6話 スラムの元締め
6.
まだ天頂に上っていない太陽が照らす、どこか退廃的な雰囲気漂うスラム街。崩れかけた家屋が密集する中、俺は細い路地や積み上がる瓦礫、そして倒壊した壁と、足場を選ばず縦横無尽に街を駆けていた。
いつもはもっと歩きやすい道を行くか、あるいは慎重に道とも言えない道を進むことになる俺が、グエルの拠点に向かって最短距離を突き進んでいる。普通なら転んだり立ち往生してしまうような道も、スキル【身体操作術】を得た今の俺にはハイキングコース同然だった。
このスキル、マジで使えるぞ。不思議と体の効率的な動かし方が分かる。それに、頭の中の想像通りに誤差なく体が動きやがる。
迷宮に現れる身軽な魔物のように、すいすいと体が前へ進んでいく。この調子なら、グエルのところへも大した遅れにならず到着できるだろう。
――夢中になって『今日の目標』を続けていた俺は、あの後結局誘惑に負けて短剣の素振り百回を終わらせ、ステータスの変化を確認してから家を発っていた。他二つの目標を達成した時のような成長を、すぐにでもまた体験したかったのだ。
そして、その結果はある程度想像していた通り、スキル【短剣術】の熟練度上昇という大きな恩恵であった。
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名前:テセウス 種族:人間 性別:男 年齢:15
■基礎能力
【膂力】 ランク:E- 能力値:0
【体力】 ランク:E- 能力値:46
【俊敏】 ランク:E- 能力値:42
【器用】 ランク:E 能力値:37
【魔力】 ランク:G 能力値:0
■スキル
・【身体操作術】 レア度:R 熟練度:0
・【短剣術】 レア度:N
熟練度:『32 ⇒ 73』UP!
・【夜目】 レア度:N
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元が熟練度:32だったことを考えると、目標達成による上昇が四十で、それとは別に百回の素振りによってたまたま一上昇したといったところか。
レア度が上昇しなかったのは残念だが、今日まで上げてきた熟練度:32を超えるほど上昇したことを考えれば、それだけで十分な報酬だ。この調子なら【短剣術】がレア度:Rに成長する日も遠くはないだろう。
俺はにやつく口元を隠すこともせず、これまでにないほど愉快な気分で、自由自在に動く手足を躍動させ移動していく。スラムには表の見える場所に人がいることは少なく、裏路地などで屯している者が多いじめっとした場所だが、今日はなぜかすべてが俺を祝福しているような、爽快な気分にさせてくれる。
俺は適当に駆け上がった家屋の屋根から別の屋根に飛び移る。ちょうど下でガラクタ集めでもしていたらし中年の男が、地面にかかった俺の影に驚いて顔を上げていた。
そして気づけば、グエルの拠点もそろそろという場所まで近づいてきた。今までよりはるかに早い時間で来れたものである。
俺はこれまでにないほど前向きな気持ちで、グエルのところに向かってさらに加速する。前回までは、金を渡しに行ってもグエル本人や取り巻きどもから見下され、馬鹿にされるだけの憂鬱な時間だったが、今日だけはむしろ自分から行きたいくらいの気持ちである。
『グエルの拠点で置時計を破壊する』だっけか。どんなことになるか多少の不安はあるけど、他の目標は全部抜群の報酬だったしな。これもそう悪い結果にはならねえだろ。
『成長の書』に対する大きな信頼をもとに、俺はある種楽観的な気持ちでその目標をこなすつもりだった。
たまたまやってしまったという演技をしておけば、最悪の場合でも殴られたうえで有り金全部すられて、傘下から追い出されるくらいだろう。グエルは自分に逆らう者に対しては容赦ないが、従順な者の失敗なら命までは取らない。仮に傘下を追い出されたとして、きついことはきついが、『成長の書』の力があるからお先真っ暗なんてこともない。
まあ、これまで俺の身を守ってきた保身技術があれば、そんなに心配しなくていいだろう。
考えを巡らせながら、俺は見えてきた目的地に向かって駆ける。これまでに比べて、だいぶリスクを軽視した行動を取ろうとしてる自覚はあったが、それでも俺はそれをやめる気にはなれなかった。あのクソ野郎の持ち物を壊してやれるという、そんな今まで一切考えられなかった機会を得られたことは、けして無関係ではないだろう。
