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05.



 アリシアは一瞬、その男が死んでいるのか生きているのかわからなかった。

 雪に埋もれてどのくらい経っているのか正確にはわからないが、ほとんど上半身しか雪の中から覗いていないその男の顔色は、青を通り越して最早白い。現在アリシア達がいる『森の海』のフィールド部分は、陽こそ出ているもののそれ以上の冷気で万年雪が溶けることがないであろう地帯だ。そんな気温の中、雪の中で意識を失えば最悪数時間で命を失う。突然のことに驚いてたたらを踏みかけていたアリシアは、はっと我に返ると慌てて男の埋まっている雪を掘り始めた。


「うわあああどうしよどうしよ、生きてるかな!生きててください!死体とか見たくないよ!」

「生きている」

「ほんと!?」


 猛烈な勢いで雪を退けていたアリシアは、背後の冷静な声に涙目になりかけながら振り返った。

 すぐ背後に立っていた男は、特にアリシアを手伝う素振りもなく、顎に手を置いて恐らくは彼の仲間であるだろう男に視線を注いでいる。何か気になることがあるのか、この倒れている人は大丈夫なのか、戦々恐々とした気持ちで男を見つめると、男はあっさりと頷いた。


「死んでいたらマグナで感知できなかった」

「えっ、へー……さっきの視覚強化ってマグナを見てたんですね……って違う!」


 人命がかかっている時に見当違いの返答を寄越されて、だんだん男との会話の噛み合わなさに慣れ始めていたアリシアも流石に切れかけた。正確には男はアリシアの問いかけにきちんと答えてはいたのだが、あまりに焦りが見えないどころか非常に呑気なその態度からは、仲間を案じるような空気は一切伝わってこない。本当に仲間なのだろうか。先程から感じていた胡乱な疑いが再び頭をもたげ始めたが、袋をした手に触れる固い体の感触に、今はこちらが先決だと頭から振り払った。


「い、息は……してる!脈もある!生きてる!」

「だからそう言っただろう」

「死にかけですけどね!」


 胸に耳を当てて鼓動を確かめて、ほっと安堵の息を吐いたアリシアは、背後から聞こえたそっけない無味乾燥の言葉に、苛立ちの声を突っ返した。今死んでいなければ良いというものでもない。確かに今は死んでいないかもしれないが、これから死ぬかもしれないのだ。それをなにを、この男は悠長に――――という憤りがアリシアの中で膨らんでいく。感情に任せて睨みつけるように振り返ると、やはり男は平坦な声音を裏切らない涼しい顔をしていて、思わず怒鳴りかける。


「っていうか!仲間がこんなんで心配じゃ――――」

「……」


 意識を失っている仲間をじっと見つめていた男は、ぎゃんぎゃんと吼えるアリシアの顔を煩わしそうに一瞥した。そして、視線を逸らすと、まだ話しているアリシアの声を遮るように距離を詰めた。不意の行動に口を噤んだアリシアに構わずに、その身体に上半身を抱き起こされている男の傍らに膝をつく。


「《Aqua Vitae(アクア・ヴィテ)》【生命の水よ】」


 低く、耳に心地良い滑らかな声が落ちる。それが他でもない目の前の男から発せられたとわかるまでに、数秒かかった。

 黒い手袋越しに、男の手が意識のない体に触れる。ぽうと淡い金色の光がその指先から滲んだ。


「《fluctuat(フルクトゥアト)》【波のように揺れろ】」


 呪文に呼応するように、一際強い光が手の平から一瞬漏れ出て、そのまま吸い込まれるように体の中に消えた。それ以外は劇的なことは何も起こらず、淡々とマグナ術を使った男は役目は終わったとばかりにすぐに立ち上がったが、アリシアは驚きに言葉を失っていた。

