02.
アリシアの身に突如降りかかってきたすべての事の始まりは、三ヶ月前に遡る。
この世界では、今はもう遥か昔に天へと還った神々がかつて地上に存在していた頃にあったとされる『神都』を中央に置いて、大地は果てなくどこまでも円形に続いていると言われている。
その『神都』から見て、大地の間に同じように円形に広がる『氷海』を挟んだ、現在人が住める最北端である辺境の地。
あらゆる物を凍らせ飲み込む『氷海』を前方に、そしていまだ神秘が生きているとされる広大な未開拓地帯『森の海』と、『森の海』と人の住む地域を隔てる頂きの見えない巨大な『山脈』を後方にして、アリシアの住んでいた村はあった。
「あっ!アリシア」
「あっシーッ!」
「もがっ」
小振りの矢筒と銃剣をそれぞれ背中と腰に装備したいつもの装いで小屋を出た瞬間、外で遊んでいた子どもの一人に見つかった。
なるべく音を立てないように静かに扉を閉めた努力も甲斐なく、いつの間に接近したのか振り返るとすぐ目の前にいた少年を、反射的に抱きすくめて手で口を塞ぐ。
「な、なにすんだよアリシアー!」
「ああああルカ、シーッ!シーッ!静かに!」
驚いたようにもがく少年に、慌てて顔を近づけて懇願すれば、その必死の気迫が伝わったのかルカは一瞬口を噤んだ。
だがアリシアの格好を上から下まで見ると、物言いたげに眉を寄せて口を開こうとする―――が、その口はアリシアが手で塞いでいるため開かない。どうだ、と言わんばかりの得意げな笑顔を浮かべてみせると、ルカは口を開くのを諦めて無言でアリシアを見つめてきた。どことなく呆れたようなその視線が不満で、なによう、と口を開こうとして、背後から聞こえてきた声にぎくりと体を強張らせる。
「アリシア?ルカ?なにしてるのー?」
「うっミーア…!」
小さな手足を目一杯動かして雪道を進んできたのか、ころんとした少女の頬は赤く染まっていた。
きょとんとした瞳でこちらを見上げる視線に、えーえへへ、と視線を逸らしていると、間の悪いことに他にも声が聞こえてくる。
「あー!アリシア、また一人で狩りにいくの?」
「アリシア、今日はこっちでみんなと遊ぼうよ」
「ねぇアリシア、角兎の皮のなめし方教えてよ」
一人が寄ってくれば、つられるようにどこからか他で遊んでいた子達もつられるようにしてわらわらと集まってきて、あっという間もなくアリシアは村の子ども達に囲まれた。
自分よりも頭一つ分も二つ分も小さな子ども達にじゃれつかれて、今日も見つかってしまったとアリシアは素直に負けを認めて頭を抱えた。
「あああああ……ああ……見つかった……ルカのせいだ……」
「なんだよアリシア、また『森の海』に行こうとしてたのか?」
後別にオレのせいじゃないからな、と小言のように反論を付け加えながらも、アリシアを見上げるルカの瞳はどこか心配そうだった。いつもは特に生意気で口の減らない少年から、純粋にこちらを案じるような感情を向けられて、うぐ、と気まずさに視線を逸らす。
アリシアは、この村の子ども達の中では最年長だった。捨て子だったアリシアを拾って育ててくれた師の下から十歳の頃に離れて以来、アリシアはずっとこの村でお世話になっている。
強大なマグナが満ちた『神々の頂き』と呼ばれる巨大な山脈が、『森の海』との境界線を区切っているその真下に位置するこの村は、代々『森の海』から山脈を通って彷徨い出てくる獣を狩って生活を営む小さな村だ。
村に住む住民のほとんどが親類同士な上、極寒の厳しいこの土地で生きていくため、次代の大人である子どもは村全体で育てるような意識が強い。そのため、身寄りもなく余所者であるアリシアのことも、忌憚なく受け入れてくれた。どの子もみんな自分の家の子のように可愛がり、育てることが当たり前となっているから、この村の子ども達は皆お互いのことを兄弟や姉妹のようにして育ってきている。この村に来て以来もっぱら子守りを仕事としてきたアリシアにとっても、彼らはみんな妹や弟のようなものだった。
