第六話 神様合一 俺もしかして危ない人!?
いよいよ佳境がせまってまいりました。
「つ、遂に来てしまった」
階段を上がりきり、屋上と階下とを隔てる扉を前にして、棗が呟いた。
階段を上がるにつれ心臓は鼓動を早め、握った掌には汗が滲む。
「……」
ゴクリと、自分の唾を飲む音がやけに棗の耳に残った。
本当に大丈夫なのだろうか、そう棗の脳裏を一抹の不安が過ぎる。
(余り気をやるな。任せておけ)
前触れ無く、棗の脳内で聞き覚えのある声が響いた。先程まで教室で共に騒いでいた相方こと、縁結びの神である。
「……あ、ああ」
どうにも脳内に直接語りかけられるのは変な気分だと微妙な表情を取る棗。
この奇妙な感覚を初めて味わったのは今から数分前、神が消えた時に遡る。
棗が目を開けると、教室には誰もおらず、時間も普通に流れていた。暫くぼうっと神が居た筈の場所を見るが、神がいた痕跡は無い。自分の体を見回しても、何処にも異常は見られない。
無機質な音を毎秒規則的に発する針がきっかり半周して、棗は先程の事は白昼夢ではと思い始めていた。緊張の余り意識が落ち、在りもしない幻影を見ていたのではと。
改めて考えてみれば、放課後になってから起こった出来事は自分にとって都合が良い事ばかりでは無かっただろうかと、棗はこれまでを反芻する。緊張を解され、時間は止められ、しかも告白を失敗しないように神様直々に助けてくれると言うではないか。余りにご都合が良過ぎる。
だが、棗は失念していた。もしかしたら余りに悲惨な過去なので、頭が無かった事にしたいのかもしれない。熱々の蕩けた煎餅に散々体を焼かれたり、砂糖水の風呂に入れられたり、煎餅を目線代わりにされたりしたにも関わらず、これらの出来事は彼の脳内から完璧に抜け落ちていたのだ。
もし覚えていたならば、多少は自分に都合の良い妄想説を疑ったかもしれない。まあ、それでも数々の不思議現象を現実として捉えられたかどうかは定かでは無いが。
「そうだよなあ、そんな事ある訳ないよなあ。何馬鹿な夢見てんだろ」
棗がやれやれとため息を付く。
「……そろそろ、屋上行かないと」
力の余り入っていない口ぶりで棗が呟いた。
笹野からの告白がどうでもいい訳では決して無い。無いのだが、拭えない不安に有り得ない白昼夢を見た今では、どうにも気分が下降するのを止められ無い。
「俺、どうなるんだろ」
何となく下に視線をさ迷わせながら、棗が教室から出るべくドアに手をかけた。
幾ら気分が乗らないからと言っても、行かないなど出来る訳も無く、棗は疲れた様子でドアを開ける。
(たらりらりん。棗はレベルアップした)
「しねえよ!? なんだドア開けてレベルアップて!?」
(ボケが一上がった。ツッコミが五上がった。冷静さが十下がった。男気が百下がった。理性が消え失せた。つーかお前が存在する意味がわからねぇ)
「殆ど下がってる!? しかも最後の何!? 意味がって、なんで自分に存在の意味とか言われなきゃならんのだ!?」
ドアを開けた瞬間、棗の頭におかしな考えが浮かんだ。考えてもいなかった事が急に頭に響くように広がったのだ。しかも人事のように。
まるで頭に誰か自分とは別の意志が語りかけてくる感覚に、思わず棗は一人でいるにも関わらずツッコミを入れていた。
(お、ナイスツッコミ)
「だからなんでこんな事が浮かぶんだよぉぉおお!? 一人でしかも自分の頭にツッコミ入れてるなんて――」
(かなり危ない奴だな)
「言われなくても分かってるよ!」
(本当に分かってる奴はここで言い返したりせずに黙るものだと思うが?)
