義母と義妹に虐げられている私ですが、屋敷の裏で煙草を吸ってストレス発散していたら眉目秀麗の金髪男性と出くわしてしまいました。
いつもの通り、頭を空っぽにして読んでください。
ちなみに筆者は煙草を吸わない人間です。昔吸ってみたことがありますが、やり方がよく分からなくて断念したレベルの経験なので、知識とかには期待しないでいただけると助かります!!
※この作品は喫煙を推奨するものではありません。ご注意ください※
問題がありそうなら消します。
バシャッ! と冷たい水がかけられる。
身体中から水滴がぽたぽたと落ちるのを見て、地下室の中は甲高い笑い声で満ち満ちていった。
「キャハハハハ! 見て見てお母様、まるで溝鼠のよう! きったないったらありゃしないわ!」
「まぁまぁ、マーガレット。溝鼠、だなんて言葉はおよしなさい。聞いているのが私だけだからよいものを」
「だぁいじょうぶよ。こんなブスに何を言ったって、誰も咎めたりはしないわ」
そう語る彼女は、私の義妹のマーガレット。
お姫様のような見た目からは想像もつかないくらい、酷く醜い表情で笑っている。
(……どうして、こうなったのか)
ぼんやりと考える。
私のお母様が居た時は、こんな風じゃなかった。
お父様は仕事でいつも居ないけれど、やさしい母と使用人達に囲まれて、何不自由ない生活を送っていたわ。
私、毎日毎日、笑って日々を過ごせていた。
そんな毎日が崩れ落ちたのは、お母様の死以降。
お母様を愛していたお父様はとても沈んでしまって、母を思い出すから娘の私の顔も見たくない、と言った。昔はあんなにも可愛がってくれていたのに。
そうして、寂しさと自暴自棄でお父様が行ったのは、違う人との再婚。
その結果、今こうして私を虐げている義母ミランダと、義妹のマーガレットが我が家にやってきた。
元々仕事に忙しかったお父様はもっとそちらにかまけるようになってしまって。
それを良いことに、義母と義妹は私を毎日のように虐めてくるようになった。
優しかった使用人達はみんな解雇されて、二人の息がかかった者達しか、今の屋敷には居ない。
私を守ってくれる人なんてどこにも居なくて。ただただ、あの温かい日々を思い出して、自分の心を守っていた。
(どうして……)
何度問うても、わからない。
あの温かい日々は、もう、帰ってこないのかな。
すると、地下室のドアがコンコン、とノックされる。
「奥様、マーガレット様。お茶の用意ができました」
「あら、もうそんな時間?」
マーガレットが後ろを振り向く。
「おやつ〜、おやつ〜♪ 行きましょう、お母様!」
「ええ。……アビー、いつまでそんな所で蹲っているの。
私達はお茶をしてくるから、さっさと家の仕事を終わらせなさい!」
ドカッ! と義母の蹴りが横腹に入り、思わず咽る。
そんな私を見て、二人はまたクスクスと笑いを漏らしていた。
「本当、──あんな人生、生きてても意味があるのかしら?」
「っざけんな、あのクソども!!!!」
壁を思いっきり蹴る。
湧き上がるイライラを足に込めて、また一度蹴り飛ばした。
「なーーにが、『あんな人生意味あるのか』だ!! 余計なお世話だし、テメーが言うことじゃねーーだろボケ!!!!」
そうして少しの間ストレスを撒き散らした後、服のポケットからある物を取り出した。
そしてそれにマッチで火をつける。
「……はぁ〜……」
吸い込んで、吐き出した。
そうすると、何だか頭の中が楽になるのだ。
「ったく、吸わなきゃやってらんない……」
私が手に持っているもの。
それは────“煙草”である。
いつ頃からだったか。
このクソみたいな生活が始まって十数年後。私はたまたま父の部屋に入る用事があり、たまたま、机に置かれていた父の煙草入れを目撃した。