 実のところ、アリシアはあまり自分と同じ存在に出会った機会は多くない。かつて共に師の下で学んでいた兄姉弟子達はいたが、それ以外の外部の『精霊憑き』と接することはほとんどなかった。加えて、十歳の頃に師と別れたアリシアがまともにマグナ術を学んだ期間はせいぜい数年でそう長くはない。だからアリシアの覚えている呪文は子どもの頃の記憶に頼って非常にたどたどしい。けれどわざわざアリシアの稚拙さと比較せずとも、マ術を行使する際の男の呪文は美しく流暢だった。

 精霊憑きは呪文を口にした際、それが耳慣れない言葉であっても不思議と互いに何と言っているかの意味は通じる。だが、術者のイメージに左右されるため、言葉がわかってもどのような効果があるのかはわからないことも多い。なのでアリシアは、つい恐る恐ると窺うように男を見上げた。


「た、助けたの…?」

「体の内側のマグナに揺さ振りをかけ、無理矢理起こした」

「えっ、起き……」

「じき目覚める」


 何の感慨もなさそうな乾いた声で言い、男は立ったまま巨岩石に背中をもたれかからせた。そのまま動く様子のない男と、自分の腕の中にいる見知らぬ男を見比べる。細かい装飾は少し違うような気がするが、やはり同じコートを着ている。男も一応助けたみたいだし、やはり仲間なのだろう。あまりに興味がなさそうだから疑問に思い始めていたが、いや、仲間、だよね?仲間なんだよね?


「こ、この人……えーと、知り合いだよね?」


 恐らくほとんど間違いなく仲間なのだろう、と確信しつつも「知り合い」なんて他人行儀な言葉を選んでしまったのは、一重に男の薄い反応のせいである。アリシアも物心着いてから関わる人間が師と兄姉弟子と今は村の人達しかいなかったので、大概人との関わりは薄いほうではあるが、他人と言えど死にかけの人間にここまで淡白にはなれない。多少は見知っているはずの相手なら余計そうなのではないだろうか、というアリシアの身の内にあった常識にだんだん自信がなくなってきた。なんだろう、別に否定する気はないのだが、いややっぱりちょっとどうかと思うが、知り合いでも他人は他人ということだろうか。それともやっぱり人外染みて綺麗すぎる人間というのは引き換えに人の心がないのだろうか。

 無遠慮なことを次々と浮かばせてくるアリシアの思考だったが、男はある意味アリシアの予想を当てさせる形で返答した。


「残念なことに」

「……」


 冗談なのか何なのかわからないことを言われて、返せる言葉がない。

 とりあえず知り合いは知り合いなのだろうが、仲良くはないのだろう、きっと。いや間違いなく仲良くなさそうだ。仲良かったら、たぶんもう少し心配している。ところが淡々とアリシアの質問を肯定した男は、筋肉が凝固したような無表情こそ変わらないもののその煩わしそうな雰囲気そのものが「余計な手間を」と言わんばかりであったし、同時に知り合いの生死にさえ何の興味もなさそうだった。


「……」


 まあ、そういう人間もいるだろう。アリシアの中で、この何者とも知れない男について「血も涙もない冷血人間」という新しい印象がメモ書きのように静かに刻まれつつも、とりあえず置いておくことにした。

この見知らぬ男の人間性についてはともかく、マ術による処置はきちんと効果があったらしい。アリシアが抱き起こしている身体は、先程まで石造のように強張っていたが、今は徐々に熱が戻り始めていた。顔色も雪と同化するほどに白かったものが、薄っすらと肌色を取り戻し始めている。まだ目を覚ます気配はないが、男の言通りならもうすぐ意識も戻るのだろう。ひとまず心配はいらなさそうだったので、アリシアは一息ついて、それにしても、とまじまじと腕の中の男を見た。

 年の頃で言えば、恐らく男二人はそこまで変わらなさそうに見える。この男達がどういう関係なのかはわからないが、同じような服装をしていることや、男の言っていた「調査」という言葉から考えるに、同じ組織のようなものに属しているのだろう。組織。アリシアはなんとはなしに、その言葉を口の中で転がした。現実味のない言葉だ。アリシアの住む村のある北の僻地は、一部の都市部こそ汽車によって大陸中心部にある『神都』と繋がってはいるものの、周辺から外れた集落の多くは独自の生活を守り続けている。村と村との間の関わりもほぼなく、たまに都市部から行商人が訪れること以外では、外部からの出入りはない。獣を売りに行く時以外では外の大きな世界のことに触れることもなく、生活は穏やかだ。当然、組織なんていう地縁ではなく利害で一致している響きのある言葉にも馴染みは薄かった。


