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歴史物

信玄を継ぐ者

作者: 東郷しのぶ

 永禄4(1561)年。

 武田信玄と上杉政虎(まさとら)(謙信)、戦国きっての名将同士が信州の川中島で激突した。


 大混戦のさなか、武田軍の武将である穴山信君(のぶただ)は、思いも掛けぬ光景を目にして驚愕する。

 白地の布で頭部を包んだ敵の武者(むしゃ)が、信玄が居る本陣へ単騎で突入してきたのだ。


「お屋形(やかた)様が危ない!」

 信玄は、大切な主君。


(本陣の警護は、わしが役目!)


 信君は未だ21歳。信玄とは、親子ほどにも年齢が離れている。けれど信玄より信頼されて、本陣の守りを任せられているのだ。

 慌てて信玄のもとへ駆けつけ、信君は息を呑んだ。


 長刀を抜き放ち、馬上より信玄へと斬りつける敵。熾烈な攻撃を、床几から立ち上がることもせずに軍配(ぐんばい)で受け止める信玄。


 信君は無我夢中で槍を振るった。穂先(ほさき)によって尻を突かれた馬は狂奔(きょうほん)し、敵武者を乗せたまま逃走していった。


「信君、追うな」

 信玄の落ち着き払った声。


「本陣への侵入を敵に許してしまい、申し訳ありませんでした」

「気にするな。良くやった」

「ハ!」


 若い信君の心は、喜びの感情で満ちた。



 川中島の戦いは、武田と上杉、両軍ともにおびただしい死傷者を出して終結した。結果は〝引き分け〟といったところだが、戦場となった北信濃の地は武田の領土となった。


(事実上、武田の勝利だ)

 甲斐国への帰還後、信君は考えを巡らした。


 謎の騎馬武者の正体は、上杉政虎その人であったとの噂が飛び交っている。


(政虎は、大胆不敵な行動を殊のほか好むと聞く。あり得ぬことでは無い。しかしながら、大名としては軽率すぎる振る舞いだ)

 信君は敵将を軽蔑した。


(それに引き替え、お屋形様のご立派なことよ)

 床几に腰掛けたまま、敵よりの攻めを悠然と迎え撃った信玄の勇姿を、信君は惚れ惚れと想起する。


 今回の合戦で武田の諸将は皆、見事な働きを見せた。ただ1人を除いては――


義信(よしのぶ)め)


 武田義信は、信玄の嫡男。勇猛な若者ではあるが、その性質が裏目に出た。血気に(はや)るまま敵へ遮二無二に襲いかかり、全軍の統制が乱れる事態を招いてしまったのである。信玄の次弟で武田軍の副将格である信繁(のぶしげ)までもが、戦死した。


(あんな男であっても、武田の(あと)取り。わしが支えていってやらねばなるまい)


 義信と信君は同世代。


(やむを得まい。わしは、お屋形様に目を掛けていただいておるのだ。それに、わしは御一門(ごいちもん)衆の筆頭ともなるであろう身)


 信君の母は、信玄の姉。信君の妻は、信玄の娘だ。信君にとって、武田家は主家であるとともに〝自らが属する家〟でもあった。



 永禄8(1565)年。


 武田義信は父である信玄への謀反を企てたとして、甲府の東光寺に幽閉(ゆうへい)された。信君は驚かなかった。

 弱体化した同盟相手である今川への対処をめぐる、信玄と義信、親子間の不和は家臣団の間でも有名だったからである。


 義信が蟄居(ちっきょ)し、そのまま1年が経過した。


(お屋形様は義信の今後の扱いについて、迷っておられるようだな)


 如何(いか)に刃向かってきたとはいえ、相手は我が子。命を奪ってしまうのは、忍びないに違いない。義信が考えを改め、駿河侵攻に賛成してくれるのを待っているようにも思える。


(義信が復帰してきたら……)


 義信の顔なぞ、今さら見たくはない。


(待てよ? もし義信が死んだら、武田の跡目は誰が継ぐことになるのだ?)


