女の嫉妬
「3番線、これより、19時23分発、江松行き、普通列車が到着します。危ないですので、黄色い線まで下がってお待ちください」
電車を降りると、駅のホームには見知った顔があった。隣りの家の奥さんだ。つい先日、隣りはご主人が亡くなった。癌だったと聞く。旦那がまだ四十代で若かったのと、癌の発見が遅かったのとで、たった半年、あっという間に病状は進行したのだと、葬式の日に妻が話していた。
向こうもこちらに気付いたようで、軽い会釈があった。こちらも会釈で返す。
仕事帰りのサラリーマンが多いこの時間、そして駅のホームというこの場所に、隣の奥さんは不釣り合いだった。何故?と言われれば、特にカバンらしきものが見当たらず、ごみ捨てに出て来たというくらいの軽装に見えた。葬式では特に会話はしていない。何故ここに?という疑問と、お悔やみぐらいは言うべきだろうという思いから、隣の奥さんに話しかけることにした。
「ご丁寧にどうも有り難うございます。お忙しかったでしょうに、ご夫婦で葬式にも来てくださって。きっとあの人も喜んでいると思います」
先にお悔やみを済ませ、次に疑問に思ったことを尋ねた。
「そうですよね。私、ちょっと場違いですよね。うちの人、金曜だけいつも、電車を使っていたんです。週末くらいは人と飲んで帰りたいからって。だから、夫の財布の中に、回数券が少し残っていて。駅なんて普段あんまり来ないから、せっかくだし、ちょっと使ってみたいなぁ……なんて思って。あの人、どんな景色見てたのかなぁ……なんて思ったりして」
奥さんは左手を少し持ち上げて、手に持っている回数券を見せた。そして、回数券の下に、二つ折りにされた写真らしきものを重ね持っているのが見えた。
「それ、ご主人の写真ですか?」
てっきり旦那が写っているのだと思った。よく遺影を持ち運ぶ人もいるのだから。
「あぁ、これ。夫の財布に入っていたんです。ほら、夫が亡くなった後、色々手続きするのに、夫の免許証とか保険証とか、出さなきゃいけなかったから。この写真も回数券も、夫の財布の中に入っていて」
ちょうど下りの普通列車がホームに着いた。また人がぞろぞろと動き出す。
「うちの人、最後の方はほとんど意識も無い状態で、でも死に際に、ちょっとだけ薄目が開いて。あの人、何て言ったと思います? あの人、知らない女の名前を呼んだの。私じゃない。別の、知らない女の名前」
奥さんは手に持っていた写真を開く。顔の中央にくっきりと折れ目がついた、少し皺の寄った写真。まだ若そうな、綺麗そうな女性が写っていた。
奥さんの右腕がすっと持ち上がり、真っ直ぐに腕を伸ばす。そして、人差し指が真っ直ぐに伸びた。
奥さんの指差す先に、スーツ姿の男と腕を組んで歩く、写真と同じ顔の女性が見えた。
女性が見えなくなるまでずっと、奥さんはただじっと、指を差し続けたまま、遠ざかっていく男女の後ろ姿を見ていた。
発車を知らせるベルが鳴る。奥さんはやっと腕を元に戻した。そして、電車の前方に向かってふらふらと歩き出す。さすがに目の前で死なれても困ると思い、奥さんの後ろをついて歩く。電車の前方、黄色い線まで来て、さすがにこれ以上はと思い、パッと奥さん腕を掴んだ。
「文句くらい、直接、あの人に言ってやりたいんです。あの人、あの後すぐ死んで、文句の一つも言ってやれなかった。なのに、葬式では悲しんでやらなきゃならないでしょ? 文句くらい、言ってやってもいいと思いません? あぁ、そうよ。貴方、一緒に来てよ。そうしたら、あの人、私に嫉妬してくれるかしら」
掴んでいた手首を逆に掴まれた。そして、引きずられるように、隣の奥さんと共に落下した。
あの後は大変だった。
暴れる隣の奥さんに殴る蹴るの暴行を受けながらもどうにか抱えて、見ず知らずの人達にどうにか引っ張り上げてもらい、自分も引っ張り上げてもらい……。駅員や警察には痴情の縺れによる無理心中未遂を疑われ、警察から連絡を受けた妻には当然のように隣人未亡人との浮気を疑われた。
帰宅後はスーツのまま、妻の正面で正座させられ、小一時間、妻からの事情聴取を受けた。その後、常よりもかなり遅い夕食になったが、出されたかつ丼を黙って食べた。
隣の奥さんはというと、あの日、幾らか錯乱状態だったのと落下による負傷、貧血もあったようで、救急車で病院に搬送された。駅員によると、奥さんはあの日、何時間も前から、ずっとホームに立っていたのだという。
隣の家はそのうち売却されるのだろう。奥さんは既に実家に引っ越したのだと、妻が話していた。
「なぁ。もし、今回のお隣さんの話が自分とこの話だったら、お前どうする?」
今、いつもの駅で妻と電車を待っている。
この間のお詫びということで (自分はただ自殺に巻き込まれ、結果、人助けをしただけなのだが) ランチをして妻の買い物に付き合う予定になっている。
「そうねぇ、でも、まぁ安心して? 例え貴方が浮気をしても、私は死んだりしないわ」
妻の言葉にほっとする。勿論、自分には浮気するつもりなどないのだが。
「生霊になって祟ってあげるから」
ぎょっとして妻を見る。
「でも、その時点で俺は死んでる設定だよな?」
えぇ、そうね、と笑う妻。
そして、更に妻はぞっとすることを言う。
「地獄でずっと、ぺしゃんこに潰され続ければいいのよ」