 外の世界。そうか、この二人はその世界から来たのだ。

 それは存外、不思議な気分をアリシアに与えた。


 男は黙っている。先程からアリシアが話しかけない限り、ほとんど自主的に口を開いていないことから考えるに、たぶん会話が好きじゃないのだろうなと思いつつも、アリシアは思い切って声をかけた。


「ねぇ、この人とあなたはどういう関係なんですか?」

「………同行していた部下だ。先程マ獣に襲われた時にはぐれ、探していた」

「えっ、そうなんですか。あんまり年離れてなさそうだから、てっきり同僚かと思いました」

「そいつの年など知らん」


 心底どうでもよさそうに、宙に視線を投げながら男は言った。たぶん本当にそこまで年は離れていなさそうだとアリシアは思ったが、それ以上の会話を拒否するように男は顔を背けた。

 なんにせよ今の言葉で、やっぱり仲間だったのか、といまだ疑っていたところが打ち消されてしまった。部下と言えども、一応分類的には仲間だと思うのだが。それでこの態度なのか。仲間という言葉の定義を、アリシアは引き直したくなった。一応助けはしていたが、明らかに事務的な対応だった。まあでも子どものアリシアが知らないだけで、世の中の部下と上司の関係はこんなものなのかもしれない。なんかいやだなあ、と思いつつ、倒れているほうの男の顔を覗き込んだアリシアは、その瞼がぴくりと動いたのを見た。


「あっ」

「…っ…?こ、ここは…」


 倒れていた男の瞼が動き、やがてぱちりと開いた目が、頭上のアリシアを見て戸惑うように揺れる。擦れた声で呟き、身を起こそうとする男を慌てて支える。目覚めた男はどこかぼんやりとした眼差しで周囲を見回したが、アリシアの背後にいた金髪男に気付くとはっとなって俊敏に向き直った。マ術によって多少回復していたように見えた顔色が、一気に蒼さを増していく。男の視線を辿り、つられて石に背を預けている男を見上げたが、やはり相変わらずの無表情で見下ろしていた。


「え、エヴァンス様。ご迷惑をおかけしました……初任務でこのようなあるまじき失態、深く反省し……」

「お前、何故埋まっていたんだ」


 がばりと勢いよく頭を下げて、再び雪にめり込む勢いで謝罪する青年の言葉を、金髪男は無視した。先程まで死の淵を彷徨いかけていた男は、今も若干死にそうな顔をしているものの、その言葉に幾分血色が良くなっている顔を上げる。明るい茶髪をした、どこか神経質そうな雰囲気のある青年だった。先程アリシアが勝手に思ったように、起き上がった状態を見てみても、やはり金髪の男とそう年齢が離れているようには見えないが、両者の間には明確な力関係があるらしい。意外に思いながらまじまじと見ていたからか、青年と同様に、アリシアも男の言葉に反応するのが遅れた。


「へ?」

「何故雪に埋まっていた」


 何を言われているのかわからない、とでも言うふうにぽかんと口を開けて聞き返した青年に、男がもう一度言葉を繰り返す。アリシアも瞳を瞬かせたが、男の視線は真っ直ぐに青年に向いていた。


「ゆ、雪に?僕が?埋まって?え、ど、どうしてだろう……」

「えっ、あっ、たぶんですけどウォッカグマのせいだと思います。最後に襲われた記憶とかありませんか?」

「え!?あれ!?ていうか君は……」


 覚えがあったので話に割り込んだアリシアに、青年が今しがたその存在に気付いたように驚いたような声を上げる。実際には目覚めてすぐに目が合っていたのだが、大分混乱しているらしい。えへ、となんとなく説明が面倒だったのでとりあえず笑顔を向けると、困惑を前面に押し出しながらも、え、えへへ、と笑い返してくれた。たぶん、根が良い人なのだろう。


