第六話 悲劇は突然やってくる
「おそくなってごめん!」
横で琴美が申し訳なさそうな表情をしながら顔の前で手を合わせて謝ってきた。
「ああ、別にいいよ。俺も楽しかったし」
海斗が店員に八つ当たりをしてから、その後もいくつかの店に足を運んでいた。琴美が買っ ていたものは海斗では手を出せないような高い代物で、唯一海斗の財布にやさしいものがあったとすれば『石石鹸』ぐらいだった。琴美がシャンプーを買いにいくと言って向かったのが薬局などではなく、シャンプー専門店という初めて海斗がみた店だった。そこの商品も高かったが、『お肌がすべすべになる石石鹸』というのだけ、安く売られていたので買うことができる範囲の値段だった。まあ買わなかったが。
琴美には「華夏ちゃんに買ってあげたら~?」と言われたが買わなかった。華夏はそういう、身の回りのものにうるさいのだ。シャンプーも海斗とは違うし、ボディーソープも違う。何かこだわりがあると思っているので華夏は買えない、と琴美に説明すると「じゃあ、カイトがつかったらいいじゃん! 買ってあげるよ!」と言われた。
男がすべすべになったところで何の得にもならねえよ! と、突っ込みを入れたりしていたが、琴美が買っていたシャンプーはその石石鹸の何倍もしていた。女の子はこんなにお金がかかるんだな、と身にしみて分かった海斗の頭の中に華夏がよぎった。
(あいつも時期にこんな高いもの買い始めるのか…?)
琴美が手に取っていた商品を思い出す。まあ、そんなことはいつか来る運命ならそこまで考えなくてもいいだろう。
そして今、海斗は琴美と一緒に家に向かっている。
琴美の家は海斗の家と同じ方向にあって、学校は海斗の家より少し遠いらしい。だから海斗の家までは琴美とは一緒だ。
「あー、絶対華夏怒ってるだろうな。寝てくれてたらいいが」
辺りはすでに火が沈み、月が上っている。
「華夏ちゃんになにか買ってあげたらよかったのに~」
「華夏は好き嫌いが多いからなー」というか買ってやりたくないのが本音なのだが。
海斗と琴美が住宅街の角を曲がる。そこの坂を真っ直ぐ行くと海斗の家に着く。
「あれ? なにかあったのかな?」
立ち止った琴美が坂道の先のほうを見ながら言った。海斗も同じ方向に視線を向ける。そこにはパトカーと消防車が止まっていて周りには人だかりができている。だがその人だかりができていた場所は海斗自身がすぐに分かった。
海斗は家めがけて走り出す。「ちょ、ちょとお! まってよお!」と後から琴美が追いかけてくる。
海斗が家に着くと玄関の扉がなくなっており、木炭を燃やしたような焦げ臭い匂いが漂っていた。
「すみません! 通してください!」
海斗は家の前にいる人ごみをかき分けながら家に入ろうとする。すると家の入口付近でテープが貼られており、そこにいた大柄な警官に「入ったらだめだ! 下がれ下がれ!」と言われた。だがそんなことで海斗が止まるわけがない。
「俺はここに住んでるんだ! 妹は、妹はどうなってるんだよ!」
海斗が叫ぶと警官は冷静に「もしかして一条海斗さんですか?」と尋ねてきた。今すぐに華夏がどうなっているのか心配でたまらなかった海斗はその入口に立っている警官の横を通り、階段を駆け上がった。
「あ、ちょっと君!」呼び止められるが気にする気もなかった。一気に階段を上り、玄関に入る。扉は粉々になっていて周りに飛び散っている。外でいた時よりも焦げ臭さが鼻につく。「かな!!」海斗は靴を脱がずにリビングに入る。そこには担架に乗せられている華夏とそれを持ちあげている救急隊員二人、警官が四人ほどが薄暗いリビングにいた。
