2話 迷宮からの帰り道
2.
それから足早に出口へ向かった俺たちは、途中で襲ってきたゴブリン数体を自前の短剣で倒しながら、無事に迷宮を出ることに成功していた。
本当はギルドで魔物の討伐報酬を受け取りたかったが、アリアドネを連れて行って面倒が起こっても困るので、そのままギルドを後にしてスラムの自宅へと向かう。
日が落ちてきた街を歩き、道中の屋台で適当に夕飯を買った俺たちは、そのままどんどん人気が少なくなる方へ――スラムに向かって歩を進めた。
「おい――アリアドネっつったよな。これから柄の悪いとこに入るから、その目立つ頭これで隠しとけ」
俺は背嚢から取り出した大きめの布をアリアドネの小さな頭にかぶせる。輝くような銀髪は周囲の目を引くし、下手に容姿が整っているので、顔をさらしていると人攫いにでも狙われるかもしれない。
アリアドネは俺の言葉におとなしく頷いたかと思うと、俺を指差して口を開く。
「あ、ぅ……」
「あん?」
言葉が出ず、かすかに息を漏らしただけのアリアドネに、俺は首を傾げる。そして、俺の顔に向けられたままの小さな白い指を見て察する。
「ああ、名前な。――俺はテセウス。孤児だから姓はねえ。好きに呼びな」
それだけ言うと、アリアドネから顔を背ける。周囲を多少警戒しながら、最近拠点にしている家に向かって足を動かす。
目をそらす前、ちらりと見えたアリアドネの表情は、無表情ながら少し柔らかく、小さな声で「テセウス」と復唱するのが聞こえた。俺はすこし和んだ気持ちになるも、それに気づいて頭を振った。
なんか調子がでねえな。……でかい拾い物しちまったんだから、そりゃそうか。
俺は横目でアリアドネを見て、トコトコと歩く彼女の腕に抱えられた大きな本に目が止まった。
――そういや最初からこれ持ってたな。……もしかして魔道具の類か?
迷宮で得られる物品と言えば、貴重な魔道具と相場は決まっている。謎の少女が持っていたとはいえ、もしかすれと貴重なものかもしれない。気になった俺は、アリアドネに問いかける。
「あのよお。お前、さっきからずっと持ってるそれ」
「なに?」
「その本だよ。それ、いったいなんなんだ?」
「これは……『成長の書』っていうみたい。はい、あげる」
後生大事に抱えていたわりに、何の抵抗もなく魔導書(仮)が差し出される。
――ていうかなんも覚えてねえって言ってたわりに、これの名前は知ってんのな。
俺は特に警戒もなくそれを受け取り、年季の入った革表紙を軽く撫でた。
少しざらついた表紙に金箔を押した見たことのない文字が書かれていて、いかにも魔導書という風情ではある。ただし、手に持っていて何か特別な力を感じるだとか、そういったことは一切なかった。
「なんか特別な力でもあんのか?」
「しらない」
独り言に対して無責任な言葉を返すアリアドネに、俺は胡乱なまなざしを向ける。実物を確かめればいいかと呟いて、『成長の書』の適当なページを開いた。
「……なんも書いてねえじゃん」
呆れて呟いた俺の目の先には、何の文字も書かれていない白紙が広がっている。他のページも開けて確認してみたが、すべて白紙だ。
魔導書など見たこともないから、使い方の見当がつかない。どうしたらいいか困ってしまい、俺は頭を掻く。
――その瞬間だった。
(――利用者『テセウス』の登録を完了。これより育成モードのアクティベーションを開始します)
「はっ?」
突如、頭の中に声が響いた。思わず手に持つ『成長の書』を取り落としそうになる。
俺は大きく狼狽え、周囲をきょろきょろと見渡す。しかし目に見える範囲に人影は見えず、すぐそばのアリアドネが俺を不思議そうに眺めているだけだ。
俺やアリアドネ以外の人物が近くにいて、喋りかけてきたわけではない。そもそも今の声は耳から音が入ってきたという感じではなく、頭の中に直接言葉を流し込まれたような、なんとも不可思議な現象だった。
