続・竜使いの巫女 前編 再び竜の星へ
■プロローグ
執務机の周りだけが明かりに照らされている。その机に頬杖をついているため、豊かな金髪が机にこぼれ落ちている。
ふう、とため息をつくと、アリスは天井を見上げた。溢れた金髪が机から離れ、背に戻る。
少しだけ口元を歪めると、独り言のように言った。
「メタアリス。竜が集めて上空に放射していた『何か』、は、判る?」
アリスの脳裏に音声が響く。
『いいえ、アリス。推論出来る範囲では特定できません』
「あたし、とても気になるのよね。それが何か」
『はい、アリス。アリスが気になってる事は良く判ってますよ。いちおう、判ってる範囲をお話しましょうか?」
「ええ。お願い」
『竜に電磁力を使う能力を後付けされている点から、その「何か」は電磁力と相互作用の有るもの。で、何かの素粒子と思われる事。竜は呪いを解かれても、その本能で「何か」を集めて放出する事』
「そうね。で、その後付けの能力、いいえ、使命を植え付けたもの者、だけど、もし、呪いが解けた事を知ったら、どうすると思う?」
『是正しようとすると考えるのが妥当だと思います。けど…』
「けど?」
『進化の過程に潜り込ませるような遠大なテクノロジーですから、是正措置が講じられるのも、相当に長い時間が経った後、と考えられますし、それに』
アリスはメタアリスの推論を黙って聴いている。
ほんとにこの子、考え方が人間ぽくなって来たわよね。特に竜の星に行ってから。
『その種族、と言って良いのか判りませんが、未だに同じ動機付けを保持できているかどうかも判りません』
「確かにね。ある意味、作ったは良いけど、飽きちゃってるとか忘れちゃってるかも知れない」
『はい、アリス。…飽きているとか、忘れている、というのは、光ちゃんやアカネちゃんに言うのは』
「判ってるわ。言わないわよ。あの娘たち、竜に思い入れがあるもの。呪いをかけた相手がそれを忘れてるなんてあたしが言ったら、凄く怒って、その矛先、あたしの方に来ちゃいそうだもの」
『はい、アリス。その点は間違いなく』
アリスは光にまっすぐに見据えられ、真っ赤に髪を燃やしたアカネが怒ってそっぽを向く様を想像した。
「うわ〜。それはイヤだわ〜」
そう言うとアリスは机に突っ伏し、黙った。
執務室に僅かに静寂が訪れる。
「やっぱり、もう一度、あの星を調べに行ってもらった方が良い気がするのよ。なんとなくの予感だけど」
『ええ、アリスがそう言うと予想していました』
まあ、あたしの予感なんて、雫の占いに比べたら的中率はずっと低いけど、あたしはこの予感で結構危機を乗り越えてきたのよね。
『アリスの好奇心はとても興味深いです。まあ、好奇心は猫をも殺す、とは言いますが、女神は猫とは違いますから』
「何? あたしの予感が好奇心で、何か引き起こすとでも言いたいの?」
『いいえ、アリス。今のところ、特にも問題は無い、と言いたいだけです』
メタアリスの現状分析は正確だった。
だが、現状は常に変化する。
そして、遠い時の線の出来事。
それは玄雨雫の占いを持ってしても、時の女神の視知の術を持ってしても、見通せるものでは無いのだから。
■アオイの修業
賑やかな新年会、そしてお正月も終わると、雫はアオイに言った通り、時の女神としてのアオイの修業が始まった。
アカネの時と同じく「空の穴」から始まり、それが出来るようになると、時を移ろうという段階になる。
アカネと異なり、アオイは「空の穴」を早く習得できた。
おそらくセリスが巫術師の時、雫、アリスと一緒に「空の穴」を成す事が出来た経験がそうさせたのだろう。
アオイが「空の穴」を成すと、アカネは「お母さん凄い!!」と手叩きして喜んだ。
アオイは、母としての面子が保てた、というより、無事出来て安堵している感じだった。
さて、時を移ろう業、という段階になる。
玄雨神社舞い舞台前の境内。
雫の前に、灯、光、オアイ、アカネの四人が並んでいる。
「今回、アオイを手ほどきするのは」
と雫は言うと灯に視線を移す。
「灯にやってもらおうと思う」
光も頷く。
アカネは、え?という顔をする。
それを見て光がアカネに言う。
「時の女神の中で、一番時渡りに長けているのは灯お姉ちゃんなのよ、数えきれないくらい時を巻き戻したりしたし…それに」
そこで光は言葉を飲み込んだ。
灯は光の肩に手を置くと、静かに微笑んだ。
「良いのよ。灯達の事をそんなに気に病まなくても」
アカネはアオイが見つめているのに気が付くと、アオイを見た。頷きながらアオイは言う。
「知っているでしょ。二十三人の灯さん達の事」
あ!
アカネも思い至った。
そうだった。この地球を救う為、自分の時の線の地球が焼き滅ぼされても、助けようとした他の時の線の灯さん達。
「ごめんなさい!」
アカネは素早い動きでお辞儀をするように頭を下げた。
光に余計な事を言わせ、光と灯に苦しい思いを思い出させた事。それを詫びる為に。
焼き滅ぼされた地球の灯達。
彼女達に思いをはせる時、灯、そして灯の記憶を持つ光は、どうしても心に痛みを覚える。彼女達の献身無くして、今の地球は無かったのだから。そしてその思いを、光よりも強く、灯は持つ。
雫は知っている。
夜、時折灯が忍び泣いているのを。その悲しみを決して面には出さないものの、内側ではその思いを強く秘めている事を。
光は知っている。
灯が自分の中にいた時、どうして二十三人の灯達の事が気になったかを。
それは自分の中の灯の思いが、隠しきれない思いが滲み出て、光の心に影響した為だったのだと。
アカネはそういう事を知らないが、そういう事と判って、思い至って、感じて、どうしようもなくなって、頭を下げたのだった。
「いいのよ、アカネちゃん」
灯はアカネの前に立つと、優しく微笑んだ。
「灯お姉ちゃん」
アカネはぎゅっと灯を抱きしめた。ぎゅっと。
「あ、あ、アカネちゃん」
灯が苦しそうにしている。10歳のアカネが、肉体年齢6際の灯をぎゅっと抱きしめたのだから、灯は苦しい。顔色が青くなる。
「アカネ!」
思わずアオイが声を上げる。
あ!
アカネはぱっと両手を放すと、再びごめんなさいっ、と頭を下げた。
灯はぜーぜーと息をしながら、ややかすれた声で「良いのよ、アカネちゃん」と言った。「良いのよ」の「い」には濁点がふってある感じで。
その様子を見ていた雫は笑いをかみ殺す。だが、それは難しく、雫の両肩は少しひくひくと動いていた。
目ざとく光がそれを見咎める。
「雫さん?」
「すまぬ、すまぬ」
きっと、私がアリスに首を絞められているのもこういう風に見えるのだろうと思うと、思わず。
雫は再び笑いをかみ殺す。
なんとなく光は雫が考えている事が判り、灯に抱きつくアカネ、そのアカネに抱きつくアリスを想像して、やはり笑いをかみ殺す。
息を整えた灯が、ふーっと息を吐き出して、場の雰囲気は元に戻った。
雫が咳払いをする。
「さて、灯。アオイと時渡りを」
はい雫さん、と灯は言うと、「アオイちゃん」とアオイに手を差し出す。「はい灯ちゃん」とアオイは差し出されたその手を握る。
『聴こえる?』
読心の術の応用で作られた即席のリンクの声をアオイは聞いた。
アオイの髪の毛の色が、金色から青へと染め上げられて行く。
『聴こえるよ。灯ちゃん!』
灯は頷くと、それが合図だったかのように二人の姿は玄雨神社舞い舞台前の境内からかき消えた。
■その「時」
灯とアオイは時の狭間に居た。
漆黒の闇の中、互いの姿は見えないもの、しっかりと握られた手を通じて互いの存在を確かに感じていた。
『これから時渡りをするけど、行きたい「時」とかある?アオイちゃん』
アオイは考えた。過去の思いでが蘇る。もう一度会いたい人が何人か想起される。だが、一目会いたいその人を思い出した時、その時にしたいと心が決まった。
『光ちゃんがアカネを連れて行った「時」にあたしも行ってみたい』
灯は光からその「時」が何かを聞いていた。そしてそれがアオイにとってどういう意味を持つかも、知っていた。
『判ったわ、アオイちゃん。光が行った「時」の少し後にしようと思うけどいい?まったく同じだと、過去の光とアカネちゃんと鉢合わせしちゃうから』
アオイは灯のリンクの声音から、自分を思いやる優しさを感じた。
『ええ。一目見られれば』
『判ったわ』
そのリンクの声が終わると同時に、アオイは自分がどこかの商店街に居るのに気がついた。
「アオイちゃん、こっちこっち」
灯はアオイの手を引っ張って路地に誘う。
「ここは過去だから、なるべく目立たないようしないと」
アオイも灯について急いで路地に隠れる。
その直後、良く聞く声が聞こえてきた。だがその声は酷く乱れ荒々しかった。
「いいから、帰れ!」
二人が路地からそっと顔を出すと、一六堂と看板のかかった店から、一人の中学生男子が押し出され出てきた。
慌てて路地に隠れる。
中学生男子は、しばらくその店の前に佇んでいたが、通りを歩き出した。路地に通じる方向へ。
その足音が大きくなるにつれ、アオイの鼓動も大きくなった。
中学生男子が路地を通り過ぎた時、アオイはその横顔を見た。
時が止まったように感じた。
ほんの1秒も無い程の短い時間。
アオイはそれを数分と感じる長さに感じていた。
やがて中学生男子は路地を通り過ぎた。
途端に、時間が動き出したかのように、アオイはあたりの音がアオイの耳に入ってきた。
時間が止まったように感じている間、音が聞こえなくなっていた事にその時気がついた。
そして自分が左手を胸に当て、涙を浮かべている事に気がついた。
アオイは路地から少しだけ顔を出して、中学生男子の小さくなっている背中を見つめた。
右手に優しく握られている感触が伝わってきた。
顔を回すと、灯が優しく、そして静かに微笑んでいた。
『戻りましょう。アオイちゃん』
『はい』
路地から二人の姿はかき消えた。
■アオイの思い
『大丈夫?アオイちゃん』
時の狭間の漆黒の闇の中で、灯のリンクの声音がアオイに届く。
『大丈夫。思いは叶いました』
少しの静寂が暗闇に訪れる。
『アオイちゃん、少し寄り道、というか、のぞき見してみない?』
え?
