第269話 「……一回だけね?」
ガコンッと自動販売機から飲み物が落ちてくる音がする。
そんな些細な音が目立つぐらい、夏休み昇降口の静かだった。
ついさっきまでの、自分らしさ研究会部室の騒がしさが嘘のように……。
「お茶茶お茶茶々」
「……何言ってんだ?」
「だって、お茶がいっぱいだし」
巫女服姿の早霧が、即席の変な歌を歌いながら自動販売機からペットボトルに入ったお茶を取り出す。
あのまま午後のチーム分けをしても良かったのだが、長谷川や草壁の暴走が止まらなかったので一端頭を冷やすために俺と早霧は全員分のお茶を買いに来ていた。
部室の方はきっと今頃、ユズルが頑張ってくれていることだろう。
「さっき買ったぶどうジュース、帰ったら飲もっか?」
「だな。もうぬるくなってるだろうし」
早霧からお茶が入ったペットボトルを三つ受け取る。
夏の暑さのせいか、ペットボトルをかかえると表面に浮かんだ水滴が腕について冷たい。
早霧は借り物の巫女服なので腕でかかえる事はせず、左右の手でそれぞれ一本ずつ持っていた。それにしても綺麗である。
「蓮司? 私の顔に何かついてる?」
「ああ。綺麗だなって」
「ま、またそういうこと言うぅ!?」
「だって、本当のことだし」
「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……!」
通いなれた学校の廊下に、巫女さんがいる。
日常のありふれた風景に突然現れた非日常は、それだけで俺の胸にドキドキを生み出していった。
見れば見るほど似合いすぎているその巫女服姿に、嘘を言うつもりは全く無い。
「浴衣の時とか、巫女服の時とか、蓮司は和服が好きなの……?」
「早霧が着てくれるなら、何でも好きだな」
「そ、そういう事じゃなくてぇ!」
恥ずかしそうに視線を逸らしたかと思ったら、今度はキッと睨まれた。
でも事実、着替え途中だった浴衣も今着ている巫女服も似合いすぎてヤバい。
そう言えばどちらもポニーテールだ。はたして関係あるのだろうか?
……早霧ならどんな髪型でも似合うな。
「……じゃあ蓮司は、私のスクール水着姿も好きなんだね」
「…………あぁ」
「……えっち」
「……言わせたの、早霧だろ」
何か気まずくなってしまった。
お互いに顔を背けながら、長い廊下を歩いていく。
朝と違うのは、今が学生服と巫女服という組み合わせな事ぐらいだった。
「……蓮司は」
「ん?」
「……蓮司は、私と一緒に仕事したい?」
「当たり前だろ」
早霧が顔を背けながら、俺に聞く。
長谷川があれだけユズルと一緒になりたいと叫んでいたせいだろう。
俺だって当然、早霧と一緒に神社で仕事をしたい。
ボランティアでも、俺と早霧の仲を深めてくれたあの神社にお礼がしたいんだ。
「そっか。えへへ……私も」
すると早霧は、ニンマリと笑みを浮かべる。
巫女服姿のその笑顔は、温かい春の日差しのような笑顔だ。
綺麗で大人びているのに子供のように純粋で、可愛らしい笑顔。
その笑顔を見るだけで、俺の胸の奥がどんどん熱くなっていくんだ。
「……早霧」
「んー?」
「……キスして良いか?」
「うえうぅっ!?」
「……駄目か?」
「な、何で……今?」
「……したくなったから」
「そ、そればっかりぃ……!」
部室で賑やかなのは楽しい。
そのおかげで、早霧とこうして二人きりに戻るとまた愛しさが生まれる。
何度も生まれ増えていく愛しさに上限は無い。
今も恥ずかしそうに俯く姿を見て、どんどん愛おしくなっていく。
「……一回だけね?」
廊下の一番奥。
自分らしさ研究会がある部室の手前にある階段への曲がり角を横に。
誰もいない階段の手前で、早霧は顔を真っ赤にさせながら俺を見上げる。
淡い色の瞳が潤んで、薄桃色の唇が期待からか少しだけきゅっとなっている。
お互いに両手が塞がっているので、自然と顔だけが近づいて。
「――んぅ」
「――んっ」
そっと唇と唇が触れあった。
学校で、巫女服で、キスをして、日常と非日常と日常が折り重なる。
何層にも膨らんだ愛しさは唇を離しても残っている。
「…………戻るか」
このままもう一度、その唇を塞ぎたいと思う。
だけど部室から聞こえてくる賑やかな声が、ギリギリのところで俺と早霧を現実に引き戻した。
「…………うん」
長い沈黙の後で、早霧が俺の後ろをついてくる。
早霧は色白で綺麗なので顔が赤くなったらすぐに分かってしまうんだ。
だから俺が先に前を歩き、何事も無かったかのように自分らしさ研究会の部室へとペットボトルを抱えたまま入っていくと――。
「ゆずるちゃん! ゆずるちゃんっ!」
――学生服姿の長谷川が土下座しながら叫んでいて。
「ひょわっ! ひょわっ! ひょわわわっ!」
――巫女服姿の草壁が奇妙な声を発しながら周囲を踊り廻っていて。
「お、降りちゃ駄目かなぁっ!?」
――机の上では、巫女服姿のユズルが正座をしながら祀られていた。
「…………」
「わぶっ!? れ、蓮司……急に立ち止まってどうした、の……?」
俺も早霧も、それを見て絶句する。
それほどに自分らしさ研究会の中心で行われていた奇妙な儀式は、つい数秒前までのムードをぶち壊すには強烈過ぎたんだ。




