!……師範の声が頭の中でぐるぐる回る。
「――ま、あんたはさ。優しいところがいいところだよ」
雪乃が笑う。少しだけ大人びたような表情で。
「……それって気休め?」
「違うよー! 褒めてんの!」
できる人に言われても、反発心しか湧いてこない。亜蓮はむすっと唇を歪めた。
――僕の家には、言い伝えがある。
いつか、とても恐ろしいものがやってきて、この世界をめちゃくちゃにして、とてもたくさんの人が死んでしまう……らしい。
"らしい"というのは、それがいつ起こるかも、どんな形で起こるかもわからないからだ。そしてその言い伝えがあまりにも古すぎて、伝説や昔話の様になりつつあるからでもある。
でも僕の家は、その“いつか”に抗うため、千年以上も前から、事実、神聖な力を受け継いできている。
僕ができることは、ただ修行を重ねながら祈ることだけだ。
どうか、“その時”など永遠に来ませんように。
でももし、たくさんの人が怖い思いをして、悲しむくらいなら、どうか、僕ひとりだけが傷ついて全て終わりますように。
ただ、強い姉を目の当たりにする、その度に自分の中が揺らぐ。
お前には無理なことだ。お前がこの家に生まれてきたのは、何かの間違いだ、って――。
亜蓮がおずおずと、雪乃を見上げる。
「……姉さんは嫌じゃないの? この生活」
「え? んー別に? むしろ特別感あって好きだし」
雪乃は高い木の枝の上にいることも忘れるくらいすくっと立って、ぐーんと伸びをした。その身のこなしと堂々とした様は、不思議と雪乃を内側から輝かせて見せる。
「でも、まだまだだよ。まだ、全然納得いかない。この錫杖を継いでも良いってお父様に認められるには……もっと、もっと修行しないと」
雪乃は前に突き出した手を握りしめた。予感のように、爽やかな春風が吹く。
……もし、もしそういう時が来たら、きっと姉のように勇敢な人間がこの錫杖を握るんだろう。物語の主人公のように、選ばれた者として、その時に立ち向かっていくんだろう。
僕には……何もできる気がしない。
「亜蓮様! 雪乃様!」
見下ろすと、ショートハーフアップにワイシャツ姿の女性が軽やかに手を振っていた。
【鮎川 花緒 20歳 結界術師】
凛とした顔立ちを柔らかく微笑ませる。亜蓮の教育係であり、専属執事の花緒が、桜吹雪の中に立っていた。
その翠色の優しい瞳と視線が合い、亜蓮の心臓がどきんと跳ねた。