『時の狭間に窓を開けて、時の線の中を覗くの。時渡りとは違う業。でも、多分これってあたしだけが出来る業だと思うの。多分、二十三人灯達があたしの体に残した置き土産、みたいなものかな』
灯はアオイが優しくそして少しだけ握った手に力を篭めるのを感じた。
『心配しないで。二十三人の灯達の事は、とても哀しい事だけど、あたしはそれを何とかしたいと思う事もあるけど、それはもうどうしようもない事だもの。その事は判ってる』
アオイは少し驚いた。
おそらく灯が自分の心の底に仕舞ってあるつらい思い、それを打ち明けたのだから。
『…横顔を見た時、もしかしたら路地から飛び出してしまうんじゃないか、とか足音が大きくなって来る時思ったけれど、横顔を見たら、時間が止まったみたいに、何も出来なかった』
アオイは灯が握った手を優しく右手で撫でているのに気がついた。
『時の女神は複雑よね。母親が恋する前に、その子が母親の所に現れたり、その人の子供を産んだ後、初めてその人を一目見るなんて』
そこで灯は一呼吸分、言葉を区切った。
『だからね、一目だけじゃなくて、のぞき窓でもう少し、神峰純の事を見ても良いかな、と思うの。もっと過去の。そうね、今のアオイちゃんと同じ年の頃の。あたしからの贈り物、として』
『灯ちゃん』
アオイは嬉しくなると共に、灯の心が判った。
あたしの事を思いやってくれてる。
それが嬉しかった。そして、その申し出を受ける事が、灯の為でもあるとアオイは判ったのだった。
オアイの遂げる事の出来ない思い。それを少しでも軽くしてあげたいと、そうする事が灯の心に負債のように張り付いている救う事の出来ない二十三人の灯達への哀しみ、それを少なくする事に繋がるのだと、アオイは判った。
『ありがとう。灯ちゃん。お願いします。見せてください』
灯は繋いだ手を通じて、自分の目とアオイの目を気脈で結ぶと、どこかに気脈を伸ばした。
途端。
アオイの視界に小学校の教室が現れた。
小学校の教室を空中から眺めているような視界が広がった。
がやがやとした始業前の雰囲気だ。
日差しが眩しい。夏のようだ、とアオイは感じた。
『気脈だけ時の線の中に入れて、眺めているの。慣れてくると、音も聞こえるようになるから』
アオイは一人の小学生に気がついた。
教室のやや前の方の窓側に近い席にその児童は居た。
視界が動いて、その少年に近づく。
『小学校五年生の神峰純』
灯の声が聞こえた。
『確か、この時期だともうすぐ発表会が近くて、その事で頭がいっぱいだった気がするなぁ』
灯は純から記憶を引き継いでいる。
自分の記憶のように、純の記憶を思い出してそう言ったのだった。
『いつも頭の中で、舞踊の曲が流れていて、その舞いを想像していて、良く先生の質問に答えられなくて、困ってた』
アオイはとても不思議な気持ちになった。
好きになった人の小学校の頃を覗き見て、その記憶を引き継ぐ灯から解説を受ける。
まるで、神峰純本人のモノローグを聞いているようだと、アオイは思った。
視界がまた動いた、周囲を見回す感じで。
『こうして見ると判るんだけど、どうもあの頃のボクって、密かなアイドルだったみたいだね』
灯の一人称が変化した事に、アオイは気がついた。
記憶を手繰る内、代替わりした時と同じ一人称に戻っている。
見回した視界の先に、数人の女児が固まって、何か話している。ちらちらと純を見ているのが判った。
『どうやら、次の発表会を見に行こうか、どうしようか、って話しあってるみたい。
アオイは、おそるおそる、という感じで尋ねた。
『発表会って?』
『おじいちゃん、日本舞踊の会をやってて、ボクもそこで日本舞踊を学んでて、その発表会』
純お姉ちゃんの舞いの発表会!
アオイの心臓は大きく鼓動すると、血液を全身に送り出した。
自分の顔が赤くなっていくのを感じた。
アオイは時々判らなくなる。
セリスとして好きになったは、純お姉ちゃんなのか、写真で見た神峰純、なのか。
どちらも同じ人物なのだから、どうでも良い、とは言えるけれど、それでも時々心のどこかでその疑問が、水面に広がる波紋のように広がる事がある。
■発表会
『それ、あたし見たい』
アオイは言った自分の声を聞いた。
無自覚に言った言葉を、耳で聞いて自覚する、そんな感じだった。
途端に視界が切り替わった。
がやがやとした雰囲気の観客席と、視界の先にある緞帳。
どうやら発表会の幕間、のようである。
『もうすぐ、ボクの番』
そのリンクの声が聞こえた後、急に視界が変わった。
一人の大学生らしき人物が視界に入る。
『春お兄ちゃん。確か、本当はお父さんが見に来る筈だったんだけど、仕事が忙しいからって、代わりに来てくれたんだって』
春お兄ちゃん、東雲春喜。人に戻った純が結婚する相手。
アオイは初め嫉妬のような感情を自分が持つかも、と思っていた。
けれど違っていた。
好きになったのが誰だったのか、どうしてそうしようと思ったのか、それがなんとなく判ったような気がした。
判ったような気がしたのだけれど、それを言葉にする事は出来なかった。
ブザーが鳴った。視界が舞台の方を向く。
緞帳が上がって行くと、そこには藤の花を持ち振り袖を着た一人の少女の姿があった。
『あれがボク。演目は「藤娘」。だから女の人の格好をしてるんだ』
アオイは自分がため息をついているのに気がついた。
純お姉ちゃんだ。綺麗。
舞いが終わるまで、緞帳が下りるまで、アオイは純のその艶やかな舞いを一心に見続けた。
緞帳が完全に下りると、視界が切り替わった。
そには見蕩れている春喜の姿があった。
周りががやがやし始める。春喜は、我に返ると、はぁ、とため息をついた。
『春お兄ちゃん、なんでため息ついてるんだろう』
アオイにはその気持ちが分かった。
『灯ちゃん、それ多分、舞いを見ている最中、舞っているのが実は男の子、というのすっかり忘れて見蕩れてて、で、急に実は男の子だったって気付いたからだと思うの』
『…そうだった。あの頃は男の子だったっていうのを、ボクも忘れてた』
アオイは舞いが始まる前に分かったような気がした事、どちらを好きになったのかが判ったような気になったその事が、しっかりと言葉になるのを感じた。
『あたし、純お姉ちゃんが好きだったんだと思う。始めて純お姉ちゃんの舞いを見た時の事、思い出した。体が痺れて、あんな風に舞ってみたいって、強く思った。多分、恋愛とは違う思い。それで、後から純お姉ちゃんが男の子だった頃の写真を見て、それが恋に変わった。だから…』
アオイは灯が握る手に少し力を篭めるのを感じた。優しく。
アオイも握り返す。
視界が元の漆黒に戻った。その様子は、まるで景色が目の前の一点に吸い込まれるように消えて行くような感じだった。
『ありがとう、灯ちゃん。純お姉ちゃんの舞いが見れて』
そこでアオイは言葉を区切る。
『良かった』
アオイは自分の手の平にあたる灯の親指が優しく撫でるのを感じた。
『戻ろうか、アオイちゃん』
『はい』
二人の目の前に玄雨神社舞い舞台間の境内が現れた。
アオイは灯の方を向くともう一度、礼を言った。
「ありがとう。灯ちゃん」
それを見たアカネは、時渡りが上手くいってお母さん嬉しいんだな、と思った。
雫は、二人の様子を見て、途中でなにかあったな、と思うと同時に、それがアオイにとって幸いな事、だったと察した。
光は微妙だった。
時渡りが上手くいった事を嬉しいと思う気も持ちに、二人が仲良くしているのを見て、お姉ちゃんを取られた妹、という気分がほんの少し混ざっているのに気がついたから。
何考えてるのあたし。結局みんな姉妹じゃない、あたしたち。
とまあ、それぞれがいろんな感慨に浸っていた時、それを打ち破る闖入者の声が舞い舞台上手から響いてきた。
「雫!お願いがあるの!」
アリスだった。
■もういちど、竜の星に行きたい!
雫のこめかみはピクピクしていた。
だいたいこういうアリスのお願いは、大抵ろくな事が無い。
「話しだけでも聞いて!」
舞い舞台から境内に向かって叫ぶ声は大きかった。
それに煩い、と雫は思った。
「判った。話を聞くから、そこで待て」
そう言うと雫は舞い舞台下手袖に登った。
四人もそれに続く。
雫が座ると、素早くその前に座るや、目をきらきらさせてアリスは言った。
「竜の星をもう一度調査したいの!竜が何を吸い込んでるのかとか、いろいろ。知りたくて知りたくてたまらないのよ!」
好奇心の塊である。
はあ。
雫がため息をつく。
灯、光、アオイ、アカネも舞い舞台下手袖に座りその様子を見つめていた。
(まあ、アリスさんが竜の星を調べたいって思うの)(当然よね。ママ好奇心百万倍だもの)
初めのは光、後のはアオイ。
(アリスさん、ほんとに相変わらず)これは灯。
ん?
