アキラ編
目の前が歪んで見えるのは、僕が涙を流しているからだと認識するのに数秒を要した。だけど、なぜ、自分が泣いているのか、その理由は分からない。目の前で僕の肩を抱く友は、知っているのだろうか。ずっと見つめる僕に向かって、彼は少しだけ微笑み、家に帰ろう、と消えるような声でそう言った。
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春風が爽やかにそよぐ四月初旬。大学四年生ともなると、何かと忙しい。教授からの課題、それに伴うレポート作成。おまけに実習とゼミにと追われる日々は、アキラにとって次第に生活のルーティンと化していた。
何事にも余裕を持って行動する彼には、締切や期限という言葉には限りなく無縁だ。その代わり、それらの言葉が付きまとう友人の面倒を見るのに徹するのが務めだった。今日も、友人に頼られ図書館に足を運ぶ。その友人は1時間ほど前から文献が見つからずに苦戦しているらしい。そんな彼を助けてあげて、と僕の講義が終わるタイミングを見計らうように幼馴染もとい彼の恋人からご丁寧に連絡があった。
大学の中心に位置する場所に、図書館は建っている。各学部の棟内にも別館という扱いでその学部に合わせた専門書が所蔵されている。しかし彼はいつも本館を利用していた。その理由が、煮詰まった時に立ち寄れるカフェに行きやすいからだと自慢げに言われた時は、どうしてこんな人が首席で入学したんだろうと頭を悩ませた。
学生証をかざして入館し、彼の定位置へと向かえば、電子画面とにらめっこしている真っ最中だった。
「レオン」
名を呼べば、満面の笑みでこちらを振り向いた。まるで子犬だなと思うけど、言わないことにする。
「そろそろ来てくれるんじゃないかと期待してたんだよね」
さぁさぁ、と隣の席の椅子に座るように促され、素直にそれに従い彼の手元の文献と電子画面とを交互に見やる。
「思い切って難しいテーマに取り組んでみたは良いものの、文献少ないし著者によって意見は割れてるし、データも不十分でまとめられないんだよね」
「あのさ、身の丈に合うって言葉知ってる?」
内容は、想像をはるかに超える難易度だった。博士号でも狙っているのかと教授に言われてもおかしくない。探究心が強い院生でも、骨の折れるテーマだろう。専門的な知識も十分に必要とされることは間違いない。そんな無理難題のテーマに、四年生であるレオンは着手した。卒論でもなんでもない。医学に関するものなら何でも可、と言われただけの、どうにでもなる講義の課題レポートに、この気合いの入れ方。一体何がしたいんだこの男。彼が年上であることは分かっていても心の中ではそう毒づいてしまう。
「乗りこれられない試練は与えないって言うじゃん?それを証明するにはちょうど良いかなって」
……だめだ、頭痛がしてきた。
「締切は?」
念の為、タイムリミットをたずねる。今の時刻は午後三時を回ったところだ。彼がどう言う趣旨で書き進めているのか分からないし、手伝うなら多少の知識は文献から得たい。幾度となく彼のこんな場面に付き合ってくると、手伝う以外の選択肢がアキラの中から自然と消えている。
「……いつだと思う?」
「そういうのいいから」
質問を質問で返すのはレオンにとっては挨拶のようなものだ。付き合ってられないのでテキトーにあしらう。
「今日の六時」
「…………馬鹿なの?」
思わず口に出たその言葉に偽りはなく、長く深いため息をつくには十分だった。