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03.



 しばらく歩くと、凍った湖を見つけた。

 アリシアの周囲と前方に着かず離れずの距離で飛んでいた蝶々達は、湖に着くとその周囲の寒芍薬やクレマチス、待雪草やノースポールなどの花々が群生している花畑に向かって散り散りになる。アリシアは、白い息を吐き出して凍った湖の美しさに静かに見つめた。

 静謐な神々しさを保つ湖と、寄り添うように広がる小振りの花々は、まるでこの土地が深い眠りに落ちているかのような印象を与えてくる。好奇心にかられて、つい凍った湖に近寄って足を乗っけてみようとしたが、以前に別の場所で同じことをして割れた氷の上に落っこちかけたことを思い出してやめた。


 『森の海』を訪れる目的は、しばしばアリシアから時間のことを失念させる。

 探索に没頭している間に夜になっていた、なんてことも以前にあったほどである。『森の海』ならともかく、夜の雪山でさした装備もなく夜を明かすの自殺行為に等しい。特に、この凍土地帯の夜は吐き出した息がたちどころに凍り落ちるほど厳しいものなのだ。その日は仕方なく、『森の海』の中を歩き回って丁度いい茂みの中の窪みに潜って眠ったが、翌日村に帰った時に散々心配をかけたらしい子ども達に怒られたことを思うと、同じ徹は踏み辛い。

 なので、本格的な探索に行く前に先に、子ども達へのお土産の用意をしてしまうつもりで腰を降ろした。このお土産を待っている存在のことを思い出せば、そんなに深追いすることもないだろう。たぶん。わからないけど。アリシアは割と、夢中になって探しているといろいろなことを忘れる。忘れたが、これもさっき言った気がする。

 肩に下げていた自身の背の半分ほどもある銃剣を降ろし、雪の重さに倒れた樹木に凭れ掛からせるようにして置く。これがあると、重くて作業がし辛い。けれど一応の自衛の道具は外界では見かけない危険なマ獣なども多く生息する『森の海』では、最低限の必需品でもあった。


「樹蜜出るかな……この木、カエデ科に似てるからたぶん出るような気がするんだけど」


 腰につけたベルトから、小振りのナイフを抜いて、目に付いた木の皮を剥いで刃先を当てる。傷をつけた場所に手を当て、体の内側のマグナを樹の内部に送り込むようなイメージを浮かべながら、その中身に干渉をする。数秒間の沈黙の後、ちろり、と小動物が指を舐めるような感覚がしたと思ったら、切り口から透明に近い琥珀色の蜜が垂れてきた。


「『森の海』は祝福の園、か~……」


 小さな容器に蜜を受けとりながら、よく村の大人達が言う言葉を口の中で呟く。

 アリシアにとって、『森の海』はその全容こそ知れないものの、ある程度はその特徴を見知っている、昔からの親しみある土地だ。けれどこの地に決して訪れることのない村人達は、『森の海』を彼らに貴重な獣の恵みを授けてくれる場として敬うのと同時に、この場所に渦巻く原初のマグナとその神秘に畏れの念を持って、人の世ではない地と呼び表す。そして、そのような人外魔境の精霊の森に足を踏み入れることのできる人間のことも、彼らは明確には「人」だとは思っていないのだということは、共に暮らしている内に薄々察しがついていた。

 それは何もアリシアが村で人扱いをされていないというわけではなく、むしろ彼らは彼らの文化観になじみのないアリシアに配慮してか、ごく普通の子どものようにアリシアにも接してくれている。六年前、着の身着のままで『森の海』から彷徨い出てきたアリシアを拾い、この年になるまで親切にして、村に置いてもらっていた。彼らには、感謝してもしきれない。彼らのことは好きだ。子ども達のことは、みんな実の弟や妹のように思っている。けれどそれでも時々、アリシアは自分はあの村の中では異端なのだろうと思うことがある。