三人は気がついた。
アリスと同じくらい、いや、それ以上に目をキラキラさせている一人の女神に。
がたり。
アカネは自分の場所から飛ぶように動くと、雫の前に移動した。
ほとんど正座した状態から頭の高さがそんなに変わらずに移動しているのだから、手抜きのアニメくらいしか、こんなのは見た事が無い、そんな印象を三人は覚えた。
それ程、おかしな動きだった。
「あたしも、もう一度行きたい!雫さん!」
アリス同様、両手を胸の前で組み合わせ、目をきらきらさせてアカネは言った。
三人はため息をついた。
(なんであの子、そういうトコだけママに似てるの!?)これはアオイ。
(なんだか雫さん、旗色悪い)これは光。
(最近判ってきたけど、アカネちゃんって、ある意味アリスさんの小型版、だよね)これは灯。
アリスのキラキラ眼を見つめて、雫は心の中で首をかしげると、少しばかり意地悪な目つきをした。心の中で、だが。
アリスの好奇心に付きあっていたら、身が幾らあっても足りぬ事になる。
とため息をついた時に、アカネが飛んできた訳である。
「あの小さい竜に会いたいの!」
そうか。
雫はなんとなく判った。
アカネが受け入れた竜の気脈、その元は呪いで死んだ母竜。その仔に会いたいと思うのは、道理ではある、と。
だが、事は終わっている。
さて。
どうしたものか。
両手を組み、両目を閉じ、雫は考え込んだ。
少し時が過ぎる。
雲が流れ、午前中の光が舞い舞台を照らした。
ふう、と雫は息を漏らした。
「暫し熟考する。答えは明朝伝える」
そう言うと雫はアリスを睨んだ。
「それまでは向うに戻れ、アリス」
その語尾は少しばかり、怖い感じになっていた。
その怖い感じをさらりと躱して、アリスはにっこりと微笑むと、「じゃ、帰るわね」と言って立ち上がった。
「良い返事、まってるわよぅ」
そう言うと、舞い舞台上手袖奥に歩いて行き、設置されている固定化された「空の穴」に入ると消えた。
と同時くらいに、光は短い舞いを舞い「空の穴」を再び充填する。
雫は思った。
アリスが来やすくなったのは良いが、今度ばかりは便利過ぎるのも困りものだ。
はあ、と雫はため息を漏らした。
■怖い雫さん
「やっほー雫ぅ〜。で、答えはどお?」
翌朝、アリスは早速固定化された「空の穴」を使い、玄雨神社を訪れるや、調子の良い事を言った。
だが、その言葉は舞い舞台下手袖に集まる巫女装束の少女達が放つ異様な雰囲気に、その楽しい調子をへし折られた。
光、灯、アオイ、アカネの四人は、アリスの声を聞くや否や、首を回してじろりと睨みつけたからだ。
な、なに、この雰囲気。
「来たか、アリス…」
四人の後ろから、低く唸るような声が響いてきた。
四人はびくっと身を震わせると、光と灯は左に、アオイとアカネは右へと、さながらモーゼの前で海の水が割れるように、その列を割った。
割った列の間から、奥に居る異形がその姿を現した。
え、雫?
普段、髪をきちんと纏めあげている雫の姿では無く、髪を下ろしている。
だが、異形なのはそこでは無い。
頭が大きく見えるのだ。
アリスは気がついた。思い出した。
以前、まだ雫が一六堂に住んでいた頃、アリスが巫山戯過ぎて雫が怒った時の事を。その時の雫の姿を。
アリスは自分の重心が後ろに下がるのを感じた。
(怒髪が天を突きかけてる)
その髪が短ければ、その怒りで直立しているような状態だが、長い雫の髪は大きく持ち上がるに留まっていた。
それ故、頭が大きく見えた、という事になる。
な、なんで、雫が怒ってるのよ。
あ!
アリスは驚いた。胡坐をかいて座っている雫の右側には、一升徳利がある。
アリスは雫が酒を呑んでいるから驚いた訳では無い。
問題はその一升徳利、そしてそこに貼ってある護符だった。
うわ、拙い。とても拙い、って状況よね、コレ。
アリスは冷や汗を流しそうになる。
アリスの視線が、一升徳利の護符に釘付けになっているのを見て、光が言った。
「今朝、雫さんが奥の酒庫から、これを持って来るようにって、言われて持ってきたんです」
(怖かった。あんな雫さん、初めて見た)
光が見たのは、髪が今より大きく持ち上がり、さらに、目の下に隈を作った雫の姿だった。その双眸は血走っているというおまけ付き。
光が持ってきた一升徳利を渡すと、雫はどっかりと胡坐をかいて座り、封を切って一升徳利の中身をぐびぐびと飲み始めたのだった。
飲み進む内、大きく持ち上がっていた髪も次第に落ち着き、目の下の隈も目の充血も消えて行った。
大きく持ち上がっていた髪も次第に落ち着き、とは言うものの、まだまだ持ち上がっているのは、先の通り。
光が見た時は、それはもう凄まじいばかりで、宛ら日本舞踊の鏡獅子の髪形のようになっていたのだから。
「あれ」を飲むなんて、よっぽど、だったのね。雫…。
護符の貼られた一升徳利。
アリスはその中身が何か知っている。
玄雨神社の霊脈は濃い。
だが、その霊脈を持ってしても巫術師の気脈を補いきれない時、飲む薬。それが御神酒。
元は一升徳利に詰められた普通の日本酒だが、護符に込められた雫の気脈で、周囲の霊脈を次第にその酒の中に集め、凝集する。
雫はいざと言う時のためにと一六堂にも何本か持ち込んでいたのだが、アリスが酒宴を始めた時、面白そうな酒があると、うっかり封を切ってしまう。
途端に雫の血相が変わる。
な、な、な、な、何をする!
途端に雫の髪が持ち上がり、ポニーテールに結んでいた紐が千切れ飛ぶ。
雫は素早くアリスの手から御神酒を取り上げ封をし直すと、閉じた扇で栓を叩く。
ふうと息を吐き出すと、きっとアリスを睨む。これはな、アリス、と説明を始めた。
説明というよりも、お説教である。
酔いの回ったアリスの酔いが飛び、かしこまらざる得ない程の剣幕のお説教だった。
普通の酒なら別段、構わない、だけどな、これはな、二百年ものなのだぞ、万一の為の薬だ!それを貴様は!
アリスはしゅん、となっている。雫にもそれが判った。
台無しにする所だったのだぞ、と雫は矛を収めた。
それを呑んでるってコトは、よっぽどのコト、だったのね。
なんとなく、アリスは事の次第が分かってきた。
アリスのお願いの是非を知る為、雫はかつてない程の占いを行ったのだ、と。
遠い時の線にある竜の星に行っていいかどうか、って占い。
時が絡む占いは曖昧になる。外れる可能性も高くなる。
それでもなんとかして、いつも通りくらいの、ううん、きっといつも以上の確度で占いたいと、雫は…。
占いと格闘したんだわ、とアリスは理解した。
御神酒を呑まずにはいられないほど、疲れ果てるまで。
あ〜、悪い事しちゃったなぁ。と思っても後の祭りよね。それに。
これで竜の星に行っちゃダメって出ても、もう、文句も言えないわ。
はあ、とアリスはため息をついた。
『どうやら雫師匠、一晩中、舞い舞台で舞いを舞い、占い、それから何かやっていたみたいなの、ママ』
しゅんとしたアリスを見かねたのか、アオイがアリスリンクで声をかけてきた。続けてアカネもリンクで言う。
『夕餉が終わった後、雫さん、今晩舞い舞台でやる事がある、誰も来てはならぬ、って言ったの。とても思い詰めたような顔をしてて、だから誰も何をしてるか見てないの。でも気配とか音とかで何となく舞いを舞っているのと、扇の占いをやってる、って感じは分かった』
アリスは自分が察した事がやはり事実だったと理解した。
『教えてくれてありがとね。雫に悪いことしちゃったなぁ』
その言葉に、アカネがやはりしょんぼりと言う。
『あたしも同罪。雫さんを苦しめちゃった』
はあ、とアリスとアカネはため息をついた。
■アリスの企み
「さてアリス、結果を言い渡す」
膨れ上がった髪の毛で、頭が大きくなったかのような雫が低い声で言うと、舞い舞台の床がその声に共鳴するようにみしみしと音を立てた。
「竜の星に行く事」
そこで雫、いったん言葉を区切る。
場に緊張が漲る。
一同、ごくり、と唾を飲み込む。
「許す」
低い声でそう言うと、雫の髪の毛はいつもの状態に戻って行った。
雫は手早く髪をまとめ紐で縛る。
一口、一升徳利から御神酒を呑むと、栓をした。そして、ふう、と低く息を吐いた。
アリスがやったーと喜ぶと思っていた灯、光、アオイ、アカネの予想を裏切り、アリスは雫の前に進むと、正座して頭を下げた。
「面倒な占い、有難う御座いました」
アリスは頭を上げた。その顔にはごめんなさい、と書かれていた。
「真に面倒な占いだった」と雫が言おうとした時、アリスが抱きついてきた。だがそれにはいつもの飛びつくような勢いは無く、そっと大切なものを抱きしめるように優しく。
雫の耳元でアリスは囁いた。
「ほんとにごめんね」
そう言うと、アリスは雫から離れた。
「竜の星にまた行く許しを頂き、真に有難う御座います」
アリスは再び頭を下げた。
雫のややヘの字になっていた口が元の形に戻った。
「竜の星に行くにあたり、言わねばならなぬ事がある」
頭を下げたアリスの背中が少しぎくり、とするように緊張した。
「頭を上げろアリス。もう怒っていないし、お前に怒った訳でもない」
アリスの背から緊張が消えて行き、アリスは頭を上げた。
「竜の星に着いたら、くれぐれも用心する事。それに、行くのに」
雫は灯の方を見た。
「灯を同行させる事。良いな灯」
灯は、はい雫さん、と頷いた。
「あのう」とアオイが言った。雫の視線がアオイに向く。
「あたしも一緒に竜の星に行っても良いですか?」
アオイのその声を雫は意外に思った。前回同様、アオイは神社で待つものだと思ったからだ。
「時渡りも出来るようになりました。あたしも行ってみたいんです。竜の星」
駄目でしょうか、とアオイは尋ねた。
雫は暫し考えた。
行く能力はある、それに行けるのに一人だけ残しておくのも可哀想。
だが、何かあった時。
雫は灯が自分を見つめているのに気がついた。
大丈夫、何かあったらあたしが守ります。
その目の篭められた力は強く、灯の顔にはそう書いてあった。
「良いだろう。アオイ、共に行くが良い」
ありがとうございます、雫師匠、とアオイは頭を下げた。
優しい目でそれを見ていた雫は、視線をアリスに戻す。
「さて、話しを戻す」
アオイは頭をあげる。
雫はこほん、と咳払いをした。
「もう一つ、言わねばならぬ事がある。アリス」
雫の強い視線にアリスはぎくり、とした。
「お前、自分でも行きたいと企んでいるな」
やばい。雫にバレた。
「な、な、な、何の事かしら」
「もう判っているぞ、だがそれは未完成だ」
灯、光、アオイ、彼女達もその目を見開いていたのだった。それ程以外な雫の言葉だったのだ。
時の女神でも無く、その上に巫術師でもなくなったアリスさんが竜の星に行く企みだって!一体どうやって!