やはりこれかと、俺は『成長の書』へ視線を落とす。特別な力など無さそうな、歴史を重ねただけのただの本に見えるが……。
そう思った瞬間、俺の頭に再び声が届く。
(――アクティベートには、あと十時間必要です)
「――またか! それに、アクティベート? よくわからねえけど、十時間後に何か起こるってか?」
言葉の意味は理解できないが、なにやら魔導書が準備を始めたらしきことだけは分かった。十時間後に何が起こるか不安はあるが、迷宮産の魔道具が拾った者の害になることは滅多にないと聞くので、まあ大丈夫だろう。
ひとまず自分を納得させて頷くと、白紙の魔導書をぱたりと閉じて小脇に抱える。
周囲を確認すると、いつの間にかだいぶ自宅に近づいている。崩れかけた石造りの家屋が立ち並ぶ、旧市街地に作られたスラム街を歩きながら、俺はアリアドネに視線を向けた。
『成長の書』の確認のために握った手を放していたからか、俺の服のすそをぎゅっと握りしめ、ひな鳥のように俺の後を付いてきている。風になびく銀色のおかっぱ頭が、汚れた身なりに見合わずきれいだった。
記憶をなくしているらしい、迷宮で拾った少女。そんな彼女には、頼れる者が俺しかいない。
一人の生き死にを背負ってしまったという嫌な重圧に、俺は軽くため息を吐く。そして、まるで俺から離れまいと短い足を忙しなく動かすアリアドネの様子を見て、どこか気が抜けた。
横目で感情のうかがえない無表情を見ながら、俺はおもむろに言った。
「――この辺、さっきも言ったと思うけど、治安悪いからよ」
「うん」
こちらに視線を向けて耳を傾ける少女に、俺は喉から出かかった次の言葉を一瞬せき止める。言ってしまうのが、なんだか気恥ずかしかったのだ。
しかし、恥ずかしいから言うのを止めるというのも、それはそれで恥ずかしい。少し迷ったのち、結局俺は気にせず続けることにした。
「……まあ、危ないからよ。俺から離れんなよ」
ぶっきらぼうにそう告げると、返事を聞かず前に視線を戻す。
そんな俺の様子に、アリアドネが何を思ったのかは分からない。ただ、彼女は裾を掴んでいた手を放すと、小走りで俺の横まで駆けてくる。そして、俺の『成長の書』を持っていない方の手を、小さな手でぎゅっと握ってきた。
「離れない」
驚いて視線を向けると、アリアドネは無表情ながら満足げな様子で、繋いだ手を軽く振りながら歩いている。
俺も視線を前に戻し、すっかり日の落ちた暗い路地を迷いなく進んだ。家へ道順を教えるべく、時折握った小さな手を優しく引いてやる。
そうしてしばらく歩くと、崩れかけた二つの家屋に挟まれた細い路地に辿り着く。アリアドネの手を引いて路地に入り、前後に並んで奥まで進んでいくと、やがて開けた場所に出た。
俺は目の前に建つ他よりは多少こぎれいな石造りの家を指して、アリアドネに言った。
「ここが俺の家だ。お前も、まあ、少なくともしばらくはここで暮らすことになる」
目を少し大きく開いて家と周辺を観察するアリアドネに声をかけ、家の中に引っ張っていく。
――ああ、なんだか今日は一日が長かったな。しかし、今日からこの家に俺以外のやつが住むことになるなんてな……。
俺は家の中をぱたぱたと歩き回るアリアドネを見て、大きく息を吐いた。
「ま、なるようになるだろ」
無責任に呟いた俺は背嚢を適当に放り出すと、朽ちかけた木の寝台に身を投げ出す。
これからすぐ、アリアドネの足を看てやったり、飯を用意したりしないといけない。俺も今日使った装備の手入れだなんだと、やることはまだまだある。
しかし、ほんの少し、わずかに気を休める時間を取ったって、誰も文句は言いやしないだろう。
俺は寝台の上で目を閉じ、疲れた大きく体伸ばして小さく呻きを上げるのだった。