「煙草を吸うとストレス発散になる」なんて話をどこかで聞いたせいか、はたまた単なる興味か。
その中から一つだけこっそりと拝借し、気分転換に座っている家の裏辺りで吸ってみたのだ。
最初は散々だった。やり方なんてろくに知らなかったし。
でも不思議といい気持ちになって、そこから度々父の部屋に入っては、1本2本、と盗んで吸うようになっていったのである。
ちなみに国の定めた「煙草を吸ってもよい年齢」には達しているから、法を犯しているわけではない。
そして、そんなことをしている時にふと思った。
────この環境、クソだなって。
「令嬢扱いされてないんだから、令嬢っぽく振る舞うなんざ馬鹿らしい」
なんということでしょう。
実母が生きていた時は丁寧なお嬢様言葉で話していたというのに、成長した私はすっかり言葉遣いが悪くなってしまった。
まるで平民のようである。唯一のお友達である本の影響かしら? なぁんて。
まぁ、誰も聞いてないし。いいだろ。
なんかこっちが素のような気もするし。こんな誰も居ない場所で取り繕ったって意味無いだろうし。
「は〜ぁあ、どーすっかなぁマジで……」
がしがしと頭を掻く。
ボサボサの赤毛を適当に纏めているだけのそれに気を遣うことなどない。
それよりもだ。
この環境、いい加減何とかしないとならん。
方法としては、“味方を作る”か“家を出ていく”の2択だろう。
前者はやってみた。仕事で家にほぼ居ない父親を捕まえて、自分の実情を伝えてみた。
しかし「そんな報告は上がっていない」「アンナに似たその顔で私を見るな」とすげなく返され、スタスタ早足で歩き去っていく父の背中を見ながら思ったのだ。
この男に言っても意味がない、と。
それならば、後者しかなかろう。
家を出ていく。それしかあるまい。
けれども、言うのは簡単だが実行は中々に難しい。
無言で姿を消せば、もしかすると体面的なものを気にした家族に捜索願等を出されるかもしれないし、そうでなくても何の蓄えもなく家を出ていくのは率直に言って“死”一直線だ。何も出来ずに野垂れ死ぬ気しかしない。
私自身の財産と呼べるものなど何も無く。毎日毎日鬼のような仕事を言い渡され、刺繍など個人的なものを作成する時間も、売りに行く自由もない。
この、ほんの少しだけ自由になる時。これだけが、今の所私の憩いの瞬間なのである。
「ダメ元で家、出てみっかー……」
最近はもうそんなことを考えるようになってしまった。
資金もくそもないが、もうこうなったら身一つで出ていくしかない気がする。いい加減何とかせねば、己は一生、この家の奴隷だ。
母と過ごした家を出ていくのは少し辛かったが、あの二人に侵略され切っている今、もう我が家には実母の影など無いも同然だ。
「あー、もう無くなりそう……」
考え事をしているとすぐにストレス発散のおくすりは無くなってしまう。切ない。いくら不在が多いとはいえ、あんまりやり過ぎると勘付かれる可能性があるから控えめ控えめに盗んでいるというのに。
『ジャリッ』
「んぁ?」
なんか今、地面を踏む音が聞こえたような。
ここ裏も裏だから使用人もそんな来ないのに。何の音だろう。
そんなことを考えながら振り返ったら、そこには。
「…………は?」
透き通るような金の色をした、ふわふわくるくるの髪の男が私を凝視していた。
ぱか、と口が開いて、思わずおかしな声が零れ落ちる。
なに。何だ、だれだこのひと。
「あ…………」
目の前にいる男が気まずそうに引き攣った笑みを浮かべる。
対する自分は、口をあんぐりと開けて、固まる他なかった。
────そこで、ぽろっと。手に持っていた煙草が床に落ちる。
それを発見した瞬間。
「あああああもったいない!!!!」
思わず叫んだ。
もったいない。本当に、もったいない!!
盗むのだって楽じゃないんだぞ!!