「ウォッカグマ?」


 胡乱げな目で―――実際は無表情だったので本当にそうだったのかは分からないが―――男がこちらに視線を移したので、アリシアは頷いた。

 というか、なんだ。もしかして埋まっていた青年をすぐに助け出さずに何か考えている素振りだったのは、そこに注意がいっていたのか。納得したところで人命を優先すべきだったのは変わらないが、まあ気になるのはわかる。


「ウォッカグマは、獲物を見つけると、すぐには食べないでとりあえず埋めておく習性があるんです。雪の深い地域に生息する種類なので、食べ物を溜め込むんですよねー。あっ、ウォッカグマっていうのは、体内にお酒に似た蒸留物を溜め込む体質のクマで、たまに森の外にも彷徨い出てきちゃうので、村でもたまに狩る動物です」


 体長二メートル前後の大きなクマだが、それでも『森の海』に生息する他の巨獣と比べれば取り立てて特別大きいマ獣というわけではない。酒が浸透した肉は珍味として取引きされ、火のマグナを溜め込んだ胆嚢は薬として重宝され、毛皮や牙なども様々な材料として加工しなくても売ることのできる動物だ。腹の中に溜めたアルコールを発火させて口から火を吹くような凶暴な面もあるが、ウォッカグマは本来は『森の海』の浅瀬の中でも、もっと深いい場所の洞窟に生息する。

 

 あまり深くに足を踏み入れない限り、遭遇するということはなかなかないのだが―――――。


「………なるほど、狩りか」

「…?」


 アリシアをちらりと一瞥して、何か得心がいったように男はぼそりと呟いた。不思議に思って顔を上げたが、すでに視線は逸らされていて、よくわからないが混乱して眉を顰める。だが、涼しげなその顔をいつまでも睨んでいるわけにもいかなかったので、猟銃を握り直すとアリシアは立ち上がった。


 ウォッカグマに襲われたと言うのなら、長居は無用だ。

 ウォッカグマに限らず、クマは習性として獲物の逃走を許さない。呑気にこの場で話を続けていたら、獲物を確認しに戻ってきたウォッカグマに襲われないとも限らなかった。


 そこでふと、気になることがあって金髪の男に向き直る。


「あなたがさっき襲われたのも、ウォッカグマだったんですか?」


 急に話を振られても、特に動揺することもなく男はアリシアを見た。

 そして、ニコリともしないで、首を横に振った。


「いや……あれはクマではなかった。二足歩行のオオカミだ」

「えっオオカミ。二足歩行の」


 思わず聞き返すと、「ああ」とおなざりな返事が返ってくる。あまり興味がないのか、その声音からは別段そのことに注意を払っていないことが伝わってきたが、反対にアリシアの顔色は青ざめた。オオカミ。二足歩行の、オオカミ。


「ど、どのくらいの大きさでしたか」

「…?二メートルくらいだと思うが」


 訝しげな声から答えを得た瞬間、アリシアは全身の血の気が引いたのがわかった。


「マズい!フィアウルフだ…!」


 ―――――――フィアウルフとは、二本足で立つ巨人のような狼頭の獣だ。


 『森の海』に生息する巨獣は、基本的にはそのほとんどが、このような浅瀬ではなくもっと深度の深い階層にいるものだ。フィウルフは、その中でも浅瀬に残る数少ない巨獣の一つに数えられる。最大で二百メートルを越えるものもいると言われるほどの、動く山の如く大きな巨獣達と比べれば、比較的巨獣の中では小型の部類に入る。彼らは基本的に同種同士で固まるように生活し、狩りを行い。固体の大きさはおよそ二メートル。常の状態は二本足でありながら、獲物を追う時だけは前足も使って四足になり、高速で追いかけてくる。凶悪な牙と爪を持ち、人ならば一撃でも食らえば致命傷だ。だが、彼らの真の危険性は、その群の“親”の存在である。