その可愛い弟や妹達は、大人達に『森の海』とこちらを区切る山脈近くには近付かないよう、幼い頃から御伽噺に交えてよくよく言い聞かせられている。
いわく、『森の海』には恐ろしい巨竜や魔物ヒプテ・エル・メセムが住んでいて悪い子どもを探して徘徊していて、見つかると頭からぱっくり食べられてしまうだとか。
いわく、『森の海』とこちらを区切る山脈付近は、麓であっても迂闊に近付けば今まで魔物に食われてしまった人間の魂に囚われてしまうだとか。
とにかく子ども達が危険な目に遭わないよう、多種多様な御伽噺を夜な夜な聞かせられている彼らにとって、大人になって狩りへの同行が許されるようになるまでは『森の海』と山脈付近は恐怖の象徴なのだ。だからこうやって、アリシアが一人で出て行こうとする度に目敏く見つけては引きとめようとしてくれる。
子ども達の心配は嬉しくてありがたいものだったが、それを振りきるのはひどく心苦しくもあったから、アリシアはいつもなるべく彼らに見つからないように出ようとしていた。まあ、結局いつもかなりの確率で見つかってしまうのだが。
「おまえたち、あまりアリシアを困らせるんじゃないぞ」
引きとめようとじゃれついてくる子ども達を柔らかい雪のあたりに投げ飛ばして遊んでいたら、雪かきに出ていた大人の一人が助け舟を出してくれた。どうにも年が近いからか、小さな頃から面倒を見てきているアリシアのことを、子ども達はいまいち大人だと思っている節がない。そのためなかなか素直に言うことを聞いてくれないこともあるのだが、本当の大人の言葉には絶大な効果があった。
渋々ながらも、はーい、と素直な返事をすると、ぱらぱらと各々が雪遊びや雪かきの手伝いに戻っていく。ほっと安堵の息をつくと、唐突に下からぐいと上着の裾を引っ張られた。見れば、先程真っ先に駆けてきたミーアが大きな瞳を瞬かせてこちらをじっと見上げている。
「ねーねー、アリシアはどうして一人で狩りをしてもいいのー?大人も一人はぜったいだめって言うのに。おっちょこちょいのアリシアが一人でへいきなら、ミーアもへいきだよ」
「い、言うじゃないの……」
「だってアリシア、この前、転んだときに火氷柱ぜんぶ折っちゃってたじゃん」
「あーーーーー!ちょっと黙ろうかミーア」
「なにいっ!?アリシア、あれやっぱりおまえだったのか!」
先程のルカと同じように抱え込んで手で口を塞いだが、やはり一瞬遅かった。傍で作業していた大人達が一斉に振り返り、その視線に曖昧に、え、えへへ、と笑って誤魔化す。あちらこちらから「やっぱりな」「だと思ったよ」「ちゃんと代わりの火氷柱取ってきてあったからな」「どうせそんなことだろうと」という散々な声が聞こえてきて、腕の中で抱えられるがままになっているミーアを盾にして顔を隠した。
「ねぇーどうしてミーアはダメなの?ミーアも狩りいきたいよー」
ミーアは今年五つになったばかりで、子ども達の中でも特に幼いが、好奇心が人一倍強い子だった。家での内職よりも狩りに興味があるらしく、子ども達の中で唯一狩りが解禁されていて、特例で自由に一人で行くことも許されているアリシアに度々狩りの話をねだってくる。
「ミーア、今日は狩りが目的じゃないんだよ。そりゃお世話になってる身分だし、チャンスがあれば必要な分は頂くけども。あ、ミーアにお土産持って帰ってあげる。何がいい?」
「樹蜜の氷砂糖……アリシア、こんどミーアも狩りにつれてってね」
「わかったわかった。もう少しミーアが大きくなったらね。その時は大人と一緒にみんなで行こう」
「アリシアだけでいいよー」
「だめですー危ないでしょうが」
ぷらぷらと足を揺らすミーアを白い地面に降ろすと「アリシアは一人で行けるのに?」とまだどことなく不満そうな声で尋ねてくる。アリシアが口を開くより先に、傍にいた大人が「アリシアは『森の海』に特別好かれてるからな」と笑い混じりにまた助け舟を出してくれた。
ミーアはまだ物言いたげだったが、節くれだった大きな大人の手で頭を撫で回されると観念したのか、それ以上は言わなかった。他の子のところへ駆けて行く前に、アリシアの裾を掴んでしゃがませると、爪先立ちで頬にキスをする。