「かな!! どうしたんだ!! 何があった!!」
海斗は横にされている華夏の肩をつかみ、叫んだ。
「なんだね君! ここには入ってきてはいけないぞ!」小太りで顔の濃いおっさんが海斗に怒鳴った。
「俺はここに住んでる一条海斗だ!」そう言うとその男が「なに、ご家族の人であったか! すまない」と誠実な対応で謝ってくれた。
「…あにい?」
隣でかすかに声が聞こえた。振り向くと華夏の目が少し空いている。
「華夏! 大丈夫か!」
華夏は無理に取り繕った笑みを浮かべながら話した。その笑顔はとても痛々しく、海斗の心を強く締め付ける。
「……なに、ビビってんの? それよりさ、どうしよっか玄関。あんなめちゃくちゃにされたんだから、絶対に捕まえて慰謝料と修理代弁償してもらうんだから……うっ」
華夏が辛そうな声を漏らした。
「華夏、最後に教えてくれ。その男はどんな服装だったか覚えてるか?」
「……フードを被ってた」
「ありがとう」そう言って海斗は腰を上げた。「もう大丈夫です。お願いします」と救急隊員に言うと、華夏は外の救急車に運ばれていった。その後、入れ違いで琴美が入ってくる。
「カイト! 華夏ちゃん大丈夫なの?」
「ああ、意識はあった」海斗は下を俯いたまま答えた。
「しかもこれ…ひどい」
琴美は周りを見渡す。部屋はは荒らされていて、椅子は倒れ、照明は割れている。棚から本や雑誌が落ちて床に散らばっているし、壁に掛けられているカレンダーや壁紙は燃えていた。
「華夏が、言ってた。さっきフードを被った男が来た、って」
「…じゃあこれは、あの時の男が!?」
「多分、そう」
海斗はずっと下を俯いている。
琴美は何かに気付き、机に置いてある紙をとった。
「カイト…これ」
渡されたのはポストカードだった。表には『海斗君へ』と書かれていて、送り主の名前などはない。裏には『Waiting at school』と筆記体で書かれていた。
読み終えた後、海斗はそのカードを右手で握りつぶす。
「これって…やっぱり昨日の人だよね?」
琴美が海斗に再度尋ねる。
「……ああ」
すると「なんだ、お前らこれをした犯人がわかるのか!?」とさっき海斗を怒鳴った警官が尋ねてきた。きっと琴美との話を聞いていたのだろう。
「……わかるけど、わかんねえよ」
「は?」警官は首を傾げる。
「わっかんねえんだよ! なんで華夏がああならなければいけなかったんだよ!! 関係ないだろーが!! それになんで俺らを襲うんだよ!! わっかんねえんだよぉ!!」
海斗は小太りの警官に泣き崩れながら叫んだ。
「カイト…」
琴美は泣いている海斗を見ていることしかできなかった。
「カイトッ!!」
海斗は琴美に呼ばれて立ち止った。
「……なんだ」
「本当に…行くの?」
海斗と琴美は今、桜翔学園の正門前にいる。海斗は琴美に背を向けながら答えた。
「…ああ」
海斗の心から怒りと悔しさが込み上げてくる。スーパーでは自分だけでなく、琴美にも危険が及んだ。そして関係のない妹や家にまで強襲してきた。海斗は必死にあの男とどこかで会ったか思い出そうとしているがまったく思い出せない。それに海斗自身、こんなことをされるような恨みを買った覚えもない。
(これまで普通に生活してきたんだ。なのにあの男は…!)