 信玄の正室である三条夫人から生まれた男子は、3人――義信、信親(のぶちか)信之(のぶゆき)である。信親は盲目であり、信之は逝去(せいきょ)している。側室の子として勝頼が居るが、既に母方の実家である諏訪(すわ)家の名跡(みょうせき)を継いでいる。

 勝頼の祖父諏訪(すわ)頼重(よりしげ)は信玄との(いくさ)に敗れ、切腹させられた。信玄は強引に、頼重の娘を妻にした。そのような経緯もあって、勝頼は武田家中であまり人気が無い。

 武田家の跡取り、信玄の後継者に相応しいのは――


(わしの母は、お屋形様の姉。わしの妻は、お屋形様の娘。わしの子は、お屋形様の孫。穴山家は武田家と代々縁組みを重ね、もはや同族と称しても構わない間柄だ)


 何より、信玄は自分――穴山信君を高く評価してくれている。いや、愛してくれている。


「兄者。自室に籠もりっきりで、何を悩んでいる?」

 弟の信嘉(のぶよし)が話しかけてきた。


 信嘉は単純ながら義侠心に富む性格をしており、友人も多い。

 ――わが弟。信玄の後継者たり得る男の1人。


「うむ。義信様を哀れに思ってな。お屋形様も、心の底では義信様を助けたいに違いない」

「…………」


 その後、穴山信嘉が義信を東光寺から脱出させようとする事件が起こる。騒動は収まらず、ついに信玄は義信に切腹を命じざるを得なくなった。信嘉は〝穴山家の恥〟として、信君が自ら斬った。


(2人、消えた)



 義信亡き後、信玄は己が跡継ぎをなかなか定めようとはしなかった。


 元亀3(1572)年。

 信玄は、西上の軍を起こす。


 上洛を目指す武田軍の前に、三河・遠江の領主である徳川家康が立ち塞がった。両軍は三方ヶ原でぶつかった。武田側が大勝したこの戦いで、信君は当初、信玄本陣の後備えについていたが、合戦終盤には家康を追撃し武功を上げた。


「家康の敗走ぶりは、見苦しい限りでしたな。口ほどにもない奴です」

 そう語る信君を、信玄は(さと)す。

「いや、家康は(あなど)れぬ男ぞ。()も若き頃、上田原の(いくさ)において村上義清に敗れたことがある。あの負けに大いに学んだからこそ、今の余がある。家康は若き日の余に似ている……この先も、家康には油断するな」


(あんな無様(ぶざま)な男が、お屋形様に似ているだと……違う。若き日のお屋形様に似ているのは)


 ――それは自分だ。


 三方ヶ原の合戦の翌年、信玄は上洛の野望を叶えることも無く、征旅(せいりょ)の中途で病没した。信君は慟哭(どうこく)しつつも、信玄が主要な家臣を招集し遺言を伝える際には、胸中に期待の念が湧き上がるのを抑えることが出来なかった。


 駿河平定の折に、信君は要衝の江尻(えじり)城を任された。武田家中で、信玄にこれほど重用されている者は幾人も居ない。御一門衆において、信君の存在は他より抜きんでている。


(お屋形様が告げる後継者の名は……)


『武田家の家督は、勝頼の子である信勝(のぶかつ)へ譲る。信勝が16歳になるまでは勝頼が陣代(じんだい)を務めるように。信豊(のぶとよ)(信繁の子)と信君の両人は、特に頼りにしている。良く、勝頼を支えてやって欲しい』


 信玄の遺言を耳にし、信君は目の前が真っ暗になった。


(実質は、勝頼を後継者にするということではないか! 信勝とて、まだ7歳。賢も愚も分からぬ、(わらべ)に過ぎぬ。加えて、その母は織田家の娘。信勝には、敵方の織田の血が流れているのだぞ)


 信玄は、信君に勝頼の補佐を命じている。だが――


(わしに、勝頼の下につけと? それに、お屋形様は若輩(じゃくはい)の信豊とわしを、同格と考えておられるのか?)


 信君は不満であった。


(お屋形様は――信玄公は(あやま)った)


 英雄信玄の後継者に相応しいのは、誰よりも穴山信君――自分であろうに。


(信玄公の心中にあったのは……)


 勝頼――我が子への執着

 信勝――将来における、織田との和平の可能性を潰さぬため

 信豊――信繁殿を川中島で討ち死にさせた罪滅ぼしに


(主君の間違いを正すのも、家臣の務め)

 ましてや自分は、ただの(・・・)家臣では無い(・・・・・・)


(邪魔だな。あの3人)


 邪魔者は、消せば良い。義信や信嘉のように。



 天正3(1575)年。


 武田勝頼は三河の長篠において、織田・徳川軍へ決戦を挑んだ。しかし、敵側が用意した大量の鉄砲や馬防柵(ばぼうさく)により、武田軍は進撃を阻まれた。


 戦いの最中に信君は自らの軍勢を勝手に引き上げさせ、武田敗北の一因を作った。


(わしが守るのは、信玄公の本陣のみだ。勝頼風情(ふぜい)がする戦など、知ったことか)