なんだか無性にワクワクしてきた俺は、走っていた家屋の屋根から飛び降りて軽やかに路地へ着地し、勢いを殺して速度を緩める。そうして、目の前に鎮座するグエルの拠点に向かって悠々と歩を進めた。
俺の視線の先には、スラムにはめったにない二階建ての大きな屋敷がある。ここがスラムになる前は、大きな商人かなにかの住居だったのだろう。さすがに外壁の痛みは少し目立つが、それでもスラムの中にあっては最上級の拠点と言えた。
屋敷の目の前まで来ると、その入り口にあたる門の脇に、頭を丸めた巨体の若い男が立っているのが見える。門柱にもたれかかってだるそうにしているその男に、俺は軽く頭を下げながら言った。
「どうも、一週間ぶりっす。またグエルさんにお金持ってきたんで」
「おう、テセウスの坊主か。……通れや」
腰の低い俺を馬鹿にするように見たのち、男は興味を無くしてぞんざいに手で中に入るよう促す。内心で舌打ちしながら、俺はまた頭を下げて門をくぐった。
相変わらず気分わりいやつだぜ。まあ、別にこいつに限ったことじゃねえけどな。このスラムの大人なんて全員クズだ。
俺は胸のうちでそう吐き捨て、門から続く玄関までの道を歩く。そして立派な木製の扉についたドアノッカーを鳴らして、出迎えが来るのを待った。
やがて扉の奥から物音がして、重厚な扉が開く。奥から出てきたのは、屋敷の中で小間使いのように扱われている若い男だった。男は頭を下げる俺を見て、こちらの言葉も待たず無言でついて来いと手振りで伝える。そして背を向けて屋敷の中に向かって歩き出した。
どいつもこいつもこんな対応かとため息を吐いて、俺は男の背を追う。
もう、何度も繰り返してきた習慣だ。物心ついた頃からスラムで暮らしていた俺は、スリや泥棒、残飯漁りをして命をつなぐ惨めな生活を続けていた。しかし、当然そんな生活はどこかで破綻する。八百屋で野菜を盗む瞬間を見つかってしまい、それ以降周辺で警戒も厳しくなって同じことができなくなり、俺の暮らしは困窮した。
そして弱った俺を見て、姑息な連中はほくそ笑む。はるか年下の俺をいたぶり、ほんのわずかしか集められなかった食料だって盗んでいく。スラムでは隙を見せたものから死んでいく。それが変えられない摂理であった。
そして、そんな底辺のさらにどん底を這いずっている時、俺は見たのだ。たくさんの手下を連れ、それなりに立派な格好をしてスラムを闊歩するグエルの姿を。やつは分かりやすい力を見せびらかし、脅し、底辺の中では上澄みとして君臨していた。
そうして、なんの力も持たないただの幼い子どもだった俺は、やつを利用すると決めた。なんでもするからと頭を下げ、やつの一派の小間使いとして動く代わりに、スラム街での庇護を与えてくれと。
やつらは大したことはしてくれない。ただグエルの名を出して、実際やつの言うことを聞いて動く姿を周囲に見せるだけで、力のないハイエナのようなやつらから狙われることはなくなった。その代わり、子どもだからこそできるような姑息な悪事に協力させられたり、雑用を押し付けられたりと、俺は自分の価値をやつらに証明し続けた。
そして最近の主な雑用が、一人で迷宮に潜って金を稼いで来い、というわけだ。命を懸けて稼いだ金を差し出す代わりに、俺はこのスラムでの安全を買うことができる。いや、差し出すのは金だけじゃなく、プライドもだ。
しかし、グエルという後ろ盾をなくしてこのスラムを生き延びる自信が俺にはまだなかった。だから理不尽にも耐えて今日まで過ごしてきたが、それもそろそろ終わりが見えてきている。
俺は近い将来訪れるかもしれない解放の時を想像しながら、目の前の男が開けた扉の向こう、グエルがいる書斎の中に視線を向ける。男はその身を脇に避けたため、部屋の中まで視線を遮るものは何もない。
正面の書斎机に座って赤茶の長髪を垂らす大男を見て、俺は頭を下げた。
「おお、来たかテセウス。今週もご苦労だったな」
鷹揚に声を掛けてくるグエルに見えないように、俺は凶悪に牙を剥く。
「――はい、少し遅くなって申し訳ないっす。今週も金、持ってきましたよ」