 フィアウルフの個体は、体長二メートルほどしかない。

 これは先のウォッカグマとあまり変わらない大きさだ。危険なことには変わりないが、この程度の大きさでは巨獣とは呼ばれない。

 だが、フィアウルフは、一際大きな個体を“親”として群れを作る。

 この“親”は、他個体と違って優に十メートルは超え、不思議なことに他の“子”とでも言うべき個体の危機を察知する能力を持っている。

 『森の海』から彷徨い出てくる獣を仕留めて生計を立てる狩人達は、万が一群れからはぐれたフィアウルフを見つけても決して襲わない。

 迂闊に手を出したが最後、その狩人のいる村は壊滅すると信じられていた。

 怒り狂い、群れを引き連れて現われる、巨大なオオカミの怪物に。


 フィアウルフに出会ってしまったら、決して反撃してはいけない。

 ただ防御に徹し、逃げなくてはいけない。

 間違って仕留めでもしてしまったら、その瞬間から“報復”が始まる。


「………そ、その、オオカミ、どうしましたか…?」


 あまり聞きたくない。あまりどころか、心の底から聞きたくない。だが、聞かないとどうしようもない。アリシアの脳裏に、吹っ飛んできた木々になぎ倒された無残な森の様子が浮かぶ。そんな絶望的な心地で尋ねた声は震えていたが、金髪の男はそんなアリシアの心中も知らずに、あっさりと言い放った。


「倒した」

「あああああ……」


 やっぱりだった。そんな気はしていた。アリシアは思わず顔を覆った。

 “子”とは言え、フィアウルフは充分に凶暴な危険種だ。それなのにそんなふうに平坦に退けたことを肯定されて、だがこの男なら可能そうだと素直に納得している自分がいた。あの規模の森の爆散を身をもって目の当たりにしていたこともそうだが、短い付き合いの中でもその身に流れるマグナの濃さを察し始めていたアリシアは、男の発言を事実として受け入れざるを得なかった。そもそも、アリシアにとってはこの上なく不幸なことに、この男が嘘をつく理由がない。いっそ嘘だったらよかったのに!


 男は黙っているが、アリシアの反応に嫌な予感を察知したのか視線が注がれているのがわかる。茶髪の青年のほうは、いまだ事態を飲み込めていないのかおろおろとしていた。アリシアは顔を覆っていた手を勢いよく取り払うと、焦って叫んだ。


「それはフェアウルフの群れの固体の中でも、小さめの固体です!小さめの固体を傷つけたら、大きいのがくるんです!十メートル越えの、浅瀬に残ってる中ではかなりの特大級が!ウォッカグマなんて目じゃないくらいの大きさ……の……」


 言葉は不意に途切れた。

 ゆらり、と巨大な岩石の横から、不意に巨大な影が滲み出るのを視界に捉えて、アリシアが硬直したためだ。

 陽炎のように揺らめく重い影の、その全貌があらわになっていく。

 形作られた影の、その見上げるような全長。

 緊張で強張っていた身体が、目前の恐怖に震えも忘れて竦む。

 高いところにある顔は、陰影が落ちて見えなかった。だが、その牙から滴る唾液が、ぼとりと雪の上に落ちて雪を蒸発させた。生臭い、獣の臭いが鼻をつく。


 足音に気付かなかったのは、一歩の跳躍で野を駆けてきたせいだろうか。


 現実逃避のような思考が、頭の隅を過ぎる。

 そしてその瞬間、衝撃波のような遠吠えが大地を震わせた。


「…っ!」


 咄嗟に伸びてきた腕に突き飛ばされ、アリシアは雪の上を転がった。

 至近距離で凄まじい光が爆ぜ、一瞬遅れて爆発音と、オオカミの呻き声がこだまするように轟く。


 いつの間にか周囲は、オオカミの軍勢に取り囲まれていた。


 アリシアは咄嗟に受け身を取った。跳ねるように落ちた先も柔らかい雪の上だったため、衝撃のほとんどは雪が吸ってくれたが、逆に雪に動きを封じられてすぐさま跳ね起きることができない。どうやら、今まさに巨大なフィアウルフの“親”によって容赦なく振り落とされた腕を、咄嗟に展開した光の障壁で防いだ金髪の男に突き飛ばされたらしい、ということはかろうじてわかった。

