0:俺が死んだ時の話
主人公が死んだ時の話
俺が死んだ時の話をしようか。
いつものように近所のスーパーで買った食パンにバターを塗ってコーヒーを飲む。
朝の少し笑いを交えたニュースを見ながら身支度をし、務めている会社から電車で二十分ほどのマンションから入社二年目の会社へと向かう。
それが俺、椿齋のいつもの朝の光景だ。
俺はいたって普通の二十三歳。
その手の社会では名の知れた大学を出て、今はとある中小企業の企画部で働いている。
時々会社を辞めたくなったり、人生に疲れたりもするが、そんなことを考えるのは俺以外にもたくさんいるし、俺よりも深刻に悩んでいる奴も山ほどいる。
本気で会社を辞めたいとか、死にたいと思っているわけじゃないし。
それなりに友人もいるし、会社だってブラックではないのでとても居心地がいい。
あれだ、「たまには休んでハワイに行きたい」と同義語だと思ってくれればいい。
俺が他人と違うことといえば、『愛』を知らないことだ。
中二くさいって思っただろう?
だけどな、実際そうなんだから仕方ないだろ。
『愛』ってのは、家族からもらえる『愛』両親や兄弟、祖父母や親戚。
身近な人からもらえる『愛』。
そして、恋人からもらえる『愛』。
色々人によって捉え方はあると思うが、俺はその全てを知らなかった。
俺は、物心ついたころからすでに両親や親族はなく、施設で育った。
施設の職員に高校生になって聞かされたところ、俺は生まれてすぐに両親が交通事故で他界。
赤ん坊だった俺はそのときちょっとした検査のせいでまだ病院にいたから、事故には巻き込まれなかったんで助かったんだけど、両親はなぜか親族との縁を切っていたそうで、俺を引き取ってくれるような親族はいなかったのだという。
高校を卒業してからは一人暮らしを初めてなんとか大学卒業後今の会社に務められるまでに至ったが、それまで恋人らしい恋人が出来たことがない。
高校までは俺が施設育ちなのが影響し、そのころのことが原因で俺が恋人をつくろうとしなくなっていたから、まぁ半分は自分のせいと言えなくもないのだが。
そういった理由で、俺は『愛』を知らずに二十三年間育ったというわけだ。
まぁ特に不自由していないが、せめて恋人が欲しいとは思う。
話を戻そう。
俺の死んだ日の話だったな。
その日も俺は、いつもの様に会社を出て家に帰ったんだ。
その日は夜勤明けで、朝から仕事が入ってたから寝ないで一日勤務の日だった。
もうクタクタで、タバコを一本吸ったらすぐに寝ようと思っていたんだ。
タバコを吸おうと思って、喫煙所のある屋上に行ったら、そいつがいた。
水色のワンピースにワンレンの髪型の女が、屋上の手すりの向こう側にある、人が何とか立てるだけのスペースに立っていた。
なぜかひと目で分かった。
あ、アイツ自殺する気だな、と。
そう思ったらいてもたってもいられずに、俺は思わずその女に声をかけていた。
「おいアンタ。自殺なんて考えてないよな?」
「!?」
俺がいたことに気づいていなかったらしく、女は驚いた顔でこちらを振り返った。
「か、考えてたっていいでしょ。私はもう疲れたのよ」
やはり自殺だったか…。
俺は、女に見えない位置でスマホを操作する。
LINEの相手は同じマンションに住む同僚。
内容は『屋上で女が自殺しようとしてる、早く来い』。
「そんなに思いつめることもないだろ?
生きてれば楽しいことだってあると思うぞ?」
同僚が来るまでこの女を屋上から落としてはいけない。
なんとか会話を続けつつ、俺は少しづつ女に近づく。
「アナタに何がわかるのよ!?
私は彼に捨てられた!彼はあの女を選んだのよ!」
不倫の果ての寝取られ…ということらしい。
よくテレビで見るようなネタだが、実際に目にすると、フラれた女はこんなにも自暴自棄になるものなのか。
「俺にはアンタの気持ちは分からないけど…でも、愛情を知ってるなら、また新しい恋人だって見つけられるんじゃないか?」
「新しい…」
俺の言葉に少しだが思いとどまってくれたらしい。
少しホッとしながら、俺はフェンスを乗り越えて女と同じように狭いスペースに立つ。
うわめっちゃ怖い。
「そ、そうさ、そんなアンタを愛してくれないやつより、アンタを心から愛してくれるやつがきっといる。だから死ぬなんて考えるなよ?」
「…そうね、私すこしヤケにやっていたみたい。ごめんなさい」
落ち着いたのか、女の表情が柔らかくなる。
階段のほうから数人の足音がするから、どうやら同僚が警備員を連れて来てくれたらしい。
これで安心だと力を抜いた途端、激しい頭痛と睡魔が襲ってきた。
このとき、そういえば夜勤明けで一日勤務だったことを思い出した。
女の悲鳴と同僚の焦ったような声。
そして、警備員のドタドタという足音を最後に、俺は屋上から真っ逆さまに落下した。
下には花壇なんて洒落たものはない。
あるのは、コンクリートジャングルとまで言われた都内特有のアスファルトだけ。
地上二十階建てのマンションの