87、 反則
私が2階の観覧席に戻って下を覗き込むと、 ちょうどコタローがコート際で正座して、 面をつけ始めたところだった。
「コタローはどうだった? 」
心配して聞いてきた京ちゃんに、 私は首を横に振って渋い顔をしてみせる。
「紫色に腫れてきてた。 あれは相当痛いと思う」
「病院に行かなくていいの? 」
「私もそう言ったんだけど、 コタローが試合に出るって…… 」
「まあ、 アイツの性格ならそう言うだろうな」
「宗次郎先生、 だから私も説得するのをやめて、『頑張れ』って、『見てるから』って言ってきました」
「ああ、 それでいい。 ここで試合を諦めさせれば怪我の治りは早いだろうが、 後悔は一生残ってしまうだろうからな」
「…… はい」
そう、 これはコタローの試合なんだ。
コタローがやると決めた以上、 私たちに出来るのは、 精一杯応援することだけ……。
コタローの背中に白い襷、 相手方に赤い襷がつけられると、 名前が呼ばれてコートサイドに立った。
お辞儀をしてから白いラインで竹刀を構え、 しゃがんだところで審判の『始め!』の合図。
ーー コタロー、 頑張れ!
胸の前で指を組んで、 コタローの無事と勝利を祈る。
それは開始数秒後の出来事だった。
お互いに立ち上がって竹刀を構えたと思ったら、 コタローがダンッ! と床を蹴って、 正面から綺麗な跳躍を見せた。
次の瞬間にはパシッ! と力強い音が場内に響き、 3名の審判全員が白い旗を上げる。
「面ありっ! 」
わあっ!と会場が湧き上がり、 大きな拍手が起こる。
「コタロー凄い! 」
私が拍手をしながら隣を見ると、 宗次郎先生が満足げに、「見事な先制攻撃だな」と頷いている。
「足の痛みが酷くなって動けなくなる前に、 早めに決着をつけたいと思っているんだろうな。 『攻撃は最大の防御』だ。 これで相手も余裕が無くなった」
「このまま3分過ぎるか、 コタローがもう1本取れば勝ちなんですよね? 」
「それはそうだが、 そう思うようには行かないかもな…… 」
「えっ? 」
宗次郎先生がコタローをじっと見守りながら腕を組む。
「花名ちゃんも団体戦のときを覚えているだろう? 追い詰められた相手が捨て身で反撃に出るときほど危険なことはないんだよ。 それに…… ほら、 虎太朗を見てごらん。 さっき思いっきり踏み込んだことで、 左足の痛みが酷くなっているはずだ」
ーー あっ……。
コタローは相手と竹刀を交えて鍔競り合いしているけれど、 右足に重心をかけて、 左足は不自然にズルズルと引きずっている。
「あれじゃあ受けるのが精一杯で、 あいつの得意な『攻めの剣道』は出来んだろうな」
「でも、 あと少し頑張れば…… 」
そう言っている間にパシッ!と音がして、 相手の恩田選手の正面からの打ち込みをコタローが竹刀で受け止めていた。
そこからまた鍔迫り合いになり、 お互いがゆっくり離れて距離を取り…… と思った瞬間、 恩田選手が退くと見せかけて、 コタローの竹刀をバシッ!と叩き落とした。
ーー あっ!
「反則1回! 」
審判の声が響く。
「ねえ、 竹刀を落としたら反則になっちゃうの? 」
京ちゃんの問いに、 宗次郎先生が頷く。
「反則行為はいろいろあるけれど、 試合中に起こりやすいのは、 竹刀落としと場外だな。 今の恩田選手のように、 お互いに間を取ろうと退がっている最中に打ち込んでくるのは美しい戦い方とは言えないが ……それだけ相手も必死なんだろう」
「そんな…… 」
京ちゃんが不安げな顔をする。
「それとね、 京ちゃん。 剣道では2回反則をすると、 相手に1本が与えられるの。 コタローは今、 1回反則を取られたでしょ? あと1回反則をしたら、 相手の恩田選手の1本になって、 コタローと同点になる」
「えっ?! ヤバい! 早く3分経っちゃえばいいのに」
そうだ。 3分過ぎればコタローの勝ち。
あと残り1分くらいだろうか…… どうかそれまで、 コタローが踏ん張ってくれますように!
試合は、 どうにかして1本を取りたい恩田選手の攻撃が激しくなってきて、 左足が不自由なコタローは押され気味になっていた。
やはり痛みが強くなってきているんだろう。
そんな中、 コタローが相手の攻撃をクルリと躱して引き面を仕掛け、 トトッと後ろに下がった時に、 グラリとバランスを崩した。
そこに恩田選手が力任せに勢いよく竹刀で押してきて、 左足で踏ん張りきれなかったコタローが、 場外へ押し出され……。
「コタロー! 」
コタローが勢いよく床に転がった。
これで反則2回となり、 相手の1本。
試合終了間際になって、 とうとう同点に追いつかれてしまったのだった。