 その後ろには、腰が抜けたのか尻をついて震えている茶髪の青年がいる。彼は恐怖の滲んだ目で呆然と巨大なオオカミ達を見ていたが、自分の前にいる男に気付くと、緊張と警戒に強張りながらも立ち上がった。


「《volare pop(ヴォラーレ・ポップ)》【弾け飛べ】」


 コートの中から石を複数取り出すと、呟きながら宙に投げ放る。それが丁度彼の目線の場所まで落ちてきた瞬間、茶色の線を描いて四方に弾け飛んだ。弾丸のように加速した石の破片が、後に茶色の光を残して取り囲むオオカミ達に撃ち込まれる。ただの石ではないのか、撃ち込まれた獣達が怯んだ瞬間、土色の光を発して文字通り肉体ごと弾け飛んだ。


 バラバラと降り注ぐ肉片と、血に似た赤黒い色した液体が、バシャバシャと雪を汚していく。


 『森の海』に存在するあらゆるものは、獣も植物もすべてマグナに影響されている。この液体も、恐らく血ではない。いつかアリシアの師は、「『精霊憑き』の血は赤くない」と言ったことがあった。その体に循環するものは血ではなく、原初の生命力であるマグナそのものなのだと。

 最も原初の形態に近い、いまだ人の手の入らない『森の海』の獣も、その神秘性はこの地に渦巻くマグナに由来する。

 だが、マグナによって形作られているということは、逆にマグナによる攻撃が非常に効果的だということでもある。マグナ武器でもない普通の武器では『森の海』の獣には歯が立たないが、直接マグナ術が使える人間は彼らと渡り合うことができる。

 実際、アリシアの目の前で戦う男達は、多勢に無勢ではあったものの、押し負けてはいなかった。どころか、徐々にではあるが、二足歩行のオオカミの群れは着実に倒され始めていた。


 ――――――すごい。


 呆然と戦いを眺めているしかできなかったアリシアは、我に返るとはっとなって雪の中でもがいて起き上がった。

 目の前で、断末魔の吼え声を響かせながらオオカミ達が散っていく。撃ち込まれ続ける石の弾丸と、宙を駆け巡る金色の光の刃が、縦横無尽に戦場と化した雪原を駆け巡る。オオカミの屍が増える度、その傷口から漏れ出たマグナによって地面が赤黒く染まっていく。そんな壮絶な光景の中で、アリシアの視線は何故か、全身から金色の攻撃魔術を発し続けている男に釘付けになっていた。

 何故だろうか。男の神の造形もかくやの容姿と相まって、屈折する光の刃を繰り出し続けるその姿は神々しいまでだったのに、アリシアは何故か。


 何故か、その姿が―――――――。


 アリシアはその時、男の姿を凝視していたため、それを視界に捉えた。

 襲いくる物理攻撃をすべて防ぐ光の障壁を展開しながら、同時に攻撃を放ち続けていた男の頭上。そこに、フィアウルフの“親”の拳が吸い込まれるように勢いを持って落ちていく。男の防御壁はすでに何度か、“親”の攻撃を防いでいた。だからその時、どうしてアリシアは叫んだのか理屈はわからない。先程までと変わりなく、振り下ろされた拳を障壁は防ぐはずだった。それなのに、何故か、嫌な予感が背筋を駆け上がったのだ。


「危ない!!」


 ――――――――――パリンッ。


 アリシアの声と、光の壁が砕け散る音は、ほぼ同時だった。だが、恐らくは、一拍アリシアが早かった。その声を受けとった瞬間、迫り来る拳を見つめながら、男は月の光のようにひび割れて砕け散った障壁を、()()()()()()()()()()()()()


 ――――――グッ、ウオオオオオオオオオオオオオオオンッッ!!


