28、 もうキスなんて出来ないよ
「花名、 虎太郎くんが来てくれたわよ〜! 」
階下から母親の声。
「いないって言って! 」
そう言ったと同時にドアの外からコンコンとノックの音。
そうだった……。
家族ぐるみで付き合いが長いことの弊害。
親がストッパーにならない。 出入り自由。 居留守が使えない。
「ハナ、 入るぞ」
私の返事を待たずにガチャッとレバーハンドルが下がり、 ドアの隙間からコタローが顔を覗かせた。
「私、 入っていいって言ってないよ」
「…… 入ってもいい? 」
「…………。」
「…… お部屋に入ってもよろしいでしょうか? お嬢様」
「………… どうぞ、 入れば」
その言葉にニカッと顔を綻ばせて、 ポロシャツとジーンズ姿のコタローが入ってきた。
なんだ、 道着じゃないじゃん。
当たり前か、 あの格好で外をウロウロはしないか。
時刻は午後4時過ぎ。
私は午後からの試合を見ずに帰って来てしまったけれど、 コタローは試合が終わってから家で着替えてすぐにここに来たんだろう。
ベッドの上でヘッドボードにもたれている私に「よっ! 」と右手を軽く上げて、 コタローはベッドに浅く腰を下ろした。
「…………。 」
気まずい沈黙。
いつもみたいに何か喋れよ、 コノヤロー。
って、 いつもは何をどんな風に喋ってた?
私はコタローといる時、 どんな顔してた?
私は今…… 普通の顔が出来ているのか?
「ほら、 コレやるよ」
私に背を向けたまま、 ジーンズの右ポケットから取り出してグイッと差し出したのは、 いつものチョコの『きなこもち 』味。
「…… 何よ、 コレ」
「今日のぶん。 お前が選ばなかったから、 適当に持ってきた。 これならお前が好きなやつだからハズすことないだろ」
ーー 大好きだよ、『きなこもち 』味。 大正解だよ、 コノヤロー。
だけどひねくれ者の私は簡単には手を出せない。
一体何と闘っているんだか……。
「ほら、 早く受け取れよ」
「…………。 」
「お前なあ! 」
コタローがガバッと振り返り、 ベッドに両手をついてにじり寄ってきた。
至近距離からジッと見つめられると流石に無視もできない。
「なっ…… 何よ、 なんか文句ある? 」
「文句ありありだわっ! お前さ〜、 メール無視すんなよな。 画面に俺の送った文章ばっか並んでるの見たら切なくて泣けたわ」
確かに……。
左側の吹き出しばかりが10行近くも並んでたもんね。 私なら3行目くらいで諦めるけど、 コイツ辛抱強いよね。
「ハハッ、 ストーカーみたいだったよね」
「そうそう、 俺はハナのストーカー歴13年…… って、 ストーカーちゃうわっ! 」
ノリツッコミの勢いで額に軽くチョップを入れられ、 そこでようやく2人で笑い合うことが出来た。
良かった…… 私、 普通に出来てる。
「ほら…… お前コレ好きだろ? あ〜ん 」
「あ〜〜…… んっ!」
目の前で口を大きく開けたコタローに釣られて口を開けたら、 そこにチョコレートが飛び込んできた。
口に放り込まれたそれは、 きなこ味のほんのりした甘さがいい塩梅で、 いろいろ考え過ぎて疲れきっていた私の脳みそと心を瞬時に癒してくれた。
数ある中からこれをチョイスしてきたあたり、 さすが付き合いが長いだけあると感心してしまう。
それが嬉しい反面、 コタローに何もしてあげられず、 それどころか怪我をさせて足を引っ張ってる自分が情けなくて、 焦れったくて…… 。
「コタロー、 ごめんね」
「えっ、 何が? 」
「足…… 痛いよね」
いつのまにか私の隣で同じようにヘッドボードに背を預けて座っているコタローの右足には、 真新しいテープが巻かれている。
知ってる、 色葉先輩が巻いてくれたんだよね。
「…… ああ、 もう全然平気。 ただ、 これ以上足首に負担かけないよう念のためにね」
ーー 嘘ばっかり。
あんなに痛がってたじゃん。
負担かかりまくりだったじゃん。
無理しまくって…… 試合に負けちゃったじゃん。
「コタロー…… 」
「んっ? 」
「…… お疲れ様でした」
「んっ?…… ああ…… 負けちった」
「癒してよ」と私の肩にコツンと預けられたその頭をそっと撫でながら、 私は気付いてしまった。
自分の胸に湧き上がってきたこの感情の名前。
ーー これ…… これってさ、 もう……。
慣れ親しんだ柔らかい髪に触れながら、 そっとこめかみの辺りに口づけを落としたら、 コタローの肩がピクッと跳ねて、 顔がこちらを向いた。
「ハナ、 なに? …… 今の」
「…… 今日の対価」
「ふ〜ん…… もう口にはしてくんないんだ? 」
「うん…… もう口にはしない」
しないよ、 口には。
コタロー、 もう私、 唇にキスなんて出来ないよ……。
「そっか…… 残念」
そう言ったきり黙り込んだコタローが、 本当に残念だと思っているのかどうか、 その表情からは全く読み取ることが出来なかった。
私は自分の中に芽生えたばかりの泣きたいような逃げ出したいような新しい感情を持て余して、 ただひたすらコタローの頭を撫で続けていた。