「うっ……」
頭に浮かぶ言葉に思わず唸り、その通りに押し黙る棗。
棗自身は一言も発しないのだが、生憎頭に響く言葉に止まる気配は見られない。
(何と言うか、鈍い鈍いとは思っていたが、此処まで来ると逆に清々しいな。よくそんな事で今まで生きて来れたものだ。あれか? 絶滅危惧種かなんかで誰かの保護下にあったとか? ま、こんな小汚い餓鬼を保護する物好きはそうそういないだろうな)
自分自身にけなされるのは果たしてどんな気分なのか、棗の落ち込みようは凄まじいものだった。床に両手両膝をついてさめざめと泣いているのだ。せめてものプライドなのか、声を殺しているのが本気で凹んでいるのを余計に強調させる。
(泣くな汚い)
「汚――汚いってなんだよ!? 慰めるなり何なり、百歩譲って引くとしても汚いは無いだろ汚いは!!」
あまりの暴言についに棗が視線を上げて爆発した。とは言え、周りから見れば一人で勝手に盛り上がっているだけに見えるし、脳内の第三者も怯む様子は無いが。
(汚物を垂れ流す様を他にどう表現しろと?)
「やめてその表現!? 何か漏らしたみたいだから!!」
(だだ漏れじゃないか)
「ある意味正しいけど、けどね!?」
(あーはいはい、時間無いからネタばらすぞー。今お前は俺を自分の思考と思ってるみたいだが、俺は縁結びの神だ)
「……へ?」
いきなり浮かんできた言葉に棗が間抜け声で答えた。自分で自分が信じられ無いという言葉を初めて理解した感じである。
(簡単に言えばお前の思考に干渉してんだよ。今は表面上のもんに留めてあるが、やろうと思えばお前の意思決定、吐き出す言葉なんかにも干渉出来るぞ)
説明口調でつらつらと現状を語る神に、棗はぽかんと、それこそ頭を真っ白にしてしまう。
折角妄想と言う事で片付けたのに、原因たる存在が再び現れた。しかも、相手は文字通り自分の頭の中にいて、自分の考えにも干渉出来ると宣う。事態の受け入れる以前に頭が付いていかないのも無理の無い話だ。
「お、俺、病院いくべきかな? 外科? それとも頭の内側だから、内科? 耳から覗いたら見えるのか? はっ! もしや今レントゲン撮ったら俺巨大ロボット状態? でも格好いい以前に頭に人入ってたら正直ヤバイよな。頭に小人さんが住んでるんです? ……止めとこう洒落にならない」
混乱の極致に達したのか、的外れもいい所の戯れ事をぶつぶつと呟く棗。頭を抱えてする様子はまさに正気を失っている風体だ。
(落ち着け……つっても無理か。むむ、仕方ないな)
加速的に興奮していく棗に対し、何やら神はするらしい。あたかも苦渋の決断のような言葉とは裏腹に、神は随分楽しそうな口ぶりで言った。恐らく姿が見えたなら、意地の悪そうな顔で笑っているに違いない。
(ふふふ、これは仕方ない事なのだよ。そう、断腸の思いって奴だ)
最後に建前丸出しで笑いながら宣うと、神は少しの間口を閉ざす。
急に頭から気配が消えた神に棗が気付き、ん? と気をやった、まさにその瞬間。
(わーーーー!!!!!!)