 まるでガラスの破片のように、砕けた障壁はそのまま上に向かって加速し、“親”の眼球に的確に突き刺さった。

 痛みに悶える“親”の吼え声が大地を震わす。だが、すでに勢いがついていた拳は止まらなかった。ドゴォンッという凄まじく重い音を立てて、目標を見失った拳が地面へとめり込む。咄嗟に後方へ回避していた男も、防御をそのまま攻撃へと回したことで、新しい障壁の展開が間に合わなかった。直撃こそ食らわなかったものの、衝撃波に巻き込まれ体勢を崩す。無表情は崩れなかったが、忌々しそうな舌打ちが聞こえた。


「エヴァンス様!」


 青年が焦って声を上げる。それはその後方から、新しい闖入者が現れたのとほぼ同時だった。

 鋭い爪が振り下ろされ間際、後方の脅威に気付いた青年は間一髪でそれを避けた。だが、次いでその身を襲った炎は完全には避け切れなかった。眼前に迫った炎に、青年が捲かれて倒れる。

 その炎を吹き出した闖入者は、先に現われていたオオカミ達に倣うように二本足で立ち上がると、大きく吼えた。


――――――ウッ、グ、オオオオオオオォオォッッン!!



「う、ウォッカグマ…!」


 先程青年を襲い、雪原に埋めていったウォッカグマが戻ってきたのだ。

 考え得る限り、最悪のタイミングと言えた。フィアウルフだけではなく、ウォッカグマまで。本来ならば、どちらも一体だけで充分脅威となる凶悪な獣が、両方。しかも片方はまだ群れの固体が残っていて、そして何より巨獣に分類される“親”がいる。

 青年が倒れたことに、男も気付いたようだった。だが、どうすることもできない。助けに向かうには距離が離れすぎていたし、何より目の前の獣達から注意を逸らしたが最後なのは明白だった。だが、その点アリシアはこの場でなによりも無力だった。だから立ち上がり、炎に捲かれて転げる青年に走り寄る。


「《ノン・インフラマラエ!》【燃焼拒絶】」


 呪文に乗せたマグナが、青年の体を覆う。薄い翠の混じった銀色の光に触れた瞬間、コートに移っていた炎はたちどころに消え去った。安堵する間もなく、真上に影が落ちる。

 ウォッカグマの黒い体に隠れて、他の景色が奪い去られた。その黒い円らな瞳が、アリシアを映す。


 あ、ムリだな、とアリシアは頭の片隅で呟いた。

 アリシアは攻撃マ術は使えなかったし、銃を撃つにも圧倒的に時間が足らなかった。

 ウォッカグマの炎によって火傷を負った青年はまだ動けない。


 クマの手が、薙ぎ払うようにして振り下ろされる。

 アリシアは、咄嗟に、青年を庇うように両手を広げてその前に出ていた。

 その一瞬。ほんの瞬きほどの刹那。睨み上げたアリシアの瞳と、クマの目が合い、そして、何故か、一瞬その動きが鈍った。


「っ……え」


 襲いくるはずの痛みはやってこなかった。

 クマの顔が、首の辺りからズレて、ずるりと滑る。そしてそのまま、濃い黄色の液体と共に、地面にべしゃりと落ちた。

 頭部の消えたクマに呆然と言葉を失っていたアリシアは、一瞬の隙をついてクマの首を跳ね飛ばしていった金色の光を振り返る。


 獣の返り血――――マグナを浴びて顔の半分が真っ赤に染まった男と、目が合った。

 どくり、と心臓が跳ねる。マグナが勢いよく循環し、体の感覚が束の間消える。

 それから先の光景は、まるでスローモーションのようにアリシアの瞳には映った。


 眼球を潰された“親”のフィアウルフが、怒りと痛みに任せてやみくもに鋭い爪と拳を振り下ろし続ける。その度に地面がひしゃげ、揺らぎ、衝撃が大地を震わせた。男はすんでのところでそれを交わし続ける。合間に、鋭い攻撃の手をフィアウルフに休ませる隙も与えずに追撃していた。四方から自由に蠢く光の帯。それは神々しいのに、どこか空恐ろしいほどに禍々しい。やがて徐々に、暴走しているように見えた“親”の攻撃の手が緩み始めた。冷静さを取り戻したのではなく、単純に力が尽きてきたのだろう。