海斗の顔が歪む。ギリッという歯ぎしりをたてて眉間にしわを寄せている。その姿をみた琴美はまた何も言えなかった。
「で、でもこういうのは警察に――」
「今はまだ無理だろ」
琴美が説得しようとするのを海斗は遮った。
普通の警察官は超能力が関係する事件や殺人は鑑識外だ。ただの人間が能力者に立ち向かっても到底負かすことはできないだろう。だから能力者の揉め事は『能力警察』通称という組織が担当している。
だが、その組織はまだこの近くには設立されていない。建設途中なのだ。だから海斗と琴美はどうしようもできないのだ。
先程家にいた普通の警察に犯人のことは説明せず、家を飛び出してきたから海斗がどこに行ったのかを把握していない。
「じゃあ、私もいっしょに――」
「琴美にはけがをされたくない」
「でも! カイト一人だったら何もできないじゃん!! 超能力は使えないし!! こういうのって相手がひどい奴だったら死ぬかもしれないんだよ!!」
琴美が海斗の後ろで言った。顔を見ていないのでどんな表情なのかは海斗にはわからない。
「…………」
海斗は黙り込んでしまった。
確かに海斗には超能力がない。だがあの男は超能力を使っているから、その時点で力の差ができている。それは海斗自身わかっている。わかっているんだ。けど――
「とりあえず――」
「じゃあ琴美はこのまま逃げるのかよ!! 自分の立場になってみろ!!」
海斗は振り返って琴美に叫んだ。
だが。
海斗は振り向いたときにはっと気づく。
そこには海斗が予想していた琴美はいなかった。
「…そんなこと、わかってるよ」
琴美の瞳には水があふれていた。
「そんなこと、わかってるよ! 華夏ちゃんにあんなことしといて、許せないよ! でも!!それでカイトが死んだらどうするのよ!! そんなのはわたし嫌だよ!!」
今度は琴美が叫んだ。その言葉は海斗の眼を醒ました。海斗の心が少し、揺らいだ。
「…ごめん」
海斗は下を俯いて謝った。
数秒間の沈黙が流れる。その流れを切ったのは琴美ではなく、海斗だった。
「だけど、俺は多分行かないといけないんだ。俺に力がなくても、俺がどんなに弱くても、あいつだけは許せない。俺さ、自分に嘘はつけないんだ」
琴美の身体は硬直していた。海斗が言ったことを理解してくれたのかはわからない。だけど、理解してほしいと海斗は願う。
「……そ、っか」
「ああ」
海斗は真っ直ぐな目で琴美を見る。
「じゃあ、行くんだね」
琴美が目を合わせて言ってきた。
「当たり前だ」
「そう……」と言って琴美は黙ってしまった。きっと海斗を心配してくれているのだろう。海斗は「すまないな」と言って振り返り、門の重たい扉に手をかける。扉は白く塗装されているが材質は鉄なので指先が冷たい。よっ、と扉を乗り越え、校内に入る。
ここからどうなるかわからない。もしかしたら死ぬかもしれない。とんでもない恐怖が海斗の心のなかにはあった。
だが、そんなことで立ち止るわけにはいかないのだ。
海斗が弱音を吐いたら、きっと琴美はついてくるだろう。だがそれでもし琴美になにかあったら――。
「じゃあわたしも、行く」
後ろで琴美の声が聞こえた瞬間、振り返ると琴美が門を乗り越えようとしていた。
「おいおい! さっき言っただろ! 琴美はくるなって――」
「わたしも自分に嘘はつけないよ!」
「でも――」
「それにカイト、超能力使えないじゃん!実質私のほうが強いと思うけど?」
ぐさりと、海斗は図星をつかれて言い返せなくなってしまった。
降りてきた琴美はえっへん! と言わんばかりに胸をそらし、堂々とした格好で海斗を見る。
「…無理だけはするなよ」
ため息をついて海斗は言い放った。「帰れ!」と言ってももう帰てくれないだろうという諦めがあった。海斗と琴美は走って学校の奥に向かう。
だが、このときにはまだ海斗には悩みがあった。
あの男を倒せるのか。
超能力のない俺が勝てるのか。
そして、琴美を守ることができるのか。
いろんな感情が心の中で入り混じっている中、海斗は校舎の中に入る。
「絶対に、お前を殺させるものか」