3話 読めない魔導書
3.
透明度の低い硝子越しに、眩い陽の光が家の中を照らしている。
遠くからわずかに聞こえる人が作り出した喧騒と、チュンチュンという小鳥の鳴き声が俺の意識を浮上させる。
「……くぁぁ」
寝台の上で目を開けた俺は、寝ころんだまま両手を上げて伸びをする。固まった筋肉がほぐれていく感触が心地よい。
そのまましばらく微睡んでいた俺だったが、少しして妙に腹が暖かいことに気づいて布団変わりのぼろ布をまくった。そして、顔をしかめる。
「……おい、てめえ」
俺の腹の上では、幼い少女が銀色の髪を散らして頭を乗せていた。横を向いた寝顔は起きているときと同じ無表情で、半開きになった口からでろでろと唾液が垂れている。腹の上によだれの池ができていた。
「俺の腹でよだれ垂らしてんじゃねえよ」
ぴきぴきと青筋を立てた俺は、アリアドネのほっぺたをつまんで引っ張る。ぐにぐにとつねってやると、その人形のような顔をわずかにしかめ、やがてゆっくりと目が開く。
寝ぼけ眼で俺を見たアリアドネは、まだ寝ぼけているのかぱちぱちと瞬きをしたのち、覚束ない仕草で小さな口を開いた。
「おはよう、てせうす」
舌ったらずな挨拶に、この甘ったれがと俺は拳を握る。
言っておくが、俺はガキを甘やかすために拾って来たんじゃねえぞ。
「おら、はやくそこどけ! 俺は今日も用事がいろいろあんだよ!」
寝ぼけた顔をしているアリアドネの頭に、俺は手加減して拳を振り落とした。
「あいたっ」
「ったく。ほら、よだれ拭けよ」
ようやく目をはっきりさせ始めたアリアドネを見て、俺は服の袖でよだれをぬぐってやる。俺に乗っかったアリアドネを寝台の脇まで避けて、立ち上がった。
窓から入る光が眩しくて、わずかに涙がにじむ。
「はあ。今日も頑張るか」
軽く息を吐いて、起床後の支度にとりかかる。新たな同居人を得てから初めての朝は、一人きりだったいつもと同じく、あわただしい時間となるのだった。
その後、庭にある井戸――これがあるからわざわざ見つけにくいこの家を探して拠点にした――から水を汲んで顔を清めた俺は、同じくアリアドネの顔もきれいにしてやって椅子に座らせ、朝食の準備を行っていた。
まあ朝食の準備と言っても、カチカチのパンを短剣で食べやすく切ってから炙るのと、一昨日くらいに作ったくず野菜のスープを温めなおすだけの簡単なものだ。しかし、迷宮に潜って危険な活動を行う冒険者として、朝のエネルギー補給はこんなものでも十分に効果がある。俺のような底辺冒険者は、これくらいのことでも惜しんでいるところっと死んでしまうのだ。
命を懸けているというのに、その稼ぎの少なさに思わずため息が出る。それに稼いだ金をすべて自分のために使えるというわけでもなく、今日もこれから昨日の稼ぎを――
少し憂鬱な気分でできた料理をテーブルに運ぶ。木の匙と一緒にアリアドネに渡してやって、俺は俺で手早く食事を開始した。
炙ったおかげで香ばしく、多少は噛みやすくなったパンを咀嚼しながら、俺は何とはなしに目の前のアリアドネに視線を向ける。
彼女は俺に見られていることなど気づかず、食べかすを散らしながら勢いよく口に飯を詰め込んでいく。使っている調味料が少なく味が薄いスープだって、まるで絶品かのようにいい飲みっぷりである。
昨日の夜もこうだったけど、よっぽど腹減ってたのかね……。
俺は自分の皿に視線を戻し、食事を続ける。お互い会話はないが、俺はどこか居心地のよさを感じながらいつもと違う朝を過ごす。
そうして自分の分を食べ終えた俺は、体の小さいアリアドネがまだ食事を終えていないことを確認し、よしと呟く。いま気づいたというように顔を向けてくるアリアドネに、俺は立ち上がりながら告げた。
「今から出かけてくる。またすぐ戻って来るから、家ん中で待ってろ」
それだけ言うと、昨日の稼ぎから必要分を抜いた金額が入った背嚢を手に取り、いつも迷宮に潜るときの装備を身に着ける。これから行くのは迷宮ではなくスラム街の中だが、下手したら普段行く迷宮の一階層より危険なところだ。俺程度では無駄かもしれないが、警戒を怠ることはできない。
しかし、命を懸けて稼いだ金を自ら引き渡しに行くなんて、本当に気が進まない。
俺がため息を吐いて、家の外に向かおうとした、その時だった――――
(――――アクティベーション完了)
「うおっ!」
唐突に頭の中で響いた声が俺の足を止める。後ろを振り返ると、アリアドネが不思議そうに首を傾げて俺を眺めていた。
やはり、今の声は俺にだけ聞こえている。昨日のあれと同じである。つまりその原因は、アリアドネから受け取った――
「『成長の書』、こいつか」
俺はテーブルの端に適当に投げやっていた分厚い本を手に取ると、矯めつ眇めつその様子を眺める。
よく分からねえが、いまこいつは何かを完了したって言ってたな。見た目は別に昨日から変わっちゃいねえが……。
表紙の観察を終えた俺は、次だと本を開いて中身を覗く。昨日は何も書かれていない白紙だけだった『成長の書』は――
「なんだこりゃ?」
俺は思わず惚けた声を上げる。そして手に持つ本のページを上下逆さから見たり、横から見たりとしては眉をひそめる。
そう、昨日は白紙だった本の中身は、わずか一夜を開けるとびっしり文字で満たされていた。まるで元から書いてあったと言わんばかりに、滲みも掠れもない真っ黒な文字が連なっている。その不可思議な現象は、まさに迷宮で見つかる魔導書そのものだった。
しかし、ようやく魔導書らしさが出てきたのはいいものの――
「何が書いてあんのか何も分からねえ……」
そう。『成長の書』に書かれている文字が、何一つ読めないのだ。俺は孤児で勉強などもできなかったから、もともとあまり字を読むのは得意でないが、そういう話ではなくそもそも未知の文字で書かれているのである。
参ったな。迷宮産の魔導書の読み方なんて聞いたことねえぞ。
俺は頭を掻きながら、いつの間にかすぐそばまで寄ってきていたアリアドネに本の中身を見せる。
「お前、これなんて書いてあるか読めるか?」
「わかんない。ミミズ?」
「いや絶対違うだろ。……まあ、ミミズみたいな字にしか見えねえってのは同感だが」
迷宮で手に入れたアイテムに期待していた俺は、内心肩を落としながらぱらぱらとページを捲っていく。どのページにも同じように読めない文字が並んでいるだけで、やはり書いてあることの意味など――
「ん? このページ……」