「アリシア、帰ってきたらまた『森の海』のおはなしをきかせてね」
「うん、ありがとう」
狩猟を主として生計を立てるこの村では、これから狩りに行く者の頬に残る者が安全を願う祈りをこめて、キスをする習慣があった。夫婦であれば口に、家族であれば頬に、未婚の男女であれば額に、というふうに細かいしきたりなんかもある。狩りに行くわけじゃないとは言ったのだが、『森の海』から彷徨い出てくる獣の多い雪山に行くというのはそれだけで命の危険が伴うことでもある。今度こそ駆けていった少女の後姿を見送るアリシアの背に、また別の大人の声がかかった。
「アリシア、またいつもの日課か?」
「うん」
膝についた雪を払いつつ立ち上がると、腰に差した銃剣に結びつけているお守りが揺れた。子ども達にもらったそれは、草木を複雑に編んだ先に木の実をぶら下げたものだ。魔除けの効能があると信じられているそれを、落とさないように大切に結び直す。
「ほどほどにな。暗くなる前に帰ってこいよ。おまえは『森の海』の精霊に愛された子だが、あそこは本当に危険なんだ。わかってるだろ」
「はぁい」
「ほんとに聞いてんのかおまえ」
「あいたっあいたっわかってます、わかってますって!」
生返事をしていたのが伝わったのか、立て続けに雪玉が飛んできてぶつけられた。からからと笑う大人達の声を聞きながら、ふと視線を感じて横を見ると、ずっとその場で無言で立っていたらしいルカを見つけて目を丸くする。
「あれ、ルカ。まだいたの」
「なんだよ。いちゃ悪いのか」
先程まで無言を貫いていたルカは、無視されていると思っていたのかどことなく不機嫌そうだ。もうどこかに行ってしまっていたかと思っていた内心がバレたら怒られそうだったので、ううんと咳払いをすることで誤魔化して、にっこりと笑顔を向ける。
「そんなことないけど……あ、ルカもお祈りのキスしてくれるの?」
「はあ!?するわけないだろ!」
「えーそっか、残念……それじゃあ私行ってくるから、また後でね」
頭をぐりぐりと撫で回してから、手を振って離れる。ルカへのお土産は、ミーアと同じで樹蜜の氷砂糖でいいだろう。他の子達よりも少しだけ年上のルカはそろそろ狩りへの同行も許される年も近く、最近ますます生意気になってきたがそれでも可愛い弟のような存在だった。
「なあ!オレの狩りが解禁したら、今度その日課、一緒に連れてけよな!」
「ルカが私よりも大きくなったらねー!」
離れたところから笑顔で手を振って、アリシアは今度こそ村を出た。
目的地は『神々の頂き』の山脈の雪山の一つ、その山間にある『森の海』に通ずる隙間だ。
師が忽然と姿を消してから数年、アリシアはほぼ毎日、自分を置いていってしまった師の面影を探し求めて『森の海』を歩いていた。
□
『森の海』は、現在人が開拓し住んでいる土地のすべてを合わせても尚届かないほど広大であると信じられている、文字通りの巨大な森林地帯だ。
世界の面積は、七割が『森の海』であり、人が住める安全な陸地は三割程度と言われ、いまだ人の手の届かない世界最大の未開の土地として知られている。
平面の森の面積だけでも充分に広大ではあるが、それに加え『森の海』は下に深く続いており、樹海地帯と呼ばれるその層は、まるで底のない『海』のように縦に何十もの層が重なるようにして大地が続いているため、その深度に畏敬の念を持って『森の海』と呼ば表されているのだ。世界に果てなく続く円形の大地は、その外側のほとんどが『森の海』に侵食されており、実際の『海』もそのまま『森の海』と繋がって一体化している部分もあると言うので、あながちただの比喩表現というわけでもない。人の手の届かない、未開拓の領域のその土地を、ある者は創世の大地と呼び、ある者は魔物の巣窟である深淵と呼ぶ。
神々が遠く天へと還ったこの時代になっても、常に強固に人の侵入を阻み続けてきたその場所を、人々は恐れ敬い関わることなく隣り合わせで共存してきた。
アリシアは捨て子だ。
赤子の頃に、凶暴な魔獣をはじめとした太古の獣さえ息づく、禁足地である『森の海』の入り口に捨てられていたらしい。