「さあ話せアリス。皆も知りたがっているぞ」
あ。
きっと今朝までやってた占いの最中にバレちゃったんだわ。
はあ、とアリスはため息を漏らした。
「アリスは巫術師に戻っている」
え!と四人は驚く。
「まあ、戻っている、というのは微妙な所も含むが」
ほんとにお見通し。
「ええ。巫術は使えるし、気脈も見える。ただ、雫を天然、あ、変な意味じゃなくて、そのままの意味としてだけど、雫を天然としたら、私のは人工的、というか」
そこでアリスはちょっと首をかしげた。
「そうね。サイボーグ、みたいなものかな。失った巫術師の力を機械で補ったった感じだから」
四人はアリスが言ってる意味がますます分からなくなってきた。
「光ちゃんとアカネが竜の星に行った時に使ったスーツ、あれの改良版で、巫術師だった頃の気脈の流れを再現できるようになったのよ」
アリスは右手を首の後ろに回すと、頚骨に着けている白い装置を押した。
途端にアリスの気脈が整い、流れるようになる。
あ!
四人は目を見張った。
「巫術師としての気脈の流れが途絶えても、体はそれを覚えてて、その流れに気脈を流すように調整するの。パワーアシストして、ようやく元くらい、というものだけど、ね」
アリスさんの科学力、スゴ!
光は目を見開いていた。
灯は少し疑い深い目でアリスを見ていた。
それだけで済む筈はない、わよね。
「で、その調整の仕方を変えれば、時の女神が時を渡る時の気脈の流れを再現し、共に時を渡れると、企んだのだ」
アリスはがっくりと肩を落した。
「そうよ。時を渡っている時の気脈の流れは、スーツが記録していたから、それを再現すればって考えたのよ」
「だがアリス、それは未完成だ」
「なんとかなるかな、と言う所までは来ていたのよ」
少ししょげながらアリスは言った。言い訳のような声音だった。
「気脈の流れを他の者の気脈に似せても、術が行える訳では無い。そこには修業と、そして素質が必要なのだ」
それにな、と雫はアリスをまっすぐに見据えた。
「己と異なる気脈の流れを続けると、体を壊す」
無茶は止せ、と雫は言った。
その声音に宿る自分を思いやる気持ちを、アリスは聞き取った。
ああ、雫に心配されちゃった。
「まあ、アリスの科学力なら、いずれ可能になるかも知れぬが、今は時期尚早に過ぎる。それに」
雫の語尾には、心をざわつかせる響きが篭っていた。
■雫の占い
「なぜ私があれ程怒ったか、その訳を話そう」
アリスは再び、ぎくり、とした。
あたしの事を怒った訳じゃない、ってさっき言ったけど。
それでもぎくりしてしまうのは、雫が怒る原因、遠因には自分があると思っているからだった。
「此度の占い、真に難儀であった。理由は時の線が絡む為。それ故、まず成さねばならぬ事がいくつかあった」
雫は立ち上がると、短い舞いを舞った。
その舞いって!
灯と光は同じ感慨を持つ。アオイとアカネもそれが何かを知っている。
そして現れたのは「空の穴」だった。
一つは舞い舞台下手袖雫の後ろ、もう一つは舞い舞台中央に。
雫は自分の後ろにある「空の穴」に入ると、舞い舞台中央に現れた。
「時の女神に近づかなければ、時に関わる占いは出来ぬ。そのため、一人で二つの『空の穴』を成す必要があった」
既に雫はアリスと共同で「空の穴」を成していた。それを独力で行得るようになったのだった。
(けど、それだけじゃない、のよね)そう灯は思った。
再び雫は短い舞いを舞う。
舞い舞台中央に一つの「空の穴」が現れると、再び雫は短い舞いを舞った。
すると、舞い舞台中央の「空の穴」はその形状を変え、漆黒の円盤となった。
「『空の門』!」
アリスが驚きの声を上げた。
危ない!また誰かタイムリープして来ちゃうじゃない!
かつてアリスが「空の穴」を使ったワープ装置を作ろうとして出来たのが「空の門」。
だがそれはワープ装置ではなく時に穴を開けるものだった。その結果、遠い昔の玄雨神社当主、玄雨朔を招いてしまう、という一大事件が起こったのだ。
「心配ない、アリス。この『空の門』では移動は出来ぬ。これはのぞき窓、のようなものだ」
時ののぞき窓。
「まったく、これを成すのに数十年分の修業を一晩でする事になってしまったぞ。アリス」
そう言うと、雫はアリスをじろりと見た。
やっぱりあたしを怒ってるんじゃない!うう、でも言い出したのはあたしだし、ぅうぅ。
雫は穏やかに微笑むと、アリスに言った。
「必要が発明を生む、では無いが、必要が成果を生む。これを成せたのはアリスのお陰だ」
え、怒ってるんじゃないの。って言うか、今のは感謝の言葉よね!
灯、光、アオイ、アカネの四人はアリスのくるくる変わる表情の変化を呆気にとられて見つめている。
アリスさん、沈着冷静が崩れ落ちてる。
こんなアリスさん、珍しい。
ママ、びっくり百面相になってるよ。
灯、光、アオイは順にこんな感慨を持つ。
アカネは純粋に只ぽかんとするばかり。
こほん。
雫は咳払いをすると、話しを続けた。
「この『時ののぞき窓』を開いた状態で占いをすれば、おそらく、遠い時の線での事もそれなりの確度で占えるだろうと、占った。幾つかのケースを」
ざわり。
雫の髪が持ち上がる。
ふぅーっ、と雫は細く長く息を吐き出すと、怒気を鎮めた。
「一つは竜の星に行く場合、何が起こるか。事が起こる、と出た」
え!