「…………」
しーん、と静まるその場。
3秒以内に拾えばセーフ!! と普段ならやりそうだが、さすがにこの金髪の眉目秀麗な男性が見ている所でやる勇気はなかった。
「…………し、失礼いたしました。それではわたくしはこれで」
うふふふ〜と口に手を当てながら立ち去ろうとした。
地面に落ちた煙草の火を靴でグリグリ消しながら。クソッ、後でゴミもちゃんと拾いに来なきゃいけないじゃん!
「あ、あの」
「?!」
びくぅっ! と肩が跳ねる。ヤバイ話しかけてきたよこの人。どうしよう。
おそるおそる振り返ると、その男性は懐から何かのケースを出し、ぱかりと蓋を開けて中身を見せてきた。
「……よかったら、吸います?」
その中身に、つい目を輝かせてしまった。
「うっっっま…………あっいえ、お、おいしいですわ〜おほほ」
「今更お嬢様っぽくお話しても、散々罵詈雑言を放っていたのを聞いていたので意味ないと思いますよ」
「は?! 聞いてたんか……ですか?!」
その男性はアーティと名乗った。案の定、知らない名前だ。
うちに何をしに来たのか、どんな身分の人物なのか。彼は特に語らなかったが、着ている服やくれた葉巻が質の良いものなのは一目瞭然だったので、恐らくどこかの貴族だろうと思われる。
それにしても、何だこの状況。
ちらりと横を見ると、アーティも同じく葉巻を楽しんでいる。気まずい思いをしているのは私だけなのか。
ふう、とアーティが煙をくゆらせながら言った。
「あなたはこの家の使用人ですか?」
「……そうです」
「こう聞いたのは私ですけど。嘘はつかないでくれると嬉しいです」
「?!」
思わず目を見開いて彼を見る。
「使用人のものとはまた違った服装をしていらっしゃいますし、何よりその髪と瞳。マーガレット嬢が口にした特徴と一致しています」
「……その分だと、私が誰なのか、分かってるんじゃないんですか?」
「ええ。試しに聞いてみただけです。
だって普通は信じられないでしょう? まさか貴族のご令嬢が、ボロボロのドレスを着て屋敷の裏手で煙草を嗜んでいらっしゃるなんて」
くすくすと笑う声が聞こえる。その通りなので何も言えず、ただ眉を寄せて唸るしか出来なかった。
「……屋敷の人間には告げ口しないでくれると有り難いんですが」
「まぁ、私にそんな権利は無いですし。言ってもあなたがまた酷い扱いを受けるだけなのは分かっているので、言ったりしませんよ」
酷い扱い、という所にぴくりと反応してしまった。
それが分かったのか、アーティは私を見て「『愚図でのろまで可哀想な姉のアビー』でしたっけ」と言う。
「うわ、それマーガレットから聞いたんでしょう」
「ええ、大層哀れんでいらっしゃいましたよ。「学がないせいで学校にも行けない」「何にも出来ない可哀想な人なの。でも責めないであげて」とのことで」
私が学校に行けないのはお前らが「あんなのにお金を使うなんて」「学校に行かせる価値なんかアビーには無いわ」とか言って根回しやら何やらしてるからだし。
マーガレットが学校に行ってるのは「イケメンの婚約者を見つけるため」だとか何とか言っていたが。
そんなことは最早義妹の頭には無いらしい。おめでたいことで。
「……なるほど。外ではそんなことを言っていると。あの外見だけのバカ妹は」
「おや、意見が一致しましたね」
何が楽しいのやら、アーティは微笑んでばかりだ。
私はそんな話聞かされても1ミリたりとも嬉しかないがな。
「彼女の猫被りは学校でも酷くて。私は辟易していたんですが、本人と周りが勧めるままこの屋敷に連れてこられてしまいました。
だからちょっと逃げ出すついでに気晴らしにと、この辺りに来たんですが……、っく、ふふ」
肩を震わせながら笑いを漏らすアーティ。
何に笑っているのか分かりやすすぎて、いっそそのお綺麗な頭をブン殴ってやろうかと思う。
「アビー。よければあなたのことを、私に教えていただけませんか?」
そしてまたお綺麗な笑みを浮かべる隣の男を、私は死んだような目で見上げた。
こういう顔が世間様にはウケるんだろうな。私はもうなんか性格がすれすぎてトキメキもくそもないが。
……まぁ、美味しい葉巻をくれたお礼もあるし。
「……口外しないなら、いいですよ」
そうして、私と身元不明の美しい男性、アーティの交流は始まった。
