奴隷の檻
「ひぐぅ……っぐす……ひっぐ……」
耳をさするような音が僕を現実へと引き上げる。僕は視界を広げ、未だに重い体を起こした。
今日も壁を隔てた隣の檻で、女の子のすすり泣く声が聞こえる。僕は膝を抱えて、その壁に寄りかかることしか出来なかった。
僕たち奴隷にはこの現状をどうにかする力なんてない。戦争で敵国に侵略され、無理矢理連れてこられ、訳の分からない場所で重労働の日々だ。心身疲れ果てた僕は完全に衰弱し、屈服しきっていた。
檻の中にいる一奴隷が彼女にしてやれることなど何も無い。そう何も無いのだ。精々、互いに顔を合わせることがなく、互いの存在を認識することなく、残り少ない余生を奴隷として暮らすことだけである。
ひやりと冷たい壁を通して背中が震える。壁は容赦なく体の芯から針を刺す。もう慣れたと思っていた環境が、僕を虚無感の底へと暴力的に溺れさせた。自然と膝を抱える腕に力が籠る。
「おい奴隷共、時間だ」
あぁ、また今日が始まる。
「三日ぶりのご飯は美味しいね」
ある日、隣の檻で女の子はそう呟いた。しかし、その言葉は虚空の彼方へと消えていく。そもそも、誰に送った言葉なのかすらわかったものでは無い。
それにしても、残飯とすら呼べない物体を前にしてそう言っているのだとすれば、彼女の舌は正常ではないらしい。
だが、それを口にしてなんとも思わなくなった僕も僕である。『奴隷である』という日々慣れたのだろう。そろそろ人としての機能を果たさなくなってきた。寝てるのか起きてるのか、空腹なのかそうでないのか、もはや生きているのかどうかすらも分からなくなってきている。
それに比べれば彼女は凄い。まだ、美味い不味いの感覚があるのだ。生きているという証明を持っているのだ。それは彼女の心がまだ折れていないことを示唆しているのだと僕は思う。人権すらも否定され続ける日々にも関わらず、自我を保つことの出来る彼女には何かあるに違いない。もしかしたら、最近泣かなくなったことにも何か関係があるのかもしれない。
「そうか? 俺には飯の味はよく分からんな」
そんな小さな興味が、空っぽの僕から少し人間味のあることを生み出した。
「ほら、空腹は最高のスパイスって言うじゃない。そんな感じなんだよー」
「そんなもんか?」
「そんなもの、そんなもの」
リズミカルに弾んだ声が薄汚い箱の中を反響する。心からの声なのか、空元気から来たものなのか、はたまた僕の想像を遥かに超えた境地なのか、彼女の真意は分からない。しかし、きっと今の彼女は奴隷ではなく、普通の女の子だっただろう。そんな気がした。同時にちょっぴり羨ましいと思った。
「おい奴隷共、仕事だ。」
そんな彼女との会話で、今日、奴隷である事がもどかしくなった。
「君はここを出たら何したい?」
朦朧とした意識の中、なんの前触れもなく彼女は僕に尋ねた。しかも、今後ありえないようなことである。幻想にも程がある。以前なら、それで蹴っ飛ばしていただろう。だが、中途半端に人としての自我を取り戻してしまったせいで、僕の精神が限界を迎えてしまっていた。だから、その口は意外にも自然と動いた。
「君に会いたい」
特に深い意味などない。ただ、何となくその時はそうしたいと思った。
壁の向こうにいる彼女と、会って、話して、普通の暮らしをしたい。かつては当たり前で、簡単な事だけども、今の僕には出来るはずのないことだ。その否定が、一層そうしたいと強く僕の心を縛り付ける。
「そっか」
彼女の音色が僅かに沈む。空気に溶ける声だ。僕は彼女の声を噛み締めながら次の言葉を待つ。少し、奴隷として生きる前の高揚感が僕を支配した。
「嬉しい……けど」
──怖い
そう小さな声で、けれどハッキリと彼女は拒絶した。すとん、と心の中で何かが落ちる。その感覚と共に僕は意識を手放した。
この時、彼女の言葉の意味は誰も知らない。
奴隷解放宣言。
突然のクーデターが起こった翌日、新国王は高らかに告げた。何年経ったか分からないが、とうとう僕らは自由の身となった。その実感は薄く、あまりにもあっさりしたものだが、そんなことはどうでもよかった。奴隷として暮らした人々が、高らかに喜びを表現し合う中で、僕は辺りを見回した。
彼女は何処だろう。
蹌踉としながらも人混みを掻き分けて彼女を探す。彼女の顔など分からない。だけど、見つけなきゃ、そんな使命感が僕を突き動かした。
何となく、彼女を見つけられると思った。根拠などない。ただの直感だ。
「ねぇ、『君』」
ふと包み込むような暖かく、どこか懐かしい声が僕の横を通り過ぎた。僕は不意に足を止める。間違いない彼女だ。僕はその声の主へと目を向けた。
「え……君が……」
「うん、驚いちゃった? そうだよね。怖い……よね」
彼女の姿を見て、言葉を失う他ない。
少女の右半分の顔から右腕にかけて皮膚はただれ、黒ずんだ火傷の後があちこちについている。不自然に揺れている右腕を見る限り、もう随分前から使い物にならなくなってしまったのだろう。また、ぼろぼろの服から覗いて見える肌には線上に赤黒い痕が残っている。足にも同様の痕が無数に残っていた。肌色の部分がむしろ少ない方だ。その姿はまさに異様であった。
僕のエゴイズムは彼女の姿を作り上げていた。きっと彼女は凛々しく、村娘のように可憐な少女なのだろうと思い込んでしまっていた。いや、彼女は実際綺麗だった。だが、彼女の人生は僕達他の奴隷のように狂わされたのだ。
一体、彼女はどれだけ酷い目にあったのだろう。一体、どれだけ涙を流したのだろう。想像するだけで背筋が凍りつく。彼女のすすり泣く声が今になって頭の中で反芻する。
僕らは肉体労働という使い道があったが、彼女にはそれがなかった。だから彼女は──
自らの考えを振り払うように、僕は彼女を抱きしめた。互いの呼吸と鼓動が近くに感じる。檻の中にはなかった温もりを肌で感じて、どこかほっとした。彼女も少しずつ打ち解けていき、目尻に涙を浮かべてそっと僕の腰に手を添えた。
あの時、何も出来なかった悔しさと、彼女への愛しさが複雑に絡み合う。そのほろ苦い味が僕の言葉を紡いだ。
「一緒に暮らそう」
彼女は僕の方へ頭を埋めるようにして頷いた。