01.
年季が入った古めかしい列車のコンパートメントの中で揺られながら、アレシアは目下のところ吐き気と戦っていた。
最北端の土地から氷海を越え、都市間を繋ぐ長距離列車の中。
狭苦しいコンパートメントの個室には現在アリシアしかいなかったが、仮にこの場に他に乗り合わせていた者がいたならば、少女のあまりの顔色の悪さにぎょっとしただろう。
すでに何週間もの間ぐるぐると正当の見当たらない煮詰まった思考と共にいたせいで旅の出立時から重かった気分が、ここ数日土地が変わって慣れない気候のために崩し気味な体調に追い討ちをかけられるようだった。
「う、うう……気持ち悪い……」
個室に一人なのをいいことに、というより最早普通に座っていると吐きそうで、座席からずり落ちるように降りると床に座り込み、顔を座席に突っ伏す。
吐き戻すと言ったところでここ数日は村を出る際に餞別にともらった携帯食料も路銀も厳しく、今日口にしたのは角獣の皮の干物を一切れだけだったので、出るものも出ない気もするが、そういう問題でもない。
幸いにも、目的の土地は次だ。そうは言っても長距離列車なので優に後二時間は残っていたが、それでもこの三ヶ月の長い旅路の終着点が近いのも確かだった。
溜息を吐いて、目的地に近付いてから着替えた自身の服を見下ろす。自分の居候していた村ではほとんど目にすることもなかった上質な制服は、いまだ体に馴染んでいるとは言い難い。アリシアの体調が悪いせいでそう見えるのかもしれないが、元々そう多く服を持っていなかったためにすでに旅の道中でも何度か着用した制服は、村を出てきた時よりも少しくたびれているようにも見えた。
制服の左胸の辺り、四大精霊を象った銀の徽章が日の光を反射して輝くのを、ぼんやりと見つめる。
道中、今年十六になったばかりのまだ子どもと言える年齢のアリシアの一人旅を不審がられることも何度かあったが、この徽章を見せればすぐさま開放された。
世界の八割を覆う『森の海』と隣り合った土地の中でも一際貧しく、行き抜くのに厳しい極寒の地から旅立ったばかりで何も知らないとは言え、アリシアが思っていた以上にこの徽章に属する機関―――通称『聖域の庭』は大陸全土に大きな影響力を持つらしい。
普通、まだ少女と呼べる年齢の女子が一人で出歩くなんてことは常識の外であり、旅なんて尚更だ。あの極寒の地であった狭い村の中でも子どもは獣を避けるため一人で外に出ることは許されず、その中では特別だったアリシアでも、今回ほど長い旅は初めてのことだったので、疲労も当然と言えた。
「後ちょっとで着く後ちょっとで着く後ちょっとで…うおえっ」
どうにか吐き気を紛らわそうと念仏のように小声で唱えていたら逆に吐き気が増して撃沈する。後ちょっとで着く現実が不安で堪らなかった数日前の自分のことなど、すでに頭の片隅から吹き飛んでいるくらい、気分の悪さは切羽詰ってきていた。
一言で言えばグロッキー。もっと言えば、今すぐ吐きそうだ。
列車に乗ったのは初めてだったが、こんなに吐き気を覚えたのは以前ウォッカグマの解体を手伝っている時につまみ食いして酒気に当たり、悪酔いした時以来だった。あの時も二日酔いに散々苦しめられて、どうして大人達はこんな劇物を喜々として飲むのだろうと本気で疑問に思ったものだったが、その時の感覚を今まさにアリシアは思いだしている。
「うううおえ……」
アリシアの住んでいた村は、北端に位置する極寒の辺境地だけあって、時に新鮮な野菜や果物、火付け石などよりも酒の需要は高かったが、アリシアには一向に酒の良さはわからなかった。そして酒のことを考えたからか、心なし吐き気が増した気がする。余計なことをしてしまった。最早ただ顔を伏せて体を揺らさないように蹲るしかできないアリシアの耳に、やがて列車がプラットホームに入った音が聞こえてくる。氷海を越えた辺りから徐々に増えてきているように感じていた人の声が、ここではより一層増えてコンパートメントの扉越しにも人が行き交うがやがやとした喧騒が伝わってきた。ようやく目的地―――『神都アルフヘイム』に着いたのだ。アリシアが北端の地を出たのは、これが初めてのことだった。湧き上がる好奇心に、吐き気を堪えて僅かに顔を上げた、その時。
固く閉ざされていた列車の扉が、唐突に開いた。
列車の個室には窓こそあったものの、酷い吐き気のせいで陽の光さえ煩わしかったため、備え付けのカーテンは随分前から閉じていた。そのため、差し込んできた光の眩さに、視界が一瞬潰れる。ぱちぱちと数度瞬きをすると、ようやく明るさに瞳が馴染んできて、目の前に立っている人物の姿が見えた。
次いで耳朶を打った低い声に、瞳を見開く。
「迎えに来た。アリシア・シルバ」
コンパートメントの扉を開け放したのは、重そうな黒いコートを着た若い男だった。
無造作に肩ほどまで伸びた金髪や、一目で目を奪われる整った顔立ちは輝くように美しいが、まじまじと見れば見るほど、何故か驚くほど温かみを感じさせない。
どころか、絵のように静止した表情と、長めの前髪のせいか、どこか陰鬱な雰囲気さえある。アリシアを真っ直ぐに見下ろす、その薄い黄金色の瞳も無感動で、動かない表情からは何の感情も読み取ることができなかった。
アリシアは、自分の名を呼んだこの男の名を知っている。
逆に言えば、名前と顔以外のほとんどを知らない。
この男の名前は『ヴィルヘルム・エヴァルス』。
三ヶ月前、アリシアを殺しかけた男だった。
返事をしないアリシアを不審に思ったのか――――無表情のまま全く表情筋が動かないせいでアリシアには本当のところどうなのか検討はつかなかったが―――男がコンパートメントのステップに足をかける。
相変わらず床に座り込んだままのアリシアとの距離が一気に狭まり、男はほとんど真上から覗き込むようにしてアリシアを見下ろした。
男の金髪が、男が顔を傾ける度さらさらと揺れて星屑のように煌く。
「………床は座り心地が良かったか?」
無様に床に座り込んで動かないアリシアを、訝しげに見下ろしたまま、男が呟く。
見当違いの発言だが、男の声音は本当に不思議そうで、嫌味ではないのだろうということはかろうじて察せられた。
その背後からは行き交うたくさんの人の越えや、ホームのどこかで汽車の警笛が鳴る音がどこか遠くに聞こえている。その雑多な音を無作為に耳で拾うアリシアの上に、男の手が伸びてきた。
「荷物はこれだけか」
座席の上に放り投げてあった旅行鞄を取り上げ、今度は反対側の手でアリシアに手を伸ばしてくる。アリシアは、その手が何を意味するのかすぐに思い至らず瞳を瞬かせたが、男はどうやらアリシアが立たせてもらうことを待っていると思ったらしい。
咄嗟に否定しようとアリシアが口を開きかけるのと、動きのないアリシアに焦れたのか男がアリシアの手を取って引き寄せるように立たせたのは、不幸にも同時の出来事だった。
そう。
一瞬、忘れていたが。
アリシアは吐きそうだったのだ。
「っう、おえええ」
「………は……」
眼前の上等そうなコートに、堪える間もなく悲劇はぶちまけられた。
呆気に取られたような男の声を耳元に聞きながら、アリシアはあらゆる意味で自分の意識が遠くなるのを感じていた。