 長篠の合戦で、武田の名のある諸将の多くが討ち死にした。けれど、勝頼と信豊は生還する。

 その報を聞き、信君は舌打ちした。


 勝頼との仲が険悪となった信君は出家し、梅雪(ばいせつ)と号した。とは言え、隠居するつもりなどは毛頭ない。


(出家は、勝頼の怒りを()らすための方便よ)


 長篠における敗戦でハッキリした。勝頼は、信玄の後継者たる(うつわ)では無い。


(信玄公の跡を正しく継げるのは、わししか居らん。故に)


 その座を、必ず奪ってみせる。

 どんな手を使っても――



 天正10(1582)年。

 梅雪は、家康と極秘裏に面会した。


 家康の梅雪への対応は、極端なまでに丁重であった。


「それがしは亡き信玄公を敬慕して久しく、その政治、軍略、統率、学ばざるところなどありませぬ。微力の身ながら、少しでも信玄公に近づきたいと思っております。本日は、信玄公の甥である梅雪殿にお会いできて、嬉しい限りです」

「ほぉ……」

 梅雪は尊大に頷く。


 三方ヶ原で敗れたにもかかわらず、イヤそれ故に、家康が信玄を〝我が師〟と仰いでいるという話は、以前より梅雪の耳へも届いていた。


 もともと家康は10代の時分(じぶん)から戦に明け暮れ、局地戦の指揮は巧みであった。だが、三方ヶ原の敗北以降は視野を広く持ち、その場の勝利に(こだわ)らず、戦略をより重視するようになる。


『戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となす』との信玄の言葉そのままに。


 時を待たず。


 織田・徳川による武田領への大挙侵攻に、勝頼は()(すべ)が無かった。勝頼と信勝の親子は、甲斐の天目(てんもく)山にて自害。信豊は、信濃の小諸(こもろ)城で殺された。


(勝頼・信勝・信豊が死んだ)

 梅雪は快哉(かいさい)を叫びたい気分になった。


 武田家は――滅んだわけではない。いち早く家康に内応したおかげで、梅雪は生き残った。

 武田氏の名跡は梅雪(形式的には梅雪の嫡子である勝千代)が、継ぐことになったのである。梅雪は『武田梅雪』となった。

(他の誰でも無い。わしが、この梅雪が、武田の当主となったのだ。信玄公の後継者はやはり、わしだったのだ)


 その年のうちに梅雪は家康とともに近江の安土城、ついで京へ赴いた。


(信玄公念願の上洛を、このような形で果たす次第になるとはな)


 織田信長に謁見(えっけん)した折、頭を下げながら梅雪は胸中で呟く。

(今に見ていろ。いずれ、武田領は全て取り戻してみせる。そして次に上洛するとき、わしは武田軍を率いてくる)


 信玄公の生涯における最終目標は、天下取りであった。後継者ならば当然、夢も継ぐべきだろう。


 堺で遊覧中の家康と梅雪のもとへ、京の本能寺で異変が起こったとの知らせが入った。織田信長・信忠親子が明智光秀によって襲われ、両人ともに命を落としたという。


「梅雪殿。それがしは、これより伊賀を越えて三河へ帰る所存。ともに参りましょうぞ」

「いえ。思うところがありますれば」


 家康の申し出を、梅雪は断った。


(信長を討った光秀が次に命を狙うとしたら、信長の長年の盟友であった家康ではないか。巻き添えになるのは、ご免だ)


 梅雪は家康とは別の経路をたどり、己が領国へ戻ることにした。先行した家康は、良い(おとり)になってくれるに違いない。


 数人の家臣とともに道を急ぐ梅雪は、奇妙な(とき)の声を聞く。

〝見てまいれ〟――と家臣に命じるより早く、数十人の群衆が一斉に梅雪らへと襲いかかってきた。

 蓆旗(むしろばた)、粗末な着物、雑多な武器、ぎらつく眼差し。


「殿! お逃げください」

「たかが、百姓どもの群れ。蹴散らせ!」


 怒鳴った直後、梅雪は腹部に熱い痛みを感じた。見ると、竹槍が突き刺さっている。(またた)く間も無く、家臣たちは打ち倒されていった。

 よろめく梅雪に、薄汚い男たちが覆い被さってくる。頭を打たれ、身体のあちらこちらを斬られ、刺され、太刀を奪われ、衣服を剥がされていく。


 気がつくと、梅雪は惨めな姿で地面を這っていた。身体から流れ出す血が、地へとしみ込んでいく。


(わしは……ここで死ぬのか?)