話す内容からして「妹の学校のクラスメイトか何かなんだろうな」というのは分かったが、深入りはしたくないので、素性に関する詳しい質問などはしなかった。
私の令嬢らしからぬ口調や態度を、彼は新鮮で面白いと笑った。
二人っきりの場なので、不敬だ何だと怒られることもない。
私が彼の素性をあまり知らないことも相まって、この屋敷の裏で過ごす時間の中では、身分なども考えずあくまで一人の人間としてお互い接することが出来ているように思えた。
アーティの考えていることは、よく分からない。
私の何がそんなに興味を持つようなものになったのか。何故あれ以降、うちに来る度に私の所へ足を運ぶようになったのか。
口外しない、と約束した通り、屋敷の中に戻っても私がアーティの件で咎められることは特に無い。いつも通り、前妻の子供だからという理由で虐げられるだけである。
「……アーティ。確かに私はこういったものをストレス発散としていますけど、だからってこんな高そうなものを会う度にくれなくていいんですよ」
美味いけど。大変有り難いけども。
私の言葉に、彼は気にしないでくれと笑って返した。
「まぁまぁ。一緒に喫煙を楽しむ裏仲間だと思って。
その代わり、私がこうして葉巻を嗜むのも内緒にしていてくれると」
「いや、別に告げ口するような相手も居ませんし……」
「それもそうですね」
自分で言った台詞だけどそう返されるとちょっと腹立つな。人は正論を言われると腹を立てるという……。
「それにしても、盗むならあんな安っぽい煙草じゃなくて、こういうのにしたらいいじゃないですか。お父上も基本はこっちを吸っていらっしゃるでしょう?」
「さすがに葉巻を盗むのは色んな意味でヤバそうだから嫌です。やるならもうちょっと、どうでもよさそうな方にしないと」
「案外みみっちいですね」
「あんだとコラ。戦略的と言ってください」
「ははは、戦略的って、あはは」
こんな話し方をしても咎めない貴族男性がこの世に居るなんて。世の中って広いのだな。
むしろ取り繕った態度を取ると気に入らないらしく、「あなたの好きなようにお話してください」と拗ねたように言われた。……初邂逅でアレを聞かれた時点でまぁ、取り繕っても何の意味もないだろうが。
「……そういえば、あなたはこの家を出たいと考えているのでしたっけ」
アーティが呟く。
私の事情は初日に大体話した。それを聞いたアーティは「直談判しに行きましょう」と言ってくれたが、知り合ったばかりの彼を巻き込んだりしたくなかったので丁重にお断りし、同時に家を出ることを考えている話もしたのだ。
「ええ。アーティだって、こんな状況だったら逃げ出したくなるでしょ」
「まぁ……。……でも、アビー自身の財産はあまり無いんでしょう? そこから一人で生活出来るようになっていくのは、中々大変な道のりだと思いますが」
「それは分かってます。でも、そんなこと言ってたらいつまで経ってもこのままです。
それはさすがに嫌だし、こんな所で煙草吸いながらストレスを人知れず発散しているくらいなら、いっそ地獄から這い出ます」
そもそも、アーティが居なければとっくの昔に実行していただろう。
彼という話し相手(もとい美味しい葉巻をくれる人)が居るからこそ、もうちょっとここに居ようかなと思えていたのだ。
でも、もうそろそろ何とかしなければ。
「あなたという、とても楽に話ができる相手と会えなくなるのは寂しいですが……。動くなら早い方がいいですしね」
アーティが少しの間黙った。
なんて言おうか考えているのかもしれない。私も特に何も言わず、二人で黙って葉巻を吸う時間が流れていく。
ああ、もうこのおいしいのともお別れかぁ……。そう思うとちょっと名残惜しいな……。
「……アビー」
「はい?」
すると名を突然呼ばれたので返事をする。
「家を出れるのなら、どこに行っても構いませんか?」
「は?」
よく分からなかったので素直に言葉に出した。
だがアーティの顔は真剣だ。
「この家以外なら、どこに行っても……、例えば違う国とか。そういった所に行くことになっても、あなたは大丈夫ですか」
意図がわからない。首を傾げながら彼を見つめる私に、アーティの真剣な眼差しが刺さった。
何だ、単なる例え話か?