攻撃を避けつつも、淡々と隙を見ては取り巻きの“子”のフィアウルフを片付けていた男の手によって、今立っているのはいつのまにか“親”だけになっていた。

 信じ難いマグナ術の腕と、冷静な思考能力を目の当たりにして、アリシアは息を呑む。

 やがて力尽きた“親”が、ぶらりとその両腕を横に下ろした一瞬の隙さえ、男は見逃さなかった。

 

 低く、滑らかな声に乗って、マグナが金色の光を発する。



「《Fiat Justitia》【正義は為されよ】」



 まるで呪いを吐くようなその暗い眼差しが、何故か瞳に焼きついた。



「《ruat caelum》【たとえ、天が落ちるとも】」



 屈折した光の剣が、天へと上り詰め、数百数千の刃となって降り注ぐ。

 その眩い金色は、輝きを放ちながら巨獣の体を刺し貫いた。幾度も。幾度も。止め処なく天から落ち続ける金色の光は、仰ぎ見れば天上からの祝福に見えたかもしれない。そしてその祝福は間違いなく、巨獣に死をもたらすものだった。

 アリシアは、その断末魔の時、フィアウルフが見た最後の景色がどうだったのかはわからない。

 だが、間違いなくその失った視界でも、その光だけは届いただろうと思うほど、それは強烈な輝きだった。


 そして、それが止んだ時、立っている者はもはや男しかいなかった。

 男は、獣の命が終わったのと同時に割れるように消えた金色の光の中にいた。

 天を仰ぐその姿は、まるで敬虔な信者のようにも、祈りを授かる天使のようにも見える。

 だが、その姿はそのどれでもなく、きっと、神々しくも禍々しい神に一番近かった。


 無感動で、感情の浮かばない無機質な瞳がこちらに向く。

 アリシアは、何を言うかもまだ決めないままに、何かを言おうと口を開いた。

 だが結局、それは言葉になるどころか、声にさえなることはなかった。


 唐突に、地面が割れたのだ。

 びしり、と放射線状に広がっていく皹は、一瞬の内に半径数十メートルに及んだ。

 大地が揺れ、震えが大きくなり、立っていられない。体勢を崩しかけた瞬間、足元の地面がボコリと()()()


「っえ」


 悲鳴を発する間さえなかった。

 地面ごと崩れた大地は、崩壊しながら落ちていく。


 落ちる。

 落ちる。

 落ちる。

 窒息しそうな、マグナの森の海の中。

 重さを持って、空気が肺に押し寄せる。


 落ちていく。

 落ちていく。

 落ちていく。

 森の海の底には果てがない。

 時間と暗闇が交じり合い、世界が逆さになる。


 鳥の群れの中を垂直に落ちる。

 輝く星々の中を落ちる。

 枯れた荒野。赤い紅葉。海辺の潮の寄せる音。鮮やかな草原。壮大な滝。石になった竜の遺跡。私は落ちていく。朝と昼と夕と夜の中。自分という存在が曖昧になるほど色鮮やかな、むせ返るようなマグナの中を。


 私は落ちていく。


 その中で、まるで、月の光のように鈍く輝く光を見た。

 過ぎ去っていく視界の、暗闇の中で、それは本当の月のようだった。

 あれは、魂の輝きだ。

 分裂し、世界に漂うマグナが、泳ぐように輝いている。

 アリシアの目の中に、世界が焼き付く。



 高速で過ぎ去って行く視界の中で、救いを求めるように空に伸ばした手を、誰かに掴まれた気がした。


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