第279話 「ちょっと、しょっぱい……かも……?」
「えへへ……暑いね?」
パタパタと早霧が手で自分の顔を扇ぐ。
真夏の自宅トイレの中と言うのは本当に暑く、油断していたら熱中症になりかねない密室だ。
そんな密室に俺と早霧は一緒にいる。
扉を閉めて、鍵までかけて、せめてもの救いは換気の為の窓が開いていることだけどそれもあまり効果が無い。
少し離れていてもすぐにくっついてくる早霧が、離れることも出来ない密室で何もしない筈が無かった。
「――んぅ」
暑さとキスで上気した顔が、目の前に広がる。
少し背伸びをした早霧が俺の唇を塞ぐ、漫画のワンシーンにありそうなキスだ。
だけどここは家のトイレ。放課後の教室とか、屋上とかじゃなくて、俺の家のトイレである。
ロマンチックな要素はほとんどなく、いつも過ごす日常と、日常になったキスが混ざりあい、一周回って非日常な空間となっていた。
「れんじ……んっ……」
早霧が、俺の背中に手を回してくる。
暑い中で身体までくっついて、体感温度はバグりにバグっていた。
今日は部活があるから手短にと済ましていたキスの時間を取り戻すように、早霧は俺の唇に自分の唇を重ねてくる。
柔らかな唇が濡れているのは、汗なのかどうかも既に分からない。
分かるのは、その熱にやられた俺も早霧の背中に手を回したという事だけだった。
「暑いから……ん……ちょっとだけ……んん……だからな……」
「わ、分かって……んぅ……るよ……んちゅ……」
熱中症で、風呂でのぼせて、と早霧は何度も暑さでダウンしている前科がある。
また夢中になって倒れてはいけないと、予防線を張る必要があった。
だけどその間もキスの応酬は続き、言葉を紡ぐ前にその口が塞がれていく。
会話はあくまで表面上のものになって、キスを加速させる為の燃料になっていた。
「はぁ……ふぅ……し、舌は入れないから……ね……?」
「……それなら」
「んぁっ……」
何がそれならなのかは分からない。
だけど、それなら大丈夫だと思った俺から早霧の唇を奪った。
暑さで頭がボーっとしているのか、暑くて塩分が欲しいのか、早霧の唇が欲しくてたまらない。
吐息と共に漏れる甘い声が、更に俺の思考を奪っていった。
「汗……すごい……」
「……え?」
何度目忘れるぐらい唇を重ねた後、早霧が俺の額に手を伸ばし前髪に触れる。
どうやらこの短い時間でのキスだけで、完全に汗だくになっているようだ。
そういう早霧も綺麗な白い髪が完全におでこに張り付いていて、滲んだ汗が毛先に溜まっている。
そんな早霧の仕草や行動全てが愛おしいと感じながらも、流石にヤバいなと心の中で警鐘が鳴り始めた。
「……ぺろ」
だというのに。
早霧はキスではなく、俺の頬を舌先で舐めた。
多分それはきっと、俺の顔に流れる汗を舐めたのだろう。
分かってはいるのに。
何度もキスで舌を絡めているというのに。
俺の頬を早霧が舐めたというに、俺の心臓はとんでもなく高鳴ってしまった。
「ちょっと、しょっぱい……かも……?」
「っ!!」
「え、わっ、わぁぁっ!?」
そしてトドメに、早霧が蠱惑的な表情で、そんな事を言ってくる。
それが完全に引き金だった。
俺は早霧を抱き寄せながら、勢いよく背中側のドアノブに手を伸ばす。ガチャリと鍵を開け、扉を開き、早霧と一緒に倒れるように背中から廊下へ倒れこんだ。
激しい衝撃と同時に鈍い痛みが広がる。
でもそれ以上に、風通しの良い廊下の、新鮮で比較的涼しい空気が俺たちを包んだんだ。
「れ、れんじ……?」
俺に抱きしめられたまま俺に乗っかる早霧が、困惑しながら俺を覗きこんでくる。
流石の早霧も急な動きと衝撃に我に返ったようだった。
俺は未だに鳴りやまない心臓を落ち着かせるように大きな深呼吸をしながら、ゆっくりと口を開く。
「あのまま、いってたら……とまれなく、なってた……」
「…………ごめん」
馬鹿みたいな理由だけど、本当にギリギリだったんだ。