「もう一つは竜の星に行かない場合、何が起こるか」
ここで雫、再び息を細く長く吐く。
「事が起こる、と出た。しかも竜の星に行った場合とほぼ同じ」
アリスは雫が怒った理由が判った。
途方もない努力の結果、得た答えがどちらも同じ、という事。
やり場の無い怒り、だった訳ね。
「何度もやり直したが、占いの結果は同じ」
雫は一度言葉を区切る。唇が薄くなる。
「この事から、竜の星へ行く事自体は危険では無い、と判る」
雫は一度言葉を区切ると、ふう、と息を吐き出した。最後に残った怒気を吐き出すかのように。
「そして同じ事が起こるなら、待つより討って出る方が得るものも大きい。よって許す事にした」
雫は再びアリスを見つめると言った。
「だがアリス、お前が行く事は許さぬ」
雫はまた短い舞いを舞う。それが終わると同時に舞い舞台中央の漆黒の円盤は消えた。
舞い舞台中央から、雫はアリスが居る下手袖に移り置いてある一升徳利取ると、アリスの隣に座った。そして一升徳利を差し出す。
「珍しい業を成す事が出来た。契機をくれた事と、巫術師に戻った事の祝いだ」
以前それを呑もうとして手酷く雫に怒られた事が思い出され、おずおず、という感じで受けとるアリス。
「呑んで、いいの?」
「許す」
じゃ、という感じでアリスは酒を呑んだ。
いわゆる日本酒、という味わいではなく、まるで年代物のブランデーのような芳香と甘味が口の中いっぱいに広がった。
もちろん、それ自体も相応に驚くに値する出来事ではあったのだが、それよりも増して驚くべき事がアリスに起こった。
アリスは徳利を持つ手が、光っている事に気が付いた。
これって。
「そうだ。神脈だ」
雫の声を聞き、アリスは徳利を置くと、両手を目の高さにあげて見つめた。
綺麗。もう二度と見る事は無いと思っていたのに。
何度装置を調整しても、神脈の域までには到達できなかった。
アリスは手の甲、手のひらと手動かして見つめていた。
「アリス。其方が行ったのは、体の外側から気脈を動かす術、だろう。御神酒を呑むと、それに呼応するように内側からも気脈の流れが生じる」
ああ、そうか。
気脈の流れが、強化される。弱った気脈が元の気脈に戻る助けをする。
だから、「薬」なのか。
いざと言う時の薬だ、と雫が怒った理由をアリスは知った。
「それはやる」
雫は立ち上がると、そう言い残し、舞い舞台を去った。
「繰り返すがお前が行く事は許さぬ」と言い残し。
アリスは聞き取っていた。
小さな声で、とても小さな声で、「繰り返すがお前が行く事は許さぬ」と雫がその後に言った言葉を。
お前が居なくなると困る。
そして、その後ろ姿から微かに見える耳朶が、微かに朱に染まっている事を。
アリスは一生徳利を大事そうに抱きかかえると、小さく「ありがとう」と呟いた。
■スーツの調整
数日後、翌日、灯、光、アカネ、アオイの四人はアリスの執務室に飛ぶと、再度、スーツの調整を行った。
灯のスーツは、既に過去のベネットのデータを元に用意しており、アオイのものは、アカネがアオイと双子のためアカネのスーツのデータを元に作成され、既に使っていた光、アカネと同じく調整だけで済む、という手はずだった。
スーツの調整は滞りなく終わった。
一点を除けば。
それは、灯がスーツを起動した時の事、灯の神脈の輝きが他の三人よりも遥に大きかった事。
そのため、気脈をアシストするパラメータを低めに調整し直し、三人と同程度にした事だった。
「アリスママ、神社に戻りまーす!」
最後にアカネが「空の穴」に飛び込み、三人は神社に戻った。
その姿が消えた後、アリスは呟いた。
「メタアリス、灯ちゃんのスーツの初期パラメータ、以前のベネットの時のデータを元にしているはずだから、本来なら、あれ程の数値調整は不要の筈よね?」
『はい、アリス。想定していた調整範囲を大きく逸脱しています』
アリスは右手を顎に添えると、考え込むポーズをとった。
「考えられる事は、消える前の灯ちゃんと戻ってきた灯ちゃんでは、何かが大きく違う、と言う事よね」
『アリス、気脈アシストの調整の際、気脈の流れを再調査しました。その結果、以前とは違う点が見つかりました』
やはり
『気脈の流れる経路に、妙なバイパスのような箇所が見つかりました。ベネットの時の気脈アシストの為の経路情報は精度が低かったので、始めはその誤差、と考えていたのですが』
「違った、という事よね」
『はい、アリス。バイパスのような経路はとても入り組んでいるのですが、そこに気脈が流れると、そうですね、時の女神二十人以上の気脈が流れる、と推論できます』
アリスはぞくり、とした。
そして、それが何を意味するか理解した。
「灯ちゃんは、その体を滅びた時の線の地球から来た二十三人の灯ちゃん達に渡して、光ちゃんの中で眠っていた。そして、二十三人の灯ちゃん達は、その体を灯ちゃんに戻した」
『はい、アリス。おそらく二十三人の灯ちゃん達が灯ちゃんの体に同居している際に、気脈の流れに変化が生じたのだと』
アリスとメタアリスの思考形態は極めて類似し、その会話はまるで独り言を行っているようになっていた。
「とすると、灯ちゃん自身が扱える気脈の量は時の女神一人分だけど、仮にそこに二十三人分の気脈が流れるとしたら」
『はい、アリス。初代玄雨灯と同じ力を使えると推論できます』
「そのアシストモード、念のために用意しておいて。雫の占いで竜の星では何も無い、と判っているけど、念には念を入れておきたいの」
『はい、アリス。あたしもアリスの意見に賛成です。万が一の時、初代玄雨灯が居るとすれば、これほど心強いものはありません』
もしかしたら、雫が灯ちゃんに同行するように言ったのは、ここまで読んでの事だったのかも。
アリスは考え込むポーズを解いた。軽く微笑む。
「まあ、雫の占いから逃れる手は無い以上、あたしはあたしの出来る事を」
ここでアリスは一旦言葉を区切ると、言い直した。
「あたし達のできる限りの事をしましょう。メタアリス」
『はい、アリス。できる限りの事を』
アリスの脳内に響くメタアリスの声音はなんとなく嬉しそうだった。
■出発
「無事戻る、と占いに出てはいるが、決して油断せぬよう。これは厳しく言いつける」
空には南中する満月。
その光を浴びて、舞い舞台の雫はそう言った。その隣にはアリスも居た。
舞い舞台の境内には、灯、アオイ、光、アカネの四人が、手を繋いでいる。そして、雫の言葉を聞くとそろって頷いた。
「では、行って参れ」
雫は開いた扇を頭上に掲げ、緩やかに降り降ろすとそう言った。
「はい、行って参ります。雫さん」
一人アオイのみ「雫師匠」と言うが、それ以外、四人は声音は揃っていた。そして答え終わると、その姿は境内からかき消えた。
アリスは雫の左手を握った。雫も握り返す。
私達には、無事帰るのを待つ事しか出来ぬ。
無事に帰ってきてね、みんな。
空の満月にかかる雲はひとつも無く、その光は玄雨神社を照らしていた。
■竜の星
満天の夜空。そこに四人の姿が現れる。その一人が声を上げた。
「うわぁ」
アオイだった。
まるで宇宙にいるような荘厳で美しい星、星、星。そしてあちこちに広がるオーロラ。
「本当に綺麗だね」
「でしょ」
灯の声に光が答えた。
アカネは一人きょろきょろと空を見回している。
「あ、あれだ!小さい竜のオーロラ!」
アカネは一つのオーロラを指さした。
『照合終了。小さい竜のオーロラとメタアリスも認識したわ。それにしてもアカネちゃん、見ただけで判るなんて流石竜の女神ね』
メタアリスの音声が四人の脳内に響いた。
『念のため、ナビゲーションマーカーを表示するね』
四人の視覚に、薄い緑色、半透明の矢印が現れた。
「さあ行こう!みんな」
アカネはそう言うと、先頭切って飛んで行く。三人もすぐさま後に続く。
四人の影が夜空を横切って行く。
『既に説明済みだけど、念のため今回のミッションの確認。アカネちゃんが会いたがっている小さい竜と会う事。そして、竜がオーロラを作る時に吸い込んでいるものの調査』
メタアリスの音声に、四人は頷く。
飛ぶ内に、四人の視界の矢印が次第に下を向くようになってくる。
「あ、居た!小さい竜だ!」
アカネが声を上げた。
四人は首を体に付けてじっとしているその竜の側の水面に静かに降り立った。
アカネは水面を滑るように移動すると、竜の頭にそっと手を触れた。
竜は目を開けると、アカネを見た。
ゆっくりと首をあげる。その動きに合わせて、アカネも水面から離れる。
アカネは竜の頭に置いた手を一度離すと、その首に抱きついた。
竜も頬ずりするように、アカネの体に顔を優しく押し付ける。
「何か話しをしてるみたい」
光が呟いた。
その声にメタアリスが応えた。
『話しをしているのよ。アカネちゃん、竜の言葉、電磁波の言葉、話しているの。意思疎通できてる。要約すると、またあえて嬉しい、というのを互いに言い合っている』
アカネは竜の首に回した手を離すと、三人の方に向きを変えた。
「少しお話したの。いろいろ。でね。判った事、言うね」
そこでアカネは考え込む。そしえはっとした後、肩を落した。頭を垂れる。そのポーズのまま少しの間の後、顔を上げた。
「言う、というは無理そう。竜の言葉、言葉に映像も混じってて、あたしの語彙じゃ全然言語化できない。残念」
そう言うと、まるでアリスがサーバントリンクと話をする時のように、左手の人さし指と薬指を左のこめかみに当てた。
「メタアリスママ。教えてもらった事そのまま送る。うまく翻訳して」
ざりっ。
一瞬、三人の脳内に小さなノイズが走った。
『驚いたわ。急に上達したみたいね』
■アカネの修業
竜の星に行くのが決まった後、舞い舞台下手袖の奥の部屋にメタアリスのサブユニットが設置されると、アカネの竜の女神としての修業、電磁波の放射の訓練が始まった。
訓練は主にメタアリスが行うが、雫もメタアリスの端末を首につけて立ち会った。
アカネは電磁波の放射、竜と同じ声を出そうとする。が、上手くいかなかった。
もともと人に無い機能のため、きっかけが掴めなかったのだ。
竜の声を出す、と思ったのか、アカネは声無き声を絞り出そうと、真っ赤な顔をして前かがみの姿勢で、肩を怒らせている。
顔だけでなく、髪も紅く染め上げられて行く。
「アカネ、好きな舞いを舞いながらやってみてはどうだろう」
見かねた雫が助け船を出す。
あ、そうか!
