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生きる意味:生の定義

今回で最後となる。

今回はタイトル通り、生の定義をするわけだが、

この思想においては、自我についての仮説と、いくつかの例を軸に考察し、出した「生の定義」を発表したいと思う。


まず、いくつかの思想を例としてあげようと思う。

1つ目として、ファンタジーの代表格である魔法において、

「転移の魔法」と「蘇生魔法」を例に考えてみよう。


「転移の魔法」にはこういった仮説がある。


地点Aから、地点Bに転移するとして、

その魔法で実際に行われていることを、順を追って正確に、説明した場合、

まず、地点Aの場所でその転移の対象を分解し、その構造を記憶し、地点Bでその対象の体を再構築する。

つまり、転移した対象は、全く同じ体、同じ記憶をした、別人であるという説である。


「蘇生魔法」についても同じことをいうことができ、それが別人であるという説である、


2つ目は、現実における話である。

先ほどのように、何もファンタジーの中での話だけでなく、

これは、現実における、「クローン」においても同じようなことが言えるだろう。

少し違うかもしれないが、「クローン」で人間と全く同じ体、機能、そして知能を持った、存在を作ったとする。

そして、それを人間に似た新生物として、利用、処分したとする。

しかしそれを人間として観測する人物が存在し、

その生物が人間だと認められない限り、

その行為は、家畜と処分するのと同じで、

非人道的な行為でも、

人殺しでもない。


それでは、この2つの例の妥協点を見つけようと思う。

この問題での妥協点において利用する仮説には、ある考え方を採用し、立てていこうと思う。

その考え方とは、有名な「シュレディンガーの猫」においての考え方である。

シュレディンガーの猫は、箱に入れた猫が生きているかどうか、その未来がわからない、ということが有名であるが、

シュレディンガーの猫の実験において一番大切なことは「箱」に猫が入っていることである。

これはすなわち、猫の生存を観測するものがいない、ということを示しており、

全ての事象は観測者の存在があることによって初めて、その事象が確定するのだということだ。

これはつまり、観測者の不在は、事象が発生していないのと同じになるということも同時に示している。


2つの例に戻るが、もし、転移の対象となる生物や、蘇生された生物が、別人になっている可能性を考えない限り、その元となった生物の死は、誰にも観測されていなかったこととなり。その死は、なかったことになるだろう。

クローンの例においても、思い込みであったとしてもその存在を人間として観測する人物がいない時点で、その生物は人間として定義されることはない。


まあ、どちらの例にせよ私たちの生活とはかけ離れていて現実味に欠ける。

そこで、私自ら、日常に最も近い3つ目の仮説を、立てることにしよう。


人間はいつでも細胞を新しいものに取り替えているという、

まあ人間の寿命が尽きるまでずっと生き続ける細胞なんてあっても怖いだろう。

つまり、赤ん坊の頃と老後では同じ細胞は1つもないのだ、

そして、これはある意味では同じ人物ではないと、言ってしまうことも可能なのではないだろうか。

そう言って仕舞えば、遠いと思っていた先程までの例への疑問も近く、そして大きく見えてくることだろう。

だが、それ以上考えることはできない。

遺伝子を考えれば、その遺伝子から存在の一致を確定することもできるかもしれないし、

その仮設自体が嘘かもしれない。

だがだからといって、「クローン」のことも含めて考えると、一致の確定をすることはできないかもしれない。

だから、ここらが妥協点なのだろう。

3つ目の仮説は身近なものになったわけではあるが、

その事象を確定させる観測者はいないのだから、そんな事象は確定しないことになる。


この思想は、確定しないのだから、そこまで重要でもなければ革新的でもないだろう。

だが、これは紛れもなく1つの見方であり、完全な否定はできない1つの思想なのだ。


ここまで生についての見方を3回にわたり示してみたわけだが、

最初に述べたように、この文章には、共感も、感動も、感心も必要ない。

私はただあまり考えられていない、新しい見方を提示しただけだ。

もしかすると何処かに似た思想もあるのかもしれない。

これは私の自己満足のために書いた文章だ。

だが、この文章の見方に関心を持ってくれる人がいれば、

ここで、その見方を知ることができた人がいたならば、

おそらく私は、その人のためにも、

この文章を書いたのだろう。

これで終わりになります。

読んでくださった皆さんありがとうございました。

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