 幸いにも『精霊憑き』であるアリシアの力は、『森の海』と隣り合わせで生きている最北の極地にある村では重宝されることも多かった。『森の海』に足を踏み入れることができる人間は、世界の中心である『神都』に住む人間ならばまだしも、このような貧しい凍土地帯の辺境には滅多にいない。

 『森の海』から彷徨い出てくる獣は、いつの時代も変わらずある一定数存在したが、大いなるマグナが満ちる『森の海』はそこに足を踏み入れることができない人間にとっては謎に閉ざされた未知の世界であり、その異界との橋渡しとして『精霊憑き』は他の村人達とは異なる役割を持つ。むしろ、アリシアが元々余所者であったことを考えると、それは幸運なことだったのだろう。けれど他の人と違うということは、誰とも世界を共有できないということだ。かつては師について学び、今では他の誰とも共有することのできなくなったこの森の景色を、アリシアは美しいと思う。けれど村の人達が信じているような、祝福の園であるかと言われたらわからない。だからいつか、また師匠に会えたら聞いてみたいと思っていた。


 ゆうに蜜飴十個分くらいは溜まった樹蜜の入った容器を、こぼさないよう慎重に両手で持つ。


「《インフラマラエ》【点火】」


 呟くと、容器に触れた部分の手がぽうと一瞬熱みを帯びた。やがて樹蜜の表面にぽつぽつと気泡が立ち始め、ぐらぐらと沸騰するまでになると、手早く容器を傾けて、少し焦げ色のついた樹蜜を新雪の上に直接落とす。雪の板の上に、一口大の円形に落とされた飴が、等間隔で並んでいく。

 後は、荒熱が取れて飴が固まるまで待つだけだ。樹蜜の飴は本来なら取れた樹蜜に砂糖を加えて更に甘さをつけるのだが、『森の海』のカエデ科に似た木々から出る蜜はそのままでも充分甘いので、こうして『森の海』を訪れては時々お土産として子ども達に持って帰っていた。


「そろそろいいかな」


 樹蜜の飴は手頃なお菓子だ。甘味は高級品なので、行商人もなかなか訪れない上に、北の最大の開拓都市ウィストファストからも離れているここ僻地では、特に子ども達に喜ばれた。

 元々が液状の樹蜜のため、飴は完全な固形状にはならないが、持ってきた棒にくるくると巻きつけるようにして取る。すべて回収し終わり、傍らに置いていた銃剣を手に取った瞬間、何か不穏な予感が、アリシアの背筋を走り抜けた。


――――――――ドォン!


 大気中のマグナごと震えるような、爆発音に似た音が響いた。

 どん、と周囲が揺れて、木々から雪が落ちる。花畑を飛んでいた蝶達が、驚いたようにくるくると舞いながら、大気に溶け消えて後に燐粉の輝きだけを残した。その体のほとんどをマグナで形作るフォロウ蝶はひどく繊細で、唐突な刺激を与えられると空気中のマグナに溶けて逃げる習性がある。


「地響き…?」


 呟きながらも、恐らく違うものだろう、とアリシアの頭の中で警鐘が響く。

 『海の森』は数十年に一度の周期で地盤がシャッフルされる現象が起こることがあるが、今それが起こるはずはないとアリシアは知っていた。

 何故なら、前回のそれが起こってまだほんの六年しか経っていないのだ。

 訝しげに爆音が聞こえてきた方角の空をじっと見つめるアリシアの眼は、森の木々の隙間から赤や黒の閃光が細く途切れ途切れに伸びている光景を捉えた。


「あれは……えっ、攻撃系のマグナ術…?」


 久しく自分以外の人間をこの『森の海』で見かけることがなかったため、アリシアは忘れかけていたが、ここにはたまに危険種や幻想種を目的とした『精霊憑き』の狩人も訪れる。誰かが交戦しているのだろうか、大丈夫かな、と不安を抱えながら閃光が飛び散る空を見上げていると、一際大きな雷のような光が空を割る。ふっ、と大気中のマグナが揺れるのを感じ取った瞬間、周囲にあった背の高い木々に、物凄い轟音を立ててその光が当たった。


