生きる意味:価値の観点からの考え
今から3時間おきにあげます。
理由はありません。
スタートとしては、生きる意味を考えたこと。
終わりとしては、「無意味」考えることの無意味さと、「価値」、そして「妥協点」。
「自分はなぜ生きているのか?」
これは誰もが思ったことのあることではないだろうか?
まあ、思ったことなどなくても別にいいのだが、私がこれから書こうと思うのはそれについてだ。
この後のことは、ほぼ自論なため、共感の必要はなく、納得も、感心も、落胆も、まったくもって必要ない。
これを読むのは、興味、もしくは、時間がある人だけでいい。
これを書くのは、正直に言えばただの自己満足だ。
とにかく、
描いていくとしよう。
さっきも言ったが、「自分はなぜ生きているのか?」
これが、最初の疑問提示だ。
結論から言うと、生まれたからだ。
まあなんのひねりもない。
つまらない。
そして、くだらない答えだ。
だが、仕方がない。
そういうものだ。
ここでそんなファンタジーなことは言わない。
必要がないだろう。
そういう事だ。
私がこの疑問解決にあたって、最初に考えた概念、それは、「価値」だ。
「何故か?」
と言われれば
「〜だから」
というふうに答える。
だがまあ、この「自分はなぜ生きているのか?」という問いは、そんな誰かの作った答えを知りたいと思った疑問ではない。
少なくとも私はそうだ。
この問いで聞いていることを正確に言うならば、こうなる。
「自分の生きる価値とは何か?」というととだ。
長くなったが、「価値」という概念について考えよう。
違うな、私の出した「価値」という概念に対しての自論を述べよう。
もちろん、一方的に。
まあ、この文章についてのことはもういいだろう。
「価値」という概念を考えるにあたり、必要な概念は2つだ。
「主観」と「客観」
この2つの概念は特に「価値」という概念に深く関わるのだ。
まず、「主観」、これは簡単だ。
これは自分の思ったこと、その全てだ。
次に、「客観」、こちらは少し難しい、というより厄介だ。
これは人間が主観的にしかものを見ることができないからだ。
例えば「物を客観的に見る」
これは自分の起こす行動だろう。
つまり、これは客観的に見ているようで見ていない。
ややこしくなるが、
客観的に物を見ようとした時点で客観的に物を見ることは不可能になるのだ。
これについて言及することは不可能だし、時間の無駄だ。
例えるならば、自分で自分を抱き上げるような、そんな行為だ。
そこで「価値」という概念に戻るが、
この「価値」という概念において絶対的に必要なものが1つある。
それは、先ほどあげた概念の1つ「主観」だ。
「価値」とはいつであれその対象にとっての「有益性」である。
だからこそ、価値は、「時」や「人」によって違う。
ここでは「人」と言ったが、生物全てがそうだろう。
「人はみんな自分が一番可愛い」とかなんとか、そんな感じの言葉がある。
正直、事実であると思う。
生物は主観的にものを見ることしかできない。
そのように、生物はいつも自分を優先する。
言ってしまっては悪いのだが、
「自己犠牲の精神」それすらも言い換えれば、
ただの自己満足だ。
そう考えると最近言われている、
「全ては自分が選んだ選択でその事実は自分が望んだものだ」とかいう考え方も頷ける。
実際望んだかどうかはともかく、選択肢は狭められていたとしても、それを選んだのは自分で、そしてその結果も、必然的にに自分の選択によるものであり、選択に関しては誰も干渉することはできない。
まあ、上記の通り選択を狭めることぐらいはできるだろうが。
そして、生物はその選択において「価値」という概念を持ち出して考える。
そして、価値の高いものを選択する。
これは確実に、である。
たとえ、あえて価値の低いものを選ぼうとしたとしても、
その「選ぼう」という考えの価値自体が、自分の考えていた価値に上乗せされる。
これはわかりやすく言う事はしにくい。
まあ、少し違うかもしれないが、主観的である時点で、何かを選んだ瞬間に、その選んだものがその時点においての価値としては、最も高くなるのだ。
これについても、簡単な説明はしにくい。
選んだ後、あっちの方が良かったかもしれない、などと思ってしまえば、価値などすぐにそちらの方が高くなってしまうのだから。
とにかく、生物は「主観的」な「価値」が高いか低いかで、全てを判断している。
そう言えるだろう。
だが「客観的」な「価値」とは何だろう?
客観的に見ることはそれこそ不可能だ。
だが、出来るだけ「客観的」に近い「主観的」な見方で物を見ることはできる。
その見方において一番考えやすいのが、神の視点だ。
まあ神なんて信じていないし、自分としてはただの人間の心の拠り所としての空想だと思っているのではあるが。
とにかく、こう考えるのが一番想像しやすいと思う。
まず、なんか暇だったから世界を作ったとする。
ここでは、想像しやすいように、その世界を公園の砂場みたいなものであると仮定しよう。
その砂場の砂のうちの1つが地球であったとしよう。
そしてそこにはいろんな種類の動く何かがあった。
さて、そんなたくさんの砂の中の1つそんな砂と他のいろんな砂に価値の違いはあるだろうか?
つまり神としての視点で言ってみればその砂場の「砂」、その全ては等価値だ。
「価値」に単位などない。
「価値」は比較のみに使われる概念だ。
そしてそれ故に「等価値」を並べ、それのみをみた場合、
それは「無価値」だ。
まあ、わかりにくいかもしれないが、「客観的」に物の「価値」をはかる事は、
「価値」がそもそも全てにおいて存在しないから不可能であり、
それ故に「価値」とほぼ一体である「主観」的な見方で物を見ることは不可能だと、そう言えるのだろう。
回りくどくなったが、
これが生きる「価値」について考える時に最も必要なことであり、
これが生きる価値についての最も単純な答えだ。
「生きたい、だから生きている。」
この解答でも問題ないだろう。
だが、最後に一応もう一歩だけ踏み込んでおくとしよう。
私なりの解答は、
「生まれてきた。そして、死への恐怖を覚える本能により、生きることを自動的に強制されている。」
今回は「価値」からの考えでしたが、「価値」については大体基本です。
出来るだけ簡単な表現をしたいですが、なにせ説明が下手のものですので、説明が分からなければ、わかりやすくしたいと思います。
まあ、これはじっくりと考えていただければいいので、できれば理解に挑戦してみてください。
この「価値」という概念をこの考え方で捉えたら、想像が一気に広がります。
私もこの結論にありついた日から3日間は「価値」について考え続けてしまいました。
あといくつか書くつもりなので、できればお読みください。