神々が還った後もいまだ神秘が深く残る『森の海』は、人が生きることができない場所である。『マグナ』と呼ばれる、この世界を形作る原初の力が、『森の海』では極めて高い濃度で空気中に溶けているためだ。
マグナとは平たく言ってしまえば人の生命力の源であり、世界に存在するすべての源はマグナに直結し、あらゆる魂はマグナより形作られると信じられている。常人ならば数時間で窒息するような色濃いマグナに満ちた、原初の土地である『森の海』に捨てられながら、アリシアは運良く死ぬこともなく、獣に見つかるよりも先に師に拾われた。
普通の人よりも体に満ちるマグナの保有量が多かったのだろうと師は言い、アリシアを拾った師もまた、アリシアを遥かに凌ぐ膨大なマグナを持つが故に『森の海』に暮らす世捨て人だった。
アリシアの師匠は『森の海』の浅瀬の中に暮らす、風変わりな男だった。
自身は滅多に『森の海』から出ることはなかったが、高名な賢者として広く知られていたらしく、その叡智や知恵を頼りにして日々多くの人から依頼が舞い込んでいた。
けれど師匠のその高名さは、賢者としてでなく『精霊憑き』としてのほうがむしろ名高く、世に知られた越境者であったと聞く。
『精霊憑き』とは、いろいろな解釈はあるが、その体内を満たす血液のすべてがマグナである人々のことを言うとアリシアの師は言った。
人も元を辿れば、その肉体や魂はマグナで構成されている。けれどマグナによって形作られてはいても、本来その肉体に通う血は自身の血でしか有り得ない。肉や草を口にしても自身の体が肉や野菜そのものにはならず、血液となって体内を巡るように、大気のマグナを取り込んでも普通の人間はそれを自身のものとして還元することはできないのだ。
ぜんぜんわからない説明だ、と一向に意味を理解できなかったアリシアに、師は非常に賢明な人であったからそれ以上長々と語ることはなく「つまるところ、マグナとは世界を形作る生命力の一種であり、『精霊憑き』とはそのマグナが人の形を取ったものに近い」と簡潔にまとめた。
『精霊憑き』は他の人間と一見して変わりはないが、普通の人間には持ち得ない多大なマグナをその身に宿し、それによって太古の神秘を行使する力を持つ。そして自身や、アリシアもその『精霊憑き』なのだと。そう言った。
実際、師は自在に天候を操ったり、瞬く間に怪我を治癒したり、『森の海』の巨大な魔物を退けるような奇跡を、容易く行った。
アリシアには師ほどの力はなかったが、師の噂を聞きつけ、類稀なる『精霊憑き』の才能を持った人間が数多く弟子入りを申し込んでくる中、一番年下の弟子として常に師の傍らに置いてもらっていた。
アリシアが十歳になるまで、自分を拾い育ててくれた師匠と、アリシアは常に一緒だった。そして十歳になった頃に、ある日、忽然と師は姿を消したのだ。
それからもう、六年が経つが、アリシアはいまだに師匠の行方を捜していた。
「おっわ、とと」
柔らかい雪の中に片足がずぼりとはまり、そのまま危うく沈み込みかけて慌てて引っこ抜く。山の傾斜に深く降り積もった雪は、踏み荒らされることのない純白の輝きを放っていたが、山で雪に足を取られるというのは時に命取りになることさえある。深く降り積もり、昼間は太陽の光を浴びて輝く美しい雪だが、この地に住む住民はその危険性をよく知っていた。
「昨日の夜はいつもに増して雪がすごかったからなぁ……」
独り言を呟くと、吐息が白く空気に溶けた。
まだ日が落ちるまでには大分余裕があったが、一度太陽の位置を確認してから、休むことなく足を進める。でこぼことして足場が悪く、柔らかい雪が何層にもなって積雪として残っているこの山では、帰りに斜面を滑り降りてくるということもできないため、帰りのことも考えると早く行くに越したことはなかった。
村を出て二時間ばかり経った頃、木々が乱立する林の間に、不自然に揺れる空間を見つける。近付いてゆらゆらと背後の景色が透けて見えるその空間に手を伸ばすと、ゆらりと景色が揺れた。