という顔をするとアカネは舞扇を開くと、静かに舞い始めた。
アオイがその舞いに加わる。
二人の舞いは左右対称に美しく同期し、まるで中央に鏡でもあるようにさえ思える。
雫の視界に、さざ波のようなものが広がった。
『アカネちゃんが放射した電磁波を可視化しました』
メタアリスの音声が雫の脳内に響いた。
『アカネちゃんが見ているのもこんな感じです』
なるほど、と雫は思った。
『ただ、竜の言葉、とは違う感じです。そうですね、言語未発達の子供が歌っているような感じです』
「メタアリスは、竜の言語で会話できるのだろう?それで話しかけて見てはどうだろう?」
『はい、雫。やってみます』
途端にアカネは頭を押さえると、蹲った。
「アカネ、大丈夫?」
アオイが心配そうにアカネの側に寄る。
少し涙目になりながら、アカネは大丈夫だと言うようにアオイに頷いた。
『ごめんなさい、アカネちゃん。竜の言葉を放射したから、頭痛を起こしちゃったのね』
すまなそうなメタアリスの声音が脳内に響く。
「受信と言語の解析、両方を同時に行うのは相当の負担がかかる、という事のようだな」
『はい、雫。そのようです。困りました』
本当に人間と話しをしているようだ、と雫は思った。
さてどうしたものか。
「暫し待て」
何かを思いついたのか、雫は舞い舞台を去る。そして戻ってきた時には、両手にとても古いテレビを抱えていた。
かなりの大きさなのだが、重さを感じないように持ち運ぶ。
そしてそれを設置する。ブラウン管の前の扉を開け、電源を入れる。
だが、砂嵐が映るだけ。
「もう放送していないアナログ放送のみの受信装置だ。映らないのは道理」
雫はアカネの方へ振り返った。
「アカネ、舞いを舞いながら、このテレビに向かって、竜の声で歌ってごらん」
アカネは頷くと、舞いを舞う。そして歌う竜の声で。
ざざ。
砂嵐が変化した。
アカネはそれを見て、舞いを変える。
砂嵐が少し収まり、モノクロのぼんやりした風景が映る。
『舞い舞台前の境内の様子みたいです』
メタアリスの音声が脳内に響く。
アカネは更に舞いを舞う。
モノクロのぼんやりした風景は、色彩を帯び、はっきりとした風景になった。
メタアリスが言うように、舞い舞台前の境内。
「アカネが見ている風景、というより心象、のようだ」
アカネは舞いを変える。静かな動きに。
すると、テレビには夜空に浮かぶ月が映った。
アカネは更に緩やかな動きになる。
テレビに映し出されたのは、満天の星空と所々に広がるオーロラの情景。
『竜の星です』
メタアリスの音声が響いた。
『驚きました。放射のコントロールは完璧です』
雫はテレビに映し出された竜の星を見ながら言った。
「学習するには、何かを習得するにはフィードバックが重要。もしかすると、デジタル信号よりもアナログ信号の方が習得しやすいのでは、とも思った故」
『なるほど、感嘆しました』
心底感心したようなメタアリスの音声が響いた。
『それにしても、よくこんな古いテレビを保存していましたね』
雫はふっと息を吐き出すと、ぼそりと言った。
「アリスからの贈り物だ」
こほん、と咳払いをすると、雫はアカネの舞いに加わって行った。
テレビには七分咲きの桜の映像が映し出されていた。
■小さい竜
『あたしも電磁波を記録していたけど、聞き損じてる部分がかなりあるのに驚いたわ。ほんとに竜の女神じゃないと聞き取れない事があるのね』
アカネが送った竜の言葉を受信し終わったメタアリスはそう感想を漏らした。
『内容把握。翻訳もほぼ終了』
灯、光、アオイの三人は、知らず知らずの内に身を乗り出すようにアカネの方に前傾していた。
まるでそこにメタアリスが居て、続きを話すのを待つかのように。
『でも、これは地球に戻ってアリスにも一緒に話した方が良いと、メタアリスは考えるけど、どう?』
ああ、という表情が三人に浮かぶ。
「ママ、一番先に知りたいって、きっと思ってる」
「だよね。アリスさんだもの」
「相違ない」
灯が雫の物まねをして応えたのもだから、アカネが吹き出す。それにアオイ、光が続く。
『さて皆さん、ミッションはすべて終わったってコトになるけど』
アカネはメタアリスが自分を見つめているような気がした。
お別れをしなさい、って言われてる気がする。
アカネはそう思った。
そして如何に時の女神といえども、異なる時の線に必要以上干渉してはいけない、という雫の言葉を思い出した。
アカネは静かに動くと、小さい竜の首に抱きついた。
「もしかしたら、また会えるかも知れないけど、もう会えないかも知れない。でも、あなたの事は絶対、忘れない。約束する」
アカネは言葉でそう言うと、頬を竜の顔にすり付けた。
小さい竜が小さい声を出した。
「え?」
アカネが驚きの声を上げた。
「それ本当?その人」
そうアカネが言った時、それは現れた。
■プロローグ・アナザーサイド
久しぶりに目覚めたけれど、特に何も無い筈、という私の考えは間違っている事を知った。
微細なエラー検出で目覚めさせられたのだと思ったのだけど、どうも違うのだと。
起こされた理由は「要調査」というもの。
この管理下の星で、何か予測以外の現象が起こると、管理者である私は睡眠状態から活性化状態に移行させられる。
「要調査」の調査原因の記録は、妙なエネルギー変動。
だけど…。
私の心をかき乱したのは、それよりも、ずっと別の事。
連絡が途絶している事。
正しくは、ベース信号は相変わらず、規則正しく動作しているものの、その上に何の情報も乗っていない事。
通信は維持されているけれど、相手が黙っている状態。
しかもそれが数百年くらい。
知った時、頭が痛くなった。目の前が暗くなった感じさえした。
ため息が出る。
帰る場所を失った、と、途方もない喪失感で足下の構造体が抜けて、下に落ちて行くような気がした。
だが全部気のせい。知った事象の為の錯覚。
私は気を取り直すと、原因調査に全能力を使って思考した。
幾つかの証拠から、一つの推論、仮定を導き出した。
私はベース信号がある事から、帰還先が破壊されたのでは無く、何かの変化が生じたのだと、推論した。
ベーステクノロジーの転移。
電磁波モデルから素粒波モデルへの移行。遠い昔に示された我々の進化の方向性。
そして、要調査の原因であるエネルギー変動が、その素粒波テクノロジーと関連していると、仮説を重ねた。
私は一旦思索を打ち切ると、現地調査を開始した。
エネルギー変動が何であるのか。
私を格納しているユニットを出て、星を探査する。
こうして自分でこの星を探査するのはどれくらいぶりだろう。ひどく懐かしい気がした。
そして知った。
竜の知性が向上し、生物多様性を示す遺伝子係数が上昇している事を。
幸いな事に、竜の電磁波言語は余り変化していない為、過去の記録と照合して、新たな事象の検出は容易だった。
彼らはこう言っていた。
「空から来た女神が、呪いを解いて行った」
女神?
おそらく、人型の何か、という事だろう。興味深い。私のような姿か?と尋ねると、少し違う、と竜は答えた。
他の派遣者ではな無い、という事のようだが、竜は人型の認識解像度が高い訳ではないだろうから、この方面の思索は保留にした。
もう一つの「呪い」。この単語は過去のデータベースに存在しない。
推論の元となっている素粒波技術に関連している何か、と、あたりを付け、演繹を続けた。
一応、自慢では無いが、私は派遣される際の最新モデルで素粒波の実験機能も持っているユニットに乗ってこの星の管理者となった。最新モデルと言われた時は、ちょっと嬉しかった。どうでも良い事だけど。
おそらく、私の権限の届かない範囲で、何かの実験が行われたのだと思われる。私は単なる管理者なのだから。
ユニットにはその記録がある筈。
だけど、私の権限が届くかどうか。
その心配は無用だった。
まったくの公開状態でその記録は保存されていた。
逆にその所為で、私はその記録に気付かなかった。
厳重に保護された中にあるものだと思い込んでいたから。
まさか化石のような全文検索でヒットするなどとは思いもよらなかった。
見つけた時、ため息が出た。
素粒波をベースにした知性の構築は研究段階だったけれど、その実験をこのユニットが行っていた。ああ、このユニットも、か。
確かに、全管理者対象への通達にそういうのがあったと思い出したけれど、それにしても。
少々憤りを感じた。
また、ため息が出る。
置いて行かれた。
この体に涙腺があれば、涙を流した所だと、遠い記憶から想像した。いつの間にか俯いていた。
そして、ふと気がついた。
もしかしたら。
爆発的進化事象。
とすると。
我が母に悪意が無いと胸に落ちたものの、胸の奥が締めつけられる感覚は増加した。
余計悪い。
それに、置いて行かれた事には変わりが無い。
できる事は。
私は空を見上げた。
竜が作るオーロラが相変わらず美しい。
ため息が出る。
そして決めた。
竜が言う、その女神が再び訪れるのを、待とう。
その女神が私の帰還のための道しるべとなる、筈だと私の直感はそう告げていた。
それに、私は待つ事に慣れている。
だが、私はそんなに待つ事は無かった。
■異形との邂逅
四人の前に、音も無く、何の気配の変化も無く、それは姿を現した。
実体がそこにあるような気がしない為、初めメタアリスが視覚野に投影した何かかと四人が思ったほどだった。
すう。
音も無く、空気を切る風も生じさせず、それは四人と小さい竜の周りを一回りすると、元の位置に戻った。
「え?」
アカネが上げた声を聞き、三人がアカネの方を見ると、小さい竜がその何かに顔を向けている。
『竜の言葉で話しているわ』
メタアリスの音声が脳内に響く。
三人は視線を小さい竜から、その異形に移す。
人間に似た形状。身の丈、およそ1.2m。
だが、背に笹の葉のような形の六枚の羽のようなもの。そして頭部には、ミルキークラウンのような六つの突起。
全体は白い。だがところどころ透けているようにも感じられる。
『アカネ、それは危険性が高いと、メタアリスは警告します』
灯、光、アオイの三人は何が起こっているか判らない。
光は気が付いた。
アカネが竜の言語で異形と話をしていると。そしてそれをメタアリスは聞いて、警告したのだと。
「でも、雫さんは竜の星に行っても行かなくても、事は起こる、って。きっと断っても、この子、来ると思うの。地球に」
地球に来る?
これが?
アオイと灯はいつの間にか手を繋いでいた。
「アオイちゃん。ちょっと後ろに隠れてて」
アオイは灯の様子に、まるでこれから戦いでも始めるかのようなその様子に、脅えた。
「大丈夫。みんなはあたしが守る。何が有っても」
アオイは頷くと、灯の後ろに下がった。
「光。光も後ろに」
名を呼ばれ、光は灯を見る。姉の表情からその思いを知ると、アオイのそばに跳ぶ。
す、と灯はアカネの側によって行く。
「アカネちゃん、いざとなったら力づくであれを排除する。遠くに跳ばす。その間に翔んで帰る。いい?」
アカネは急に割り込んできた灯に驚いた。
「灯お姉ちゃん、あの子悪い子じゃないよ。家に帰る手伝いをして欲しいんだって。だから」
どういうこと?
