プロローグ
「シア」
『森の海』は、そこがまるで海のように深い森であることを示す名前だ。
深く、深く、遥か地層まで続く森はその底を見通すことはできず、一度その奈落に落ちてしまえば二度と戻ってくることは叶わないと兄弟子や姉弟子達からと何度も脅されたことがある。『森の海』の外の世界に出れば、滅多に人が足を踏み入れることのないこの禁足の地に対する人々の想像は、更に御伽噺染みているという。アリシアはほとんど外界に出たことがなかったが、時々兄姉弟子達が話してくれる断片的な話では、外の人々は『森の海』を精霊や恐ろしい怪物が住む人外魔境の地だと思っているらしい。それは特別間違った考えではなかったが、それだけではないのにとアリシアはいつも少し残念に思っていた。
「シア」
何度も自分の愛称を呼ぶ声を遠くに聞いて、アリシアはそちらに駆けて行く。
フードを目深に被り、頬と口元しか出ていない男に後ろから抱きつくと、不意打ちだったにも関わらずよろめくこともなくしっかりと抱きとめられた。
「シア、あまり遠くへ行ってはいけないよ」
「はい、師匠」
たしなめる声は穏やかで、返事をしながらも、アリシアは自分だけの師ではないこの人がわざわざ自分を探してくれたことが嬉しかった。
師は日々を忙しく生きることをせず、動かぬ石のように静かに暮らすことを好む人だったが、決して暇な人だったわけではない。むしろ、見識に優れ、智慧を知り、預言者のようにあらゆることを見通す神の如き眼を持った師の下には、いつも彼に救いや教えを請う人達がひっきりなしに訪れていた。そのどれに対しても決して無下に扱わず、慈悲深く、穏やかであった師は、彼の弟子であった誰にとっても誇りだっただろうと思う。特に幼い私は、この世で彼に知らないものなんてないのだろうと本気で信じていたほど師を尊敬していた。そして、それ以外にもただ単純に、私を拾って育ててくれた師のことが好きだった。
「シア、ご覧」
師は、しがみついた子どもを引き剥がすこともなく、自然な動作で引き寄せて抱き抱えた。指で指し示された方角に視線を移しながら、アリシアは何事かと瞳を瞬かせる。けれどすぐに、その瞳を目一杯見開いた。
この『森の海』と呼ばれる土地は、その名前から鬱蒼とした深い森のような想像を与えるが、実際は森と言っても木々が密集しているところもあれば、切り立った岩山のような渓谷や、下層へと続く海域や、開けた草原のような場所まで存在して、一口に『森』と表し切れない色鮮やかな場所だ。外から師を訪れて来る人々は、『森の海』を恐ろしく危険な場所だと厭うことも多かったが、アリシアは師と共に暮らすこの『森の海』が好きだった。
背の高い樹木が立ち並び、草花が生い茂った迷宮のような森の中は、木々の間から満月の光が漏れて昼間のような淡い輝きに満ちていた。海のように深い夜の闇間を切って、星々が砂粒のような煌きを放つ。周囲とは違い、一箇所だけ天に向かって小さく開けたその場所から覗く、遮るものなどなにもないその夜の空。
あまりに神々しく、息を呑むほどに美しい。夜の闇の中を薄い雲が流れて域、深い蒼と黒と翠が混じりあった水底のような夜の中に、ぽつぽつと光を燃やす星の輝きが瞳に焼き付く。師と共に、師が見ている世界を見つめるのは、アリシアの日々の何にも代え難い幸せでもあった。
人の言うように、『森の海』には、確かにたくさんの危険があった。けれどそれを差し引いても余りあるほどに、とても美しい世界だ。だからアリシアは、それをこの世のほんの一握りの人しか知らないことが、なんだかとても勿体無いように思えてそれがずっと残念だった。そしてそれを師に零せば、師は葉が囁くように笑って、そうおまえが言うのならここは楽園なのだろうねとおかしそうに言うのだった。
差し込む月の光が、光に反射するように角度によって銀と金に煌いて、翠と蒼の闇の中で揺らめく。師の言う通り、きっと、私にとっての天の園は、水にたゆたうような空気に満ちたこの場所だったのだろう。
そこに流れていた時間は、常にとても穏やかだった。
きっとその事実だけは、これから先何が変わってしまったとしても、変わることはない。
だから、アリシアは、師を憎んだことは一度もなかった。
普段は陶器のようにひやりとしていた師の、驚くほど熱い手の温度。
突き刺さるような見開かれた瞳の色。そこに宿る、獣のように爛々と輝く鈍い光に、暗い熱。真上から零れ落ちてきた水晶のような汗の雫が、頬を伝った。
すまない、と囁かれた掠れた悲痛の声を、今でも思い出せる。
体の表面を刻む痛みは永劫に続くかと思われるほどで、声が嗄れるほど上げた自分の悲鳴が、永遠に森に木霊し続けていた。
何十、何百もの針に貫かれているかのような悪夢の中、最早耳は聞こえ続ける音の意味を拾うこともできなくなった。
そうして、歪む視界の中で、穏やかだった世界はぐにゃりと反転したのだ。
それが、アリシアが師を最後に見た、六年前の記憶だ。