 馬鹿な。あり得ない。わしは、信玄公の後継者なのだ。わしが死んだら、誰が信玄公の跡を継ぐのだ――


 脳裏を()ぎる、ありし日の信玄の声。


『家康は若き日の余に似ている』


 あれから10年。家康は敵であった信玄の事績(じせき)に学び、大きく成長した。〝海道一の弓取り〟との名声を(はく)するほどに。


(信玄公の後継者は――家康?)


 そう。

 英雄の偉業を受け継ぐには、血縁者でなければならない――そんな道理は無い。


(ならば、わしは何なのだ?)


 真っ先に家康に内通した男。

 信長にみっともなく平伏した男。

 武田家滅亡の原因となった男。


(ただの裏切り者……か?)


 再び起き上がることは出来ず。


(違う! わしは……わしは……)


 伸ばした手は何も(つか)めず。


(信玄公の……お屋形様の……跡を継ぐ者……なのだ……)


 穴山梅雪。木津川河畔(かはん)にて一揆(いっき)の襲撃を受け、殺害される。享年42。

 後世〝裏切り者〟の代名詞として知られるようになる。しかし同時に、名誉ある武田24将の1人にも選ばれた。


 今に伝わる24将図において、梅雪の姿は信玄の隣に確かに描かれている。

 了



◯補足


※御一門・親族衆……「国主の血統から分かれたり、婚姻によって結びついた」家の者が、これに当たります。戦国大名の家臣団の中では最上位の階級です。武田氏の御一門衆には、穴山氏・一条氏・海野氏・葛山氏・木曾氏などが居ます。


※信玄と義信の対立……甲斐の武田家と駿河の今川家はもともと同盟関係にあり、義信の妻は今川義元の娘でした。しかし永禄3(1560)年の桶狭間の戦いによって今川義元が討ち死にすると、信玄は弱体化した今川家を滅ぼして駿河を併呑することを狙います。あくまで今川との同盟維持を主張する義信は、信玄の方針に反発。両者の対立は深まり、ついに破局を迎えました。


※信勝の出生と信玄の遺言……武田信勝の父は勝頼、その母は織田信長の養女(実の姪)です。信勝の出生時、武田家と織田家は友好関係にありました。信玄が遺言で『武田の家督は信勝へ譲る。信勝が16歳になるまでは勝頼が陣代(主君の代理)を務めよ』と述べたのは、本来は諏訪家の人間と目されていた勝頼が武田家の家督を直接相続することに対して御一門衆や譜代の家臣たちから抵抗があり、それに配慮せざるを得なかった結果なのではないかと考えられています。


※武田家のその後……梅雪死後、彼の嫡男である勝千代が武田信治(のぶはる)となり、跡を継ぎます。けれど、信治も天正15(1587)年に16歳の若さで病没。武田の名跡が途絶えるのを惜しんだ家康は自身の五男である万千代を武田信吉(のぶよし)として家を継承させますが、信吉も慶長8(1603)年に21歳で死去。ここに、戦国武田家は断絶しました。但し、信玄の次男である信親の子の系統などが、江戸幕府の高家・旗本となって家を存続させています。


※穴山信君の妻……信君(梅雪)の妻は、信玄の次女です。『見性院(けんしょういん)』という名が伝わっており、彼女の母は信玄の正室である三条夫人でした。嫡男の勝千代(武田信治)を生み、信治の亡き後は武田信吉(家康の五男)の養母となりました。更に後年、徳川幕府2代将軍秀忠の四男である幸松の養育をも行います。幸松は成長し、名君として知られる会津藩主保科正之になりました。

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[良い点] 敬愛する主君のために尽くす、まっすぐで輝かしい青年武将の信君が、しだいに野心に取りつかれ、現実に示される事実ではなく、自身の脳内で肥大化していく裏打ちのない自己肯定と妄想とで、視野と思考が…
[良い点] とっても面白かったです! この信君さん、私が思う戦国期の武将さん達のイメージそのものです。 だって武将だもん、誰かに仕えていても自分だって人の上に立ってるもん、機会があれば一番上になりたい…
[良い点] 以前に読ませていただいていたのですが、感想を書いてなかったので書きに来ました(笑)。 穴山梅雪こと信君(「のぶきみ」だと思ってました^^;)というと、武田家の一門でありながら裏切った人物と…
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