第8話
「私も尊顔を拝し奉るのは二度目でございましたので……その、まさかこのようなところまでお越しになられるとは思わず……」
だが肝心の朔良は聞いていなかった。
言葉が右耳から入ってそのまま左耳から抜けている状態だ。
「あの……朔良様?」
その状態に気付いたのだろう。
怪訝な表情で問いかける吉兼。
「恐らく衝撃に思考がついて行っていないようだな」
暁が気配を殺して朔良に近づくと、そっと抱きしめる。
「まずは目を覚まさせる方がいいだろう」
言うや額へと軽く口づけを落とした。
「っひやあ!」
「貴様!!」
当然のごとく朔良は悲鳴を上げ、同時に吉兼が激昂して太刀を鞘から抜き払った。
「朔良様から離れろ!!」
「………そこまで驚く必要はないはずだが」
完全に吉兼を無視している。
その証拠に、未だに朔良の腰を引き寄せているからだ。
「朔良様から即座に離れろ! 離れなければ滅する!」
「二人ともやめなさい!!!」
朔良が叫ぶと、その声に驚いて吉兼が僅かに身を引く。
だが暁はその怒声にも全くひるんでいないのか、腕を腰に回したままだ。
それに気付いた朔良は右手を握って振り上げると、密着していた彼の脇腹めがけて肘をめり込ませた。
「っっ」
妖であるため人間の拳…ましてや女の攻撃は効かないのだろうが、精神的な衝撃があったようだ。
思わず腰に回した手を離してしまった。
その一瞬の隙を突いて朔良は暁から距離をとる。
「あなたが紛らわしいことをするから吉兼さんが怒るんでしょ!!」
「紛らわしいことではない。私はお前に封印を解かれたのだから当たり前だろう」
なんということはない、と暁は答える。
「は?」
「それにお前は女だ。人間の女は弱いから男が守ってやらなければならないとあの男が言っていただろう」
どうやら外へ戻る道すがらに和将が話していたことを言っているようだ、と理解するが……。
「……とにかく、これからはそういった紛らわしいことはやめてよね」
「…………」
返事はない。
朔良は小さく溜息をつくと吉兼を振り返った。
「とにかく私たちも東の都へ」
「承知いたしました」
すぐさま踵を返す吉兼。
馬を取りに行くようだ。
それを見送り、視線を窟屋へと向けた。
「どうした?」
その視線に気付いたのだろう。
暁が声をかけてくる。
「ううん、なんでもない」
首を横に振り、そう答えた。
「行きましょ」
三人は山道を下り、街道へと戻ると東の……猩の都を目指した。
道中、必ず設置してある宿場町前では暁が気を利かせて離れてくれた。
「最初はどうなることと思いましたが……」
猩の都を目前とした宿場町の宿の一室で荷を下ろした吉兼が呟きを漏らした。
「あれは妖なので心配は要らないのでしょうが」
「吉兼さんが心配してるのは、暁が今、どう過ごしているのかってことでしょ?」
心配の種は尽きぬものだ。
苦笑を漏らした朔良は障子窓を開けて日の傾いた大通りを見下ろした。
「大丈夫ですよ、きっと。ここに来るまでも大丈夫だったでしょ?」
「それはそうですが……」
大通ではそろそろ今夜の宿を決めようという旅人たちが大勢行き交い、またこの近くに住んでいるのだろう親子が連れだって歩いているのが見えた。
「お月さんいくつ 十三四つ」
手を繋いでいた子が歌い始める。
すると親も一緒に歌い始めた。
「まだ年若い 若屋の門前で
羽根三本ひろて 一文で油買い
二本で…」
歌いながら笑い、家路をゆっくりと帰ってゆく。
微笑ましいその親子の背を見送っていると、後ろから吉兼が声をかけてきた。
「ところで明日のことでございますが」
「あ、はいはい。確か猩の都に入るんでしたっけ」
居住まいを正し、聞く態勢をとる。
正面に坐した吉兼は懐から地図を取り出してその間に広げると一点を指さした。
「ここが今いる宿場町で…」
街道をゆっくりと辿ってゆくと、その先の大きな都で止まった。
「ここが猩の都。朝早く出れば昼前には到着する予定です」
「確かさっき、コウがきてたみたいだったけど……斎さんからの連絡よね?」
この宿場町に入る直前に、斎が飼っている大鷲のコウが文を携えてきたのだ。
その内容を問う。
「はい。今回の妖騒ぎは猩の都の東の方で起こったそうです。なので私たちがこれから入る西側は治安が安定している、と」
どうやら向こうでもこちらの安全を確認してくれているようだった。
その心遣いに感謝する。
「明日は少し早めにここを出ましょう。あの妖もあなたが動かれれば必ずついてくるでしょうし」
「そうね。どうしてか暁は私が動くとすぐに気づいて出てくるのよね」
本当に不思議だった。
「ではひとまずは失礼します。今夜は早めにお休みください」
地図を折りたたんで懐に入れると、吉兼はそう言って部屋を出ていった。
パタン、と襖が閉められ、足音が遠のいてゆく。
朔良は再び障子窓の外へと視線を向けた。
秋の空は高く、トンボが複数行き交っている。
その光景は元いた世界と全く同じだった。
子供たちの遊ぶ声が聞こえてくる。
わらべ歌のようだ。
けえまいけえまい お歯黒けえまい
お歯黒つけたら 頬紅さして
頬紅さしたら 眉毛をなでで
眉毛をなでたら 口紅さして
口紅さしたら 髪ときあげて
髪ときあげたら かつらに結うて……
女の子たちが輪になって毬で遊んでいるのが見えた。
毬を上へ上げている間に化粧の所作を入れているようだ。
「やっぱり女の子はどの世界も同じだなあ」
笑みを浮かべてそれを見ていると、その歌の合間に別の歌が割り込んできた。
人の業(わざ)かよ 魔の業か
一つは天地の 月の業
再びあるまい 興(き)の都
花の都が 野になった…
「え……?」
背筋に氷塊が落ちた気がした。
女の子たちが歌うわらべ歌は続いている。
そしてその合間に聞こえてくる別のわらべ歌も同じように続いている。
あれも見やんせ 風の業
石にかきつく きじの神
負うて出やしゃる 王様を…
その時だった。
「妖だ! 妖が出た!!」
男の声で大通りは一瞬にして大騒ぎになる。
得物を持たぬ旅人や女子供は安全な場所を見つけようと必死になり、得物を持つ男や腕に自信のある者たちはその声のする方へと駆けてゆく。
「朔良様」
襖の向こうから声が聞こえた。
吉兼だ。
また妖退治に出るのだろう。
「どうかこの部屋からお出になりませんように」
「はい」
声をかけると安心したのだろう、吉兼はすぐさま踵を返したようだ。
障子窓から通りを見下ろすと、すぐに吉兼が通りへ出てきた。
そして男たちとともに声のした方へと駆けてゆく。
「…………どうか、吉兼さんが今回も無事に戻ってきますように」
手を合わせて祈りをささげる。
祈りながらも先ほどの不気味な歌詞のわらべ歌を思い出していた。
あれはいったいなんであるのか。
そして、それはどこから聞こえてきたのか。
「空耳だったらいいのに…」
そう願わずにはいられなかった。