「……そう、ですね? まぁここから出て一人で生活しなきゃならないわけですし……、まともに生きていけるのなら、どこでも」
その返答に、アーティは少し黙った後、「分かりました」と答えた。
いや、何が分かったんだ。私はちっとも分からないが?
だが彼はもうこの話終了と言わんばかりに別の会話をし出したので、特に意味は無かったのかな、と思い、私も深くは突っ込まなかった。
……まさか、この会話が、あんな事態に繋がるとは、思いもよらなかったが。
「何でなのよッ!!!!」
テーブルに置いてあったものを思いっきりぶつけられる。
花瓶とかじゃなくて助かった。いや、痛いことには変わりないけど。
今日のマーガレットは大層ご立腹だ。
昨日は学園の卒業式だったらしく、一年のマーガレットもそれに出席していた。
しかし、屋敷に帰ってきた途端、私の所へ走ってきて勢い良く蹴りをかましてくれたのだ。何の前触れもないそれにさすがにびっくりしたのも束の間、色んなものを投げつけられるわ殴られるわ蹴られるわで。
「お仕置き部屋」とか呼ばれてるあの地下室に行く余裕もないくらい、マーガレットは荒れ狂っている。
一体何があったというのか。
「アーサー様は私のものなのに!! アーサー様がお国に帰る時、一緒についていくのは私だったはずなのに!!
昨日はアーサー様が卒業なされる日だったのに、どうして何も言ってきてくれなかったの、どうして私のことを無視したの?!?!」
……なるほど。
よく分からんが、つまりアーサーというお気に入りの男性が卒業を機に国に帰る際、マーガレットに何も言わず去っていったということらしい。
自他共に認める美しさを持つマーガレットは当然告白か求婚かをされると思っていたのに、その彼からのアクションは特に何も無かったと。
知るか、としか思わないが、絶賛八つ当たりをされ中の私は身体の痛みに蹲る他ない。
「マーガレット! やるなら地下室で……」
「うるさいうるさい!! こいつは私の奴隷なんだから、どこで何をしようが私の勝手よ!!」
最早取り繕うこともしない義妹に笑いが出た。
ああ、アーティ。
悪いけれど、もう私は我慢の限界だ。
今まで、母と暮らした思い出のあるこの家を出るのを躊躇い。何も気にせず、あなたとゆっくり話をする時間を少しでも惜しいと思ってしまったが故に、ここまで居座ってしまったけれど。
もう、いい加減、この状況にはうんざりなんだよ。
「何笑ってるの?! 私がこんなに辛い思いをしているのに、アンタは……!!」
義妹よ、かわいい顔が台無しだぞ。
それじゃ「この国一番」だと謳ってた美貌が台無しだ。
マーガレットが遂に花瓶を手にし、私の方へと投げてこようとする。
さて、どうするか。身体はとても痛いけれど、さすがに避けなきゃ、目とかに当たったら大変なことになりそうだ。
……でも、なんかもう面倒だな、なんて。
眼前で振り下ろされるマーガレットの右腕をぼんやり眺めていた、その時だった。
「やめなさい」
澄んだ声が、聞こえる。
その声は、あの屋敷の裏手で、いつも私と楽しそうに話をしていた────。
「アーサー様?!」
マーガレットが驚愕の声を上げる。
……アーサー?