「え、え、ええ…えええええええ!?」


 咄嗟にしゃがみこんだ―――というか腰が抜けた――――アリシアの頭上を、ブオンッという風を切る音と共に樹木が飛んでいく。嘘のように吹っ飛んできた木々は、容赦なく後ろの樹木達を巻き込み、無残に倒壊し、折り重なるように重い悲鳴をあげながら倒れた。

 にわかに訪れて回避した唐突な命の危機に、後ろの惨状を振り返りながら、意味もなく口を開閉させる。巻き込まれていたら間違いなく死んでいた状況を目の当たりにして、ちょっと言葉が出てこなかった。


「………う、嘘でしょ……」


 なんとか搾り出した声は、呆気に取られていた。

 そりゃあそうだ。誰が普通に散歩していただけで、突然丸々一本の木が飛んでくると考えるだろう。いや、あながちこの場所ではそんなことも起きないとは言い切れないのだが、それにしたってもう少し脈絡が――――。


「はっ!さっきの!」


 あれか!あの光か!というか、あれしかないな!あれ以外にまだ何かあったらそれはそれで怖い。

 突然殺されかけてばくばくと暴れまわっていた心臓が落ち着いてくると、一体全体何をしてくれているのだ、と理不尽に思う気持ちが湧き上がってくる。アリシアがまさか近くに他に人間がいるなんて露ほども思っていなかったように、相手側もそう思い込んでいた可能性が高いが、狩りをするにしたってあんなに派手にするなと言いたい。空き地が一つ出来るなんてどう考えたって普通じゃない。

 一言文句を言ってやろう、とかそういう気持ちはとはまた別にして……いや、なかったわけではないが、アリシアは考えるより先に立ち上がりと、先程光りの見えた方角へ走った。とにかく傍迷惑な隣人の顔だけでも拝んでやろうと思ったのだ。『森の海』は広大すぎて人と会うことなんて滅多にない。特にここ数年の間は、ぱったり誰とも会っていなかったから、興味が沸くのは当然だった。



 村人達との狩りに同行する際、木々の間を素早く駆け抜けていくアリシアの脚は、小鹿のようにしなやかだとよく褒められた。実際、アリシアはお転婆で多少生意気な性格に反して、大人しそうな見た目をしていると言われることが多かったが、生まれてこの方育ってきた場所が育ってきた場所だったのでそれなりに強かではある。

 だから、途中で止まることもなく一息に駆け抜けて、ようやく湖を囲う林の外に出た時、アリシアはそこまで息が乱れていたわけではない。


 それなのに思わず呼吸が揺らいだのは、飛び出したそのすぐ目の前に人がいたからだ。

 アリシアが驚きに立ち竦んだのと同じように、相手も突然現れた人物に驚いたのか瞠目したのがわかった。


 視界に飛び込んできたのは、重たそうな黒いコートを着た、若い男だった。

 けれど、ただの男ではなかった。その男は、思わず瞳を見開いてまじまじと見つめてしまうほど、常識外れに美しかった。

 

 無造作に落ちた金糸のような輝く髪。その髪と同じ色をした、涼やかで透き通るような瞳。薄く形の良い唇はどこか酷薄そうな印象を与えるが、今は困惑しているのか少し開いていて、そうしていると不思議なことにあまり怖くは感じない。普通、勇ましいとか逞しいとか、いわゆる男らしい美のあり方を除けば、桁違いにその容姿が美しい人間というのは、どこか中性的な色を纏う。けれど目の前の男は、すらりとした長躯の細身ではあったが、体の線をぼやかすコートの上からでもわかる骨格は完全に男で、神の造形から女性的な要素を引いたかのような奇跡のバランスが成り立っていた。

 見渡す限り続く雪原に立つその男の姿はまるで、雪の上に落ちた淡い陽光が実体を取ったかのようだ。


「……妖精?」

「……子ども?」


 低く、どこか艶を感じさせる訝しげな男の声と、アリシアの呆けたような呟きが重なった。

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