88、 立て!
場外に出たコタローは、 床に尻もちをついたまま、 左足の甲をグッと両手で押さえている。
面で隠れていて表情が見えないけれど、 きっとその顔は苦痛で歪んでいるのだろう。
「今のは相手の反則でしょ? 」
「違うよ京ちゃん、 今のは場外に出たコタローの反則」
「えっ、 嘘! 」
「竹刀で押し出すのは認められてるから。 あそこでコタローが踏ん張れなかったんだから仕方ないよ」
私たちの会話を聞いていた宗次郎先生が、 私の説明を捕捉するように言う。
「場外に出る、 則ち敵前逃亡、 戦線離脱ということだな。 虎太朗の場合は本当に戦線離脱になるかもしれないが…… 」
「えっ? 」
「今のでコタローの反則2回、 恩田選手と同点となった。 これから延長戦だが、 あの様子じゃ左足はもう限界だ。 これ以上戦うのは無理だろう」
「そんな…… 」
コタローを見守りながら淡々と語る宗次郎先生の横顔を見ていたら、 私はなんだか泣きたい気分になってきた。
ーー コタロー、 悔しいよね……。
あんなに練習を頑張ってきたのに…… 絶対に勝つって意気込んでいたのに……。
世界一になるって…… 世界一の男になるって言ってたのに……。
そう思ったら、 私の胸に熱いものが込み上げてきた。
「コタロー! 立って! 」
考えるよりも先に声が出ていた。
急に立ち上がって大声で叫び出した私を、 両側から宗次郎先生と京ちゃんのビックリ顔が見つめているのを感じる。
いや、 宗次郎先生と京ちゃんだけじゃない。
会場中の注目のど真ん中に、 今、 私は立っているんだ。
うん、 みんなビックリだよね。
私だって、 自分で自分自身の行動に驚いてるよ。
目立つことが大嫌いで、 深く考えるのもメンドクサイ私が、 千人以上もいるこの会場で、 必死で大声を張り上げて注目を浴びてるんだもん。
だけど、 大好きな彼氏の一世一代の大ピンチなんだよ?!
今この時に勇気を出さずに、 一体いつ出すんだっちゅーの!
「コタロー、 立って戦って! 」
傷ついて限界をとっくに超えてるコタローにこんなことを言うなんて、 我ながら酷いと思う。
こんなの彼女失格なのかも知れない。
だけど…… だけどね、 たぶんコタローは、 私に『これ以上無理しないで』とか、『もう十分頑張ったよ』なんて言葉は望んじゃいない。
コタローは今、 きっと私にこう言って欲しいんだ。
「コタロー、 まだ試合は終わってないよ! コタローはまだ頑張れる! 勇往邁進! 」
私はコタローが座右の銘にしている言葉、 塾で何度も目にしてきた言葉を口にした。
「そうだ、 コタロー、 勇往邁進だ! 頑張れ! 」
私に続いて右隣の席からも大きな声が聞こえてきた。
ーー 宗次郎先生……。
「コタロー、 頑張れ! 」
ーー 京ちゃんも……。
「そうだ、 頑張れ! 」
「立ち上げれ! 」
「負けるな! 」
「諦めるんじゃないぞ! 」
私たちの声に釣られるように、 会場のあちこちから次々と応援の声が飛び始め、 次第に会場中が大声援に包まれた。
私も負けじと声を張り上げる。
「コタロー、 これからカッコイイとこ見せてくれるんでしょ! 私はちゃんと最後まで見てるよ! 」
すると、 コタローが床に手をつき、 ゆっくりと腰を浮かし始めた。
声援が低いザワめきに代わり、 会場の全員が固唾をのんで見守る。
コタローが2本の足でしっかりと立ち上がると、 自然に拍手が起こり、 会場中がわっと沸きかえる。
コタローは腰に手を当てて首をぐるりと回すと、 一直線にこちらを見上げた。
私には分かる。 今コタローは、 きっと私を見ている。 あの視線の先にいるのは…… 彼女になった私なんだ。
そして面の奥の瞳は、 三日月型にニッコリ微笑んでいる…… ような気がした。
コタローがコートへと戻ってすぐに、「タイム! 」と黄色い旗が上がった。
時間切れ。 これからいよいよ延長戦に突入だ。
ーー コタロー、 頑張れ!
コートにすっくと立って竹刀を構えたその姿は、 誰よりも美しく凛々しい、現代の侍そのものだった。