「今回の入り口もまだ移動してなくてよかった」
もう片方の手も伸ばし、両手で空間に触れると、おもむろに空気を掴むようにして、アリシアはそこを開いた。
先程まで水鏡のように揺れていた景色が、ぐにゃりと歪んで空気の上に景色が上塗りされる。
それはどちらかというと、穴に近かった。穴の向こう側から、異なる景色が覗いているのだ。
空間の揺らいだ境界線、そこに裂け目を作るようにして開いた穴に、体を潜り込ませる。
まるで柔らかい水のような空気が肌に触れた感覚が一瞬残り、次に足を踏み出すと、目の前に現れた空間は一見先程までと何も変わらないように見えた。
けれど確認のために背後を振り向くと、先程まで歩いてきた足跡がない。一面の銀世界は、まるで何者にも踏み荒らされたことがないかのように、何の跡もなく美しくそこにあった。
体勢を立て直し、真っ直ぐに立ってから、アリシアは声もなく目の前に広がる光景をただ黙って見つめた。
今日はたまたま、繋がっていた場所がこの地に近い場所だったのか、踏みしめる地面には雪がある。
けれど先程と異なるのは、雪山の鬱蒼とした林の中にいたはずが、今は見渡す限り木の一本もない雪原が遥か遠くまで続いていることだ。
何百メートルかもわからない先に、雪原の真ん中にまるで空から落ちてきたような巨大な雪岩石が神の如く静謐さで鎮座しているのが見える。近くに行かなくてはわからないが、恐らくアリシアの村の家を四つ縦に重ねても届くまいと思うほどそれは高く、そして大きな歪な岩石だった。
すっぽりとその身に雪を被っているが、その特徴的な姿に思わず感嘆の息が漏れる。そして次いで、その白い息は憂鬱さを交えたものへと変化した。
「今日も見覚えのない景色だ……『森の海』は本当に広いなぁ……」
感動半分、驚嘆半分のような複雑な心持ちで呟く。
『森の海』に繋がる正式な入り口というものは、正確には存在しない。『森の海』は地理的には円形に続く大地の果て、最北端と呼ばれるアリシアの住む村のような辺境の地と隣接しているが、その姿は円形大陸をぐるりと一周する巨大な『山脈』に阻まれ人には見ることができない。
けれど、その場所に訪れることのできる者、すなわちアリシアの師匠の言葉を借りれば『精霊憑き』の人間が『山脈』付近に近付けば、自ずとあちらとの境界線の隙間を示すことがあった。先程したように、アリシアもいつもその『森の海』の作り出す空間の歪みの隙間を見つけて、こじ開けることでこちら側へと渡っている。けれど『森の海』の中の空間概念はあやふやなところがあり、隙間を通って渡れるこちら側は、毎回同じ場所とは限らないのだった。
六年前からほぼ毎日こちら側へと渡って探索を続け、その度にわかる限りの情報を更新して書き足した独自の地図を作ってはいるものの、『森の海』はあまりに広大でいまだにその全体像を掴むことさえできない。アリシアが探している、かつて師と共に暮らしていた『家』やその付近の姿も、いまだに見つかっていなかった。
「……まっ、仕方ないかぁ」
アリシアはどうしようもないことはあまり悩まない。大体、人智を超えた超常現象が日常茶飯事な『森の海』では、人の力など到底及ぶべくもない。そう上手く、思い通りに事は運ばないものだ。
宙に白い息を躍らせながら、少しの間、目の前の殺風景な美しい雪原に見惚れていたアリシアだったが、足元に何かが纏わりつく気配を感じて我に帰った。
見れば、白い蝶が数羽、繊細な羽を揺らして踊るように周囲を飛んでいる。
「おおーフォロウ蝶だ。よしよし綺麗だね。私のマグナに反応して来たのかなー……ってはっ!」
指に止まった蝶が、きらきらと輝く鱗粉を雪の上に落とすのをにこにこと眺めていたアリシアだったが、忘れてはいけないことを忘れかけていたことを思い出して立ち上がる。驚いた蝶達は、ふらつくようにアリシアの指から飛び立ったが、離れていくことはなく周囲をふよふよと浮遊していた。
「忘れかけてたー!よかった、フォロウ蝶見て思い出した!この穴を塞いでおかないと、蝶々なんかは危ないよね、ごめんね」