灯は今の正確な状況、そしてアカネが知っている事を深くそして素早く理解する必要があると結論した。メタアリスに命令する。
「モード23」
灯の体に残る二十三人の灯達の名残りとも言える気脈の経路のバイパス、そこにアシストされた霊脈が流れ込む。
灯の体が青白く輝き始めた。
『可視光線レベルでも発光しているのが見える。途方もないレベルの神脈』
驚きを禁じえない、というようなメタアリスの声音が脳内に響く。
灯は素早く扇を振るうと、アカネと灯そして小さい竜を覆うように風の壁を作る。
そして自分の気脈を伸ばすと、アカネの目と耳そして竜の女神としての能力を与えている竜の気脈と結んだ。
目を閉じる。
灯の頭の中に、アカネと異形の会話の内容が流れ込んできた。
短い時間に、膨大な量の情報が入ってくる、そういう感覚を灯は覚えた。
目を開ける。
「それ」に悪意は無い。
灯はそう判断した。扇を振って、風の壁を消す。
風の壁が消えると、「それ」が再び姿を現す。その様子を見てアカネが言う。
「踊ってる」
アカネの言葉の通りだった。
「それ」は六枚の羽を震わせ、体を旋回させ、まるで踊っているように見えた。まるで喜んでいるみたいに。
「連れて行ってあげよう。アカネちゃん」
その踊りを見て、灯はその言葉を無意識に口にしていた。
でもどうやって。…それに。
灯の思考は滞った。
『ちょっと助言しても良いかしら?』
メタアリスの音声が、灯の脳内に響いた。
『雫の占いだと、この竜の星に来ても来なくても起こる事はほぼ同じ、ここから判る事は、この子。ええとひとまずアオイちゃんが呼ぶ呼び方をこの「何か」の呼称にするんだけど、この子は自力で地球に行ける能力がある事になる、と推論できる。としたら、あんまり考えたくない事なんだけど、この子、時の女神と同じくらいの時空移動能力を持ってる』
確かに。
『としたら、連れて行く、というよりは、導く、という方がこの場合適切、なんだと思うのよ』
灯は頷く。
「アカネちゃん、これが視えるか、この子に聞いてみて」
灯は扇を振るうと気脈で一つの円を描く。そしてその内側に接するように小さい円を四つ。
玄雨の家紋だった。
「それ」は手にあたる部分を使い、同じ文様を空間に描くように動かした。
やはり視える、のね。
「じゃ、アカネちゃん、準備が出来たら、あの子に着いてきて、って伝えて。そしたら地球に戻るから。みんな一緒に」
アカネは、灯の「準備が出来たら」という意味が判った。
「ありがとう。灯お姉ちゃん」
アカネは抱きしめている小さい竜に、そっと頬を寄せると言った。
「ありがとう。…さようなら。できればまた会いたいけど、もう会えないかも知れない、だから」
アカネは小さい竜の首から手を放すと、閉じた扇を少し振る。
その扇の先から流れ出るアカネの気脈が、竜の額に染み込んで行った。
「さようなら」
アカネは上昇して、灯の隣に立った。そして灯に頷いた。
いつの間にか、灯の側には光、アオイも立っていた。
四人は手を繋ぐ。
「着いてきて」
アカネがそう言った途端、四人の姿は消えた。
その直後、「それ」の姿も消えた。
誰も居なくなった空中を小さな竜は見つめると一声小さく鳴く。その鳴き声は静寂の中ゆっくりと広がって行く。
見上げる夜空の星はその鳴き声に応えるかのように色鮮やかに煌めいていた。
■異形との邂逅・アナザーサイド
その異変は直に察知できた。素粒波の変動だ。
こんな事、普通はあり得ない。
来たのだ。竜が言った「女神」が。
私は自分の体が震えるのを感じた。
心を落ち着けると、そこに移動した。
……移動という言葉は正確では無い。位置を変える、という方が正しいと思う。
位置を変えると、それらが見えた。
竜の側に1体。他に3体。
良く見ようと、周囲を回った。
同じくらいの大きさで同じような形状をしている。
視野を電磁波から素粒波に切り替えた。
驚く。
こんな事象は初めて見た。
竜の側の一体が話しかけてきた。竜の言葉で。
「あなたは誰?」
そう言った。
「見守るもの」
竜の言葉は解像度が低い。観察者、管理者という意味合いの言葉が無い。だから、そう応えた。
「この竜から聞いた。私たちの事を聞いたと」
そう。その竜からも聞いた。「空から来た女神が、呪いを解いて行った」、と。
だから「聞いた」と答えた。
竜の言葉を流ちょうに語る。けれど、竜の言葉の解像度が低いから、どうしても私の一部がいらいらしているのを感じてしまう。低速のインターフェースでの会話は苦手。
意味を畳む必要がある。
「教えて欲しい」
私は要求を端的に伝える事にした。
「あなたたちが行っている技術を。それを学ぶ方法を」
「なぜ?」
素直な質問。竜の言葉を話す1体は、もしかしたら、考えにくい事だけど、「幼い」のかも知れない。
他の3体の様子を見ても、「同期」している様子は伺えない。
まさかと思ったが、どうやら竜と同じ「生命体」、と判断した。
それは信じがたい事象だった。
私たちが次の進化と予定しているベーステクノロジーの素粒波。それを操る「生命体」。
心の底から、何か泡立つものが湧き上がってくるのを感じる。不可解な感情。
質問に的確に答えようと言葉を整えた。
「帰る為に。自分の家に。母の元に」
そう答えたら、連絡が取れなくなった事を知った時の虚無感が蘇ってきた。
「連れて行ってあげる。業を学ぶ場所に」
その返事を聞いて、一瞬だけど、思考が止まった。
この「生命体」は、躊躇無く、私を受け入れた。
喜びよりも驚嘆という思いを強く感じ、頭部が痺れるような感覚を覚えた。
その時、妙な電磁波を感じた。
言葉、のようだがうまく聞きなれなかった。
その言葉に、竜の側の「生命体」が返事をしているように感じた。
けれどそれは電磁波を伴っているけれど、気体を振動させてもいた。
私は混乱した。
竜の言葉、それは電磁波。その「生命体」も竜と同じ電磁波を操り、それを超えて素粒波に到った存在と思っていたのだけれど、その「生命体」が、とても原始的な「音」を使って意思疎通していると知ったから。
わけが判らない。
そんな気持ちだった。
そこに、もう一体の生命体が竜の側に来た。
そして何か音を発した途端。
見た事も無いほど強烈な素粒波の振動が起こった。
電磁波領域まで震わせるほどの振動。
さらにその後。
シールドを展開した。
素粒波を物質に干渉させ、遮断する技術。
素粒波の基本的なテクノロジーではあるものの、これ程の密度のものは見た事が無い。
感嘆していると、突然それは消えた。
私は歓喜した。
体が喜びに震えた。
この「生命体」からその技術を学べば、必ず帰れると。いいえ、置いて行かれた私が再び母の元へ行けると、そう確信した。
気付くまで少し時間がかかった。自分が踊っているのに。気付いたのは竜の側の「生命体」が「見える?」と聞いてきたから。
こんなこと、初めてだった。
高密度素粒波を振動させている「生命体」を見ると、素粒波を放出して空間に図形を形成していた。
その図形が見えるか、という事のようだった。
見える証拠を示す為に、指先でその図形と同じ形をなぞって見せた。
竜の側の「生命体」が高密度素粒波を振動させている「生命体」の側に来ると、竜の言葉で「着いてきて」と言った。
四体の「生命体」の姿が消えた。
移動したのだ。
私は彼らが居た空間に奇妙なものが、いいえ、ものでは無く事象が残っているのに気が付いた。
扇型をした定存素粒波、それから伸びる線状の定存素粒波。
線状のものは途中で途切れているように感じた。
その意味を理解するのに、少し時間がかかった。
なるほど。
だから、「見えるか」と尋ねたのか。
私は、自分の位置をその線状の定存素粒波を連続的に辿るように設定した。
周りが暗くなった。
線状の定存素粒波のみが検出される。
これはガイドラインだ。
それを伝って位置を変える内、外部にトンネル状の薄い膜状の定存素粒波が有る事に気が付いた。
それを記憶する。
位置を変え続けていると、突然、周りが明るくなった。どこかに出た、と感じた。
その出た位置は、奇妙な場所だった。
■玄雨神社
玄雨神社舞い舞台前の境内に、四人の巫女装束の少女たちが姿を現すと、満月の明るい光がその姿を浮かび上がらせた。
灯は三人に「急いで場所を空けて」と強い語気で言うと、現した場所から後ろに飛んだ。
三人は慌てて、同じように後ろに跳ぶ。
舞い舞台からそれを見ていた雫、怪訝そうな表情を浮かべる。
アリスの握る手に力が篭められるのを感じる。
「大丈夫」
雫は凛とした声でそう言うと、灯達が飛び退いて誰も居なくなった空間を見つめた。
それは突然現れた。
満月の光に照らされて、白い体が闇に対比して尚いっそう白く浮かび上がる。
背には笹状の六枚の羽、頭に六つのミルキークラウンのような突起を持つ、人型の異形。
「事が起こった」
雫は静かに言った。
「いいえ、これから起こるのよ。違う起こってるのよ」
アリスの震えるような声音が、雫の耳に届く。
雫は異形から視線をアリスに移す。
その瞳に、唇を震わせているアリスの顔が映った。
何が起こっている。
ぶん、という音が舞い舞台下手袖の先にある部屋から響いてきた。
雫は素早く扇を振ると、部屋のふすまが開き、中にあるメタアリスのサブユニットが視界に入る。
それが、うなりを上げている。
「メインユニットとサブユニットを切断、急いで」
アリスの声が響いた。
『切断終了。こちらはメインユニットのメタアリスです。サブユニットのメタアリスは独立状態になりました』
六人の脳内に、メタアリスの音声が響いた。
「サブユニットのメタアリス、答えて、何が起こったの」
『……』
