9話 スラムの子どもたち
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俺の目の先では、胸倉を掴まれていた少年が他二人に補助され立ち上がるところだった。
いま起き上がった少年が一番年長で、俺より少し体格は大きいが、おそらく俺と同じくらいの歳。もう一人の少年はもっと小さく、おそらく三つは年下だろう。そして最後の一人は、俺や年長の少年と同じくらいに見える少女だ。亜麻色の髪を肩口まで伸ばし、頭の側面で二つにまとめている。
三人は小声で無事を確認し合い、今度は俺を警戒するように鋭い視線を向けてきた。親切にも助けてやったというのに、恩知らずな子どもたちである。
相変わらず嫌われてんなあ。ま、個人的に気に食わなかったから手助けしてやっただけだし、どうでもいいけどな。
興味をなくした俺は、この場を離れようと無言で彼らへ背を向けた。しかし、その時。
「――どういうつもりだよ? テセウス」
背後から掛けられた声に、俺はぴくりと肩を動かす。呼び止められたことを意外に思いつつ、再び彼らへと向き直って、へらっと笑って見せた。
「へえ、俺の名前覚えてんだな。意外だったぜ」
茶化すような言葉に、俺を呼び止めた少年はむっとする。
「いいから答えろよ! 何の目的があって助けたんだ!」
助かったのだからそれでいいだろうに、明らかに俺への反抗心が根にある反応である。こういう面倒なことになるから、あまり会話したくなかったのだ。
別に俺としては彼らに何の隔意もない。彼らはスラムの子どもの一部が手を取り合い、互助的に生活しているグループの者というだけで、俺にとっての敵ではないのだ。
ただ、彼らからすればそう思えないことは理解していた。
グエルはスラムを完全に掌握したがっていて、ゆえに自分の支配下にない彼らを目障りに思っている。つまり、グエルの傘下である俺も同じ考えだと思われているのだ。
だから、彼の反応は俺からすれば予想できることであり、そして同時に面倒なことであった。
俺はできるだけどうでも良さそうに、ため息を吐いて彼を見返した。
「別に、目的なんてねえよ。ただの気まぐれだ。目の前で見苦しく騒いでるやつらがいたら黙らせたくなる、ただそれだけだ」
「なっ、なんだと!? お前!」
激高した少年が鼻息荒く大声を上げる。感情任せに掴みかかってこないだけの分別はあるようだが、なおも大きな声で言い募ってくる。同じ年のくせに生意気だとか、子どものくせにグエルにつく裏切り者だとか、そんなくだらないことだ。
俺が鼻で笑って見せると、少年はさらに感情を爆発させる。俺はいよいよ殴りかかって来るかと警戒し、対抗できる準備を整える。
しかし、その瞬間は訪れなかった。少年の隣で冷静に場を見ていた少女が、おもむろに声を上げたのだ。
「ちょっと落ち着きなさい、ダン。こんなところで私たちが争ってもしょうがないでしょ」
「れ、レイン、でもこいつが――」
「私たちが助けられたのは事実なんだから、今回のことは借りひとつよ。納得できなくても飲み込みなさい。ここで彼に仇を返せば、それこそ私たちの器が知れる」
ダンを止める少女――レインは、隣で不安そうにする年下の少年の手を握りながら、ダンの前に立って俺に向かい合う。
「ダンが悪かったわ。こっちも厄介なやつらに絡まれて気が立ってたの。多めに見て頂戴」
レインも内心俺を警戒しているだろうに、表情に出ないようコントロールしながら、堂々とした態度で俺に話しかける。
「それと、さっきは助かったわ。無理やりあいつらをぶっ飛ばしてやっても良かったんだけど、それだと後で角が立つでしょ? あなたが来てくれてよかった」
「ぶっ飛ばす? お前らにそんなことできんのかよ」
「いいスキルを持ってるのは、あなただけじゃないってことよ」
この女、よっぽど自信があるのか肝が据わってるのか。
俺の記憶にある限り、スラムの子どもたちに明確なリーダーというのは存在しない。もともと誰かが音頭を取ってできたグループではなく、一部が自然と集まってできたものだからだろう。
しかしそれでも、グループとしてある程度まとまった行動をとろうとする限り、実質的なまとめ役というのは必要になる。そしてこのレインという少女が、現在はその立場にいたはずだ。であるならば、彼女が立場に足る能力を持っていることは道理であるし、それが戦闘能力に及んでいても不思議ではなかった。
俺はレインの向けてくる感情の掴めない目に対し、鼻を鳴らして視線を切った。
「それなら今度からは、もうちょっとうまい立ち回りを考えとくんだな」
話は終わったと、再び彼らに背を向ける。そして今度こそ立ち去るべく、路地の外に向けて足を踏み出した。
まったく、無駄に時間を食っちまったぜ。腹も減ったし、さっさと飯買って帰ろう。
「――――テセウス、あなた。そんな不器用な生き方してて苦しくない?」
俺の背にレインの疑問がぶつけられる。俺を煽っているわけでもなく、純粋に気になったから聞いたというような、そんな言葉だった。
しかし、俺は今度こそ歩みを止めることはない。後ろを振り返ることなく、足を動かしながら言葉を返す。
「このスラムで俺ほど器用に立ち回ってるやつもいないぜ? その言葉、そっくりそのまま返してやる」
「ふうん?」
わずかに笑みを含んだ返しに、俺は苛立ちを覚える。訳知り顔でよく分からないことを言っているが、力ない子どもを守るレインの方が、俺よりよほど不器用な生き方だろうに。
俺は不毛な会話を続ける気にもならず、それ以上の返答を止める。レインも言葉を続ける気はないようで、俺を意識から外したことが気配で分かった。
そうして、俺はレインの最後の言葉にもやもやした思いを抱えつつ、無言で歩を進める。
レインとまともに会話したのは今日が初めてだが、なんとなく彼女に対する苦手意識が頭に刻まれた。昨日に続いて今日もイベントが目白押しだったので、早く家に帰って気を休めたかった。
俺は思わずため息を吐いて、家に向かう歩みを無意識に早めるのであった。