「▲□∞★○!?」
棗の頭を粉々に吹き飛ばしても有り余る音量が彼の中を駆け巡った。
物理的なものでは無いので鼓膜が破れるといった外傷が出来る心配は無いが、鼓膜が破れた方がまだマシだったかもしれない。耳から入って来る音量では無いので避ける事叶わず、狂音はいつまでも彼の中で好き勝手に暴れ回るのだ。
神が叫び続ける事、たっぷり十秒。
たかが十秒と思うかもしれないが、棗にとってはまるで永遠に続く拷問のように感じられ、彼の思考の全てを塵も残さず消し飛ばした。
(さて、これだけやれば混乱から醒めたろ。おい、とりあえずさっさと行くぞ)
「ぷしゅうぅぅ……」
命令口調で言う神に帰ってきたのは、棗の気の抜けた残骸のように発せられた音。白目を剥き、口からは魂のようなものが、もひゅーと言う効果音を出してゆらゆらと上がって行く。
(……ちと、やり過ぎたか? ありゃ、頭ん中本当にからっぽになってしまった)
どこをどう確認しているのかは分からないが、棗の思考が飛んでいる事を知った神がしまったなという雰囲気を出す。
棗はと言えば、口から立ち上る魂らしきものが静止し、何事か喋りだしたではないか。軽いホラーである。
「お、お代官様……あ〜れ〜」
(いつの間にか魂が着物姿で帯引っ張られてクルクルしとる……)
尤も、端から見れば馬鹿丸出しの緊張感ゼロどころかマイナスではあるが。
流石の神も突然の魂の暴走にやや驚いたようで、興味深げにしていた。
(思考が飛んだっつーか、なんつーか、面白いにも程があるだろ)
「おにぎりジャスティス!!」
(誰に向けてのメッセージだよ。親指立てても格好良さ微塵も無いし、歯を光らせるな欝陶しい……と、そろそろ向かわせるか、あっちも屋上に着いたみたいだしな)
どうやら神は相手の笹野の方にも何かしらの手を打っているようで、彼女の行動を把握しているらしい。
言うや否や、神は瞬時に棗の表層意識とは別の、記憶領域へと潜って行った。
そして再び戻って来た神は、実に何気ない様子で話し出す。
(もう遊ぶのはこのくらいにしてさっさと屋上に行くぞー。今すぐ正気に戻らないと……)
ここまでは、棗を戻すには余りにも至らず、未だ魂は好き勝手に暴走するだけだった。
聞く耳など一切持たない様子で、くねくねと踊っている魂に、神が掘り起こしてきた爆弾が遂に投下される。
(三年前友人との賭に負けた罰ゲームでじ――)
「今戻りました!! ええもう完全に!! 完璧に!!」
神が言いかけた瞬間に、魂は不意に伸ばされた棗の腕にそれこそ残像が残る勢いで口内に押し込まれた。また、魂が戻ったと同時に棗が脳内の言葉を掻き消すかのように叫び待ったをかけたのだ。
(よし、行くぞ)
「イエッサー!!」
びしりと敬礼をして教室を出た棗の中で、神がぼそりと呟く。
(女装した揚句教い――)
「駄目ーーーー!!!!」
その後、何回か暴露を目論む神を牽制しつつ、ようやく棗は屋上前の扉まで辿り着いたのだった。
「…………」
思い出して、自分の不憫さに思わず口元を押さえて啜り泣く棗。
(はいはい、これから告白される奴が泣いてどうする。それより、返事は考えて来たんだろうな?)
涙の原因はさらりと流し、棗に問う。
「う? ま、まあ一応」
歯切れが悪いながらも、先程まで泣いていたとは思えない位にこちらもあっさり返した。どうにも引きずらない性格の二人である。
(よし、ゴー!!)
「いや、ゴーって。もう少し待ってくれよ」
(……なして?)
「あのなあ、こっちも緊張してんのやばいの爆発しそうなの」
心底不思議そうな神に棗が心臓の位置を手で押さえながらまくし立てる。やはり意識が向いてしまうとどうにも緊張に身が固まるらしい。
(心配すんな、ちゃんとフォローしてやるから。待たせたら悪いだろうが)
「う、で、でもだな……」
待たせたら悪い、の部分に反応を見せるも、あと一歩押しが足りない。神もそれを感じ取ったようで、続けてトドメとばかりに言い放つ。
(情けない、んな事では嫌われても知らんからな)
好きな相手から嫌われると言う文句は、特に思春期真っ盛りの年代において多大な影響力を持つ。現に棗も、その例に漏れず一気にやる気を見せた。
「よ、よし。行くぞ」
単純な奴だと、僅かに苦笑しながら、神は棗に何も言わず静観していた。
カチャリと、古くも新しくもない手応えと音を響かせ、扉が開く。
視界いっぱいに広がる赤焼けた風景に始め気を取られるも、次第に棗の目はその一点、朱光を背に佇む少女へと視線が吸い寄せられる。
笹野柚子が、そこに居た。
「き、来てくれてありがとう。東雲君」
恥ずかし気に言われた感謝の意に、柚子に見惚れていた棗は一際心臓を跳ね上げる。
互いに顔に朱を差し、ただ、時が流れるままに身を任す。
今ここに、最後の舞台が幕を上げた。
いやはや、長かったですねぇここまで。