「……アーティ」
妹の腕を掴んでいるその人物を見て目を見開いた。
その綺麗な金の髪は。蒼い瞳は。
紛れもなく、アーティその人だ。
(アーサー、アーサー……、……アーティ……。…………うわ、そういうことか)
思わず天を見上げそうになる。
アーサーは確か、近くにあるでかい王国に居る王子様の名前。
そしてアーティはアーサーの愛称。……なるほど。これは、やられた。
(うちの国の学校に留学しに来てたってことかな……)
学校に行っていない私にはその辺りの実情は分からないが。これまでの彼らの話から推測すると、恐らくそういうことだろう。
ってか、え? つまり、私は今までその王子様とあんな会話をし、葉巻なんかを何度も貰ってたってことか?!
うわあああ、ヤバイ!! 身分とかどうでもいいと思ってたから深く突っ込もうとはしなかったけど、いざ分かるとやばいことしてた!! どうしよう!!
「あ、アーサー様っ!! よかった、やっぱり私の所へ来てくれたんですね?!」
この状況でその台詞が出るのは逆にすごいと思うよお姉ちゃん。どんだけ頭の中お花畑なんだ。
案の定、厳しい顔をしながらマーガレットを睨むアーティ。……もといアーサー様。
「私、アーサー様を愛しています!! アーサー様も私の気持ちは分かってくださっていますよね?! だからこうして、わざわざうちまで……」
「確かに、私はあなたからの好意に気が付いていました」
声が重くて驚いた。
あれが本来のアーサー様なのか。私と話す時は、全然違う声色だったのに。
アーサー様の言葉にマーガレットが嬉しそうに破顔する。
が。
「ですが私は、義理とはいえ姉という間柄の人物をこのように痛めつけたりする女性を、好いたりはしません」
「…………え?」
固まるマーガレット。
それを無視して彼女の手を離した後、アーサー様はゆっくり私の方まで足を進めてきた。
「アビー。遅くなってごめんなさい。
でも、もう大丈夫です。……迎えに来ました」
「は…………、い?」
「僕と一緒に、僕の国へ帰りましょう」
差し伸べられた手を何気なく掴む。
立ち上がらせてくれるかと思ったのに、次の瞬間、優しく抱き上げられた。
「なっ……?!?!」
(いきなり何を?!?!)
「ああ、すみません。身体が痛いですか?」
「じゃ、じゃなくて! あの、アーサー様?! 何をなさって」
「アーティと呼んでください。私はそう呼ぶあなたの声が大好きなんです」
「…………?!」
唖然。
硬直。
あまりのことに何も言えない私を余所に、アーティはそのまま部屋の中を横断し出入り口へと歩いていく。
そこで、同じく呆気に取られていたマーガレットが身体を震わせながら呟いた。
「…………どういう、こと……?」
「はい?」
アーティが振り向く。
「どういうことよ?! 何でお姉様がアーサー様にそんなに優しくされてるの?! しかも、一緒に国に帰るですって?!?! おかしいじゃない!!!!」
「おかしいと言われましても、もうあなたのお父上にも話は通していますよ」
「意味分かんない!!!! なんで、何でよ?!?! 離れなさいよ売女!!!! そこは私の場所ッ!!!! 返してーーッ!!!!」
「おっと」
ついに発狂したマーガレットが掴みかかろうとするが、ひらりと優雅に躱していた。
彼女に同情することはないが、意見としては大体同じである。本当に意味がわからない、この状況。
「詳しいことはご当主にお聞きください。それでは、私達はここで」
アーティが今度こそ部屋から出ていこうとする。
マーガレットや義母のミランダは追いかけてきたが、そこに私の父、ブルーノが立ち塞がった。
「お父様?! 何をするの!! 退いてよ!!アーサー様が行っちゃう!!」
「マーガレット、もう醜い真似はやめるんだ。お前はアーサー王子に釣り合う女ではない」
「あなた?! かわいいマーガレットがこんなに頼んでいるのに、どういうことですか!! 説明してください!!」
「ああ、説明するとも。
……お前達の罪と、私の罪も一緒にな……」