ノイズのような音声が、アリスの脳内に響く。
雫は異形に視線を戻した。
「御主がやった事か」
異形に閉じた扇を向けて、射ぬくような鋭い視線で雫は問うた。
「言語認証。音波による言語確認。言語の同一化終了」
サブユニットのエラー報告用のスピーカーからその声が聞こえてきた。
「音声言語用の動作経路形成中。可聴範囲調査」
サブユニットが低いうなり声をあげ始め、それはやがて甲高い音に変わって行った。
アオイとアカネは両耳を塞ぐ。
「可聴範囲確認」
異形は体の向きを雫の方に向けた。
「初めまして。竜の星の管理者です」
流ちょうな日本語が、異形の方から聴こえてきた。
「その装置の中を走査して、内蔵している竜の言葉とあなた達が話している言葉の辞書を見つけ、翻訳しながら話しています」
異形は手をサブユニットに向けていた。
『アリス、サブユニットのメタアリスです。意識を取り戻しました。一時全処理能力が喪失しましたが、今はほとんどが元に戻りました。その竜の星の管理者と名乗る何かの翻訳を手伝っています』
やはり。
アリスは問おうと、口を開く。だが、それを雫が左手を上げて止める。
「当神社へようこそお越しくださいました。私が玄雨神社当主、玄雨雫に御座います」
アリスは一度口を閉じると、そうだったわね、と思いを飲み込んだ。
まずは初対面。だから初めは。
「私はアリス・ゴールドスミス。そうね、この星の管理者です」
雫はおや?という表情を少しだけ浮かべ極僅か視軸を動かしアリスを視界にいれたが、直に浮かんだ表情を納め視線を異形に戻す。
『何かオカシイ?』
『別段何も。ただアリスが管理者、というのを初めて聞いたから、少しだけ』
『何よ』
『面白かった』
リンクの声のひそひそ話を聞いて、他の女神達の緊張が少し解ける。
「当神社の巫女、玄雨灯」
灯が名乗ると、「同じく、玄雨光」「同じくアオイ・ゴールドスミス」「アカネ・ゴールドスミスです」と続いた。
「貴方は竜の言葉が分かるのですね。アカネ・ゴールドスミス」
「はい。竜の星の…管理者…さん」
アカネが言いよどむ。
「其方に伺いたい。名は何と申されるか?管理者は役名。名を伺いたい」
極僅か、静寂が玄雨神社を包んだ。
「私には『名』がありません。固体認証名の必要がない為です。まだこの言語に慣れていないため、上手く説明できません」
困ったような声音が異形から響いた。
『代わりに説明しても良くて?』
サブユニットのメタアリスの音声が響いた。
「お願いします」と異形が答える。
『この「管理者」さんは生き物では無くて、そうね、私と同じ人工知能のようなもの、なの。つまり、竜の星用の管理プロセス、というのが比較的近い表現になるかな。プロセスだから固体名称は無くて、管理番号もしくは固有IDみたいなものは有るみたいだけど、とても音声化できるものじゃないの』
静かな驚きが舞い舞台と境内に広がって行った。
『それと、この「管理者」さんは、メインプロセスとの通信が途絶していて、とても困っているのよ。う〜んと…』
ぶん、という音がサブユニットから聴こえてくる。
『あれがあんなにブン回るって、そうとうな過負荷よ。何演算してるのかしら』
アリスのリンクの声が響く。
やがてサブユニットからの音が小さくなった。それに呼応するように「ありがとう」という声が異形から響いた。
異形は続けて言う。
「玄雨雫。私に名と業を与えて欲しいのです」
■玄雨六
「名を付けて欲しいと言う申し出、承知した。暫しお待ちを」
雫は舞い舞台に正座すると、扇を開き床に置くと柏手を打つ。
扇は自ら起き上がると、くるくると回る。
そしてぱたり、と倒れた。
雫は倒れた扇を仕舞うと、立ち上がり異形の方を向く。
「名は玄雨六、では如何か?」
異形が少し輝いたように見えた。
「ありがとうございます。玄雨の姓を頂けると言う事は、弟子にしてくださるのですね」
『判りづらいと思うけど、六はとっても喜んでるわ』
メタアリスがフォローを入れた。
異形が首をかしげるような動作をした。
『ええ。外部インターフェースを変更できるなら、そうした方が良いとあたしは思うわよ。その姿は判りにくい』
竜の星の管理者、玄雨六の白い体が空間に融けるように、揺らいだ。
『今、外部形状を変化させてるの。あの体はナノマシンみたいなもので出来ていて、コアユニットの動作補助を目的にしてるの。コアユニットと言っても、塊じゃなくて、固定化された電磁場、みたいなものらしいけど』
メタアリスがそう説明している内に、六の体はその形を変え、白い巫女装束の少女の姿になった。背に六枚の羽のような短い外套を付けている。
その背格好は、灯に良く似ていた。頭頂部の髪が六つ房を作り軽く持ち上がっている。
肌の色も髪も白い。その瞳は漆黒だった。
『ねえ六。その背の羽みたいなのと、頭のアホ毛はなんとかならないの?』
六は小首をかしげると、困ったような表情を浮かべた。
「頭部のは通信アンテナとして機能する為の最低サイズ。背中のはそれの補助アンテナ。パラボラみたいなもの。だから形状変更は仕様上不可能なため、メタアリスの提案は却下します」
『あ、そう。じゃなんで灯ちゃんと同じ感じなの?』
「玄雨灯が竜の星で、素粒波を増幅させたのを見て、それに歓喜した記念です」
少し澄ました感じで六は言った。
「さて六」
六はその声を聴くと、舞い舞台を見た。
「幾つか答えて欲しい事があるが、まずは、何故ここに来た」
雫が問うた。
六は小首をかしげると、まるでそこに蝿でも居るかのように小さく首を振った。
「失礼致しました。少々メタアリスが余計な事を言うもので」
『解説してあげただけじゃないの』
異星のAIと地球のAIが妙なコントやってる。
そんな感慨を光は覚えた。さらりと左右を見回すと、どうやらそう思っているのは自分だけではなさそうだ、と判った。巫女装束の少女たちの肩は、笑いをこらえているかのように細かく震えていた。
「メタアリスがお話しましたように、私はメインプロセスとの通信が途絶してとても困っています。どうやら、メインプロセスはベースモデルを電磁波から素粒波に切り替えたようです。おそらく私がスリープしている最中にその変更が非可逆的かつ偶発的に発生し、私は取り残された、という状況に置かれました」
そこまで喋ると、六は虚空を睨むような表情を浮かべた。
「判りにくい?何故?」
『補足します。ええと、雫も聞きたくてウズウズしてるのが判ってるし、他の皆もそれが判らなくて言ってる意味が掴めてないと思うし、アリスは面白がって笑いをこらえるに必死だし、そういう訳で、あたしが補足します』
もう我慢できない、あたし。
舞い舞台からあまり上品とは言えない笑い声が響いてきた。
「アリス、失礼だぞ!」
舞扇一閃。アリスの頭部を雫が叩いた。
アリスの笑いが止まる。頭を押さえる。
「ゔ〜、痛いじゃないの雫ぅ」
「話しがこんがらがるし、面倒になる。ここは黙って人の話を聞けアリス」
六がぽかんとした表情を浮かべてその様子を見ている。
「玄雨雫が地球の管理者の頭部を殴打した」
そう呟くと、また、虚空を見る。
「ああ、了解しました。なるほど」
虚空にそう話しかけた後、六は雫の方を向いて言った。
「玄雨雫は地球の管理者のお目付け役、という役割なのですね」
ぷっと灯が吹き出した。
「何がおかしいのよ!灯ちゃん」
アリスが怒っている。
「だって」とその先を言いそうになるが、雫の視線に気付き、灯は口を閉じた。
「メタアリス、補足を頼む」
雫はそう言うと、アリスを睨んだ。
『はい雫』
雫に睨まれ、ここは黙っている方が良いと、流石のアリスも怒りを取りあえず脇に置いた。
『先ほどから六が言っている「素粒波」という単語ですが、主に霊脈の事を示しています』
がたり。
舞い舞台の上の雫が一歩踏み出していた。
何だと。…そうか。成程。
雫は静かに元の位置に足を戻した。
「霊脈?」
今度は六が尋ねた。
「メタアリスの言語データベースに似たような気脈というものが有るけれども、それとの識別不能だった為、時間因子の最小単位を素粒子になぞらえてそう呼んだのだけれど」
『その説明は一番の巫術師にお願いするのが筋だと、メタアリスは提案します』
雫は頷くと、自分の気脈を扇の先に伸ばし、線にした。
「これが気脈」
六はそれを目で追う。
視えるのか。
灯が頷くのを雫は見る。
「そしてこれが霊脈」
雫が扇を広げ、水平にして上にかざすと、地面から蛍の光のようなものがゆらゆらと立ち上った。
「視やすくするため、粒のようにまとめている」
扇を横に振る。
「元は此のような状態」
蛍は細かい粒になって消えて行くが、粒が揺らめいている様が視える。
と、その中に、両手を広げ、宙に浮き、踊るようにくるくると回る六の姿。
これだ、これだ、これだ!
回転が止みゆっくりと着地すると六は雫の方を向き、頭を下げた。
「この霊脈の扱い方をお教え頂きたいのです」
そうすれば、と六は頭を上げる。
「私もメインプロセスと同じベースモデルにアップデートできると思っています。そうなれば」
六は月を見上げる。
「メインプロセスと同期して、元の所に帰る事ができるのです」
その声音は、とても寂しそうだった。
アオイは思った。
ああこの子、独りぼっちだったんだ。
アカネは思った。
家に帰りたいって、そういうコトだったんだね。
光は思った。
お姉ちゃんが戻ってくる前のあたしみたい。
そして、灯は思った。
まるで二十三人の灯達みたい。
肩が震え、その瞳に涙が溢れるのを感じた。
声を上げて泣きそうになるのを歯を食いしばって堪える。
微かに嗚咽が漏れそうになる。が、涙を飲み込み姿勢を正した。