先程通ってきた空間の穴を振り返る。
両手で左右の空間をつまむようにして掴み、閉じるように裂け目を合わせた。
「《クラウディレ》【閉じる】」
本当は開けた時と同様、これくらいの簡単なものならわざわざ言の葉にマグナをこめて念じなくても問題ないのだが、念の為に細心の注意を払って隙間を閉じた。
アリシアが使えるマグナ術、通称マ術は師からの教えを受けたものと、後は感覚的なところが多い。何せ教えを受けられたのが十歳までだったので、アリシアはこの事に関してはあまり多くのことが出来るとは言い難かった。
マ術を行使する際、マグナに働きかけて命ずる内容をより明確にイメージするために言の葉は非常に有効だ。なので、自信がない時はアリシアはいつも意識してマグナを言葉にこめていた。対応する文句がわからない時は、マ術言語ではなく普通に口語を使ってしまっているが、その辺は適当だ。
穴が空いていた場所が、ゆらゆらと水面のように揺れながら、やがて最初に見つけた時と同じような空間の揺れに戻る。厳重とは言い難かったが、精霊憑きでなければ知覚しない程度に戻ったのでよしとする。
万一に旅人や遭難者がこの隙間を見つけても、『森の海』の中に入ってしまうぐらいなら雪山にいたほうがまだマシだ、ということをアリシアは村の狩人達からよく聞いている。空気中のマグナの密度が高い『森の海』は、精霊憑きでない人間にとっては死の世界に等しいものだ。偶然にも間違って足を踏み入れようものなら、数分も持たずに窒息死する危険性を重々伝えられていたため、アリシアは『森の海』に訪れる際は、その辺に特に注意していた。
蝶々が、戯れるようにひらひらと体の周りを飛び回る。
羽を揺らす度に、白銀に輝く鱗粉が宙に漂い、空気中のマグナに溶けて小さな光の帯を残す。
それは、触れ難い神聖さと無邪気さを持った儚い命にきらめきだ。彼ら『森の海』に根付く命は、『森の海』を出ては決して長く生きられない。指の先に、再び蝶々が止まった。
「よしよし…」
アリシアがこちら側へと渡るのとは逆に、その空間の作り出す隙間を通って、蝶々以外にも『森の海』から彷徨い出てくる獣などがいる。
『森の海』はその広大な世界の中で独自の生態系を持っているとされ、そこに住む獣達は、伝説に謳われるような聖獣や、その毛皮や血がまじないの材料として外の世界で高値で取引きされるようなマ獣も存在していた。
こちら側へと時折出てくる彼らを狩ることで先祖代々この地で生き抜いてきた村人達が、アリシアのことを『精霊に愛された子』と呼ぶのも、アリシアが『森の海』へと渡ることができる人間だからだ。彼ら最北端の狩人は、『森の海』を精霊の住む土地と考え、その恵みに感謝と畏敬の念を持っているため、『森の海』に渡ることのできる精霊憑きのような存在も尊重する。唯一の後見人だった師が消え、今や天涯孤独の身であったひとりきりのアリシアを、村人達が忌憚なく村に受け入れてくれたことにも、そういった背景があった。
「フォロウ蝶がいるってことは、蜜樹とか花畑が近くにあるはずだよね。うーん、でもこのフォロウ蝶、色が白いし、この辺りはしばらく雪原が続いてるみたいだし……おまえたち、どこからきたの?」
フォロウ蝶は、『森の海』の樹木や花の糖蜜を食べる生き物だ。
大体、『森の海』のどのような地域にも万遍なく分布しているのだが、見た目はその地に満ちるマグナに影響されやすく、気候や土地の特徴の違いから場所によって色が異なる。
周囲に広がる雪のように真白い蝶に問いかけてみたが、当然のことながら答えは返ってこなかった。代わりに、ひらりと指先から飛び去った蝶が、ふらふらとどこかへ飛んでいこうとする。恐らく、元いたところに戻るのだろう。彼らは遊び好きなのだ。いや、実際に本当にそうなのかは知らないが、よくひらひらといろいろな場所を飛び回っている彼らにまとわりつかれることが多いので、アリシアはそう思っている。
彼らについて行くうちに、この周辺の土地勘も掴めるかもしれない。
思わぬ道案内を掴まえた幸運に喜びながら、重い雪の上に足跡を残しながら、蝶を追った。