久々に聞いた父の声。こんな声だっただろうかと、ふと考えてしまう。
「……お父様……」
一言だけ呟くと、父が振り返って、私を見つめる。
その瞳は、……どこか、悲しげだった。
「説明してくださいます?」
「あたたたスミマセン説明します説明します」
とりあえずアーティの頭を両手でグリグリしといた。
まぁ推測通り、アーティ、またはアーサー王子は近隣国から留学にやってきていた方で。
今年卒業して、国に帰る予定だったらしい。
また彼は兄弟から「お嫁さんを見つけてこい!」と笑って送り出されたものの、元々モテまくる性質だったので気に入る令嬢など国を跨いでも見つからなかったようで。
諦めて自国で適当な女を探すかと考えていた時、私に出会ったとのこと。
最初は物珍しさで近付いたが、だんだん私と過ごす時間が心地よくなった。私は自分の身分も気にせず、また追求しようとはせずに、ただの「アーティ」として好きなように接してくれる。
そんな関係を、国に帰った後も続けたいと思った。
幸いというか何というか。私、アビーは実家でひっどい扱いを受けていたので、自分が国に帰るタイミングで連れ去ってしまおうと考えたらしい。
その為、当主である父に内密に話を通した所、「あれを自由な場所へ連れて行ってくれ」と逆に頼まれた。……話は通ってると言っていたのは、このことだったのか。
まぁ、話はわかった。
私に好感を持って、この不遇な状況から助け出そうとしてくれたのも、有り難いっちゃ有り難い。
でも。
「私の知らん間になんっっで婚約とかしてるんですか?」
「だってそれが一番やりやすい理由だったし勿論私もアビーのことを愛しているから婚約者として国に連れ帰りたくてっいたたたーーっ?!?!」
またしてもグリグリ再来。
暫くそうした後にぱっ、と手を離すと、アーティはうおおと頭に手を当てていた。この人もつくづく王子には似合わない性格をしている。
「……その、婚約者という立場であなたを縛るような真似をしたのは、申し訳ないです。私の勝手な思いつきというか希望ですから、国に帰った後、正式に断ってくれても構いません。
その後また追いかけますけど……」
「追いかけるのかよ……」
はぁ、とため息をつく。
アーティを見れば、まるで捨てられた子犬のように目を潤ませながら私を見つめていた。
……そんなに長い付き合いじゃないけど、私にはわかる。これは、確実に演技だ。
「……ありがとうございます」
「!」
「私のこと、助けようとしてくれたんですよね。まぁ、知らない間に勝手に婚約者になってたのは驚きましたが……、アーティが私を想ってやってくれたってことは、わかりましたから」
こんな都合よく家から出れるとは思わなかったし、いいのかなというちょっとした罪悪感もあるが。
この人の好意で助けてもらったのは事実だ。それに、やっててしまったものは仕方ない。
「……その、本当に結婚するかとかはまだ分かりませんけど……、向こうの国で何かお仕事を貰えるなら、あなたについていきます」
「アビー……!」
「今まで色んなことをしていただいた上に、あそこから連れ出してもらったのに、何も恩を返せないのは嫌ですから」
アーティの元でぬくぬくと何もせず暮らすのは、さすがにちょっと嫌だ。せめて何か、彼に返せるものがほしい。
そう言った私に、アーティは嬉しそうな顔をしてぎゅっと抱きついてきた。
「嬉しい! 嬉しいですアビー、ありがとう!
これからも一緒に居ていいってことですよね?!」
「え、ええ、まぁ……。あの、でも私、アーティの国に行ったらちゃんと働きたいですからね?! 何もかもあなたのご厚意に甘えるのは嫌ですから!」
「意外と謙虚ですよねぇあなた」
「意外とって何だ!」
「あはは!」
アーティが笑う。
……それを見ると、私もなんだか嬉しくなって、笑ってしまった。
この時点でもう彼にほぼ落ちているんじゃないか?
なんていうのは、今は内緒にしておいてくれ。
もう少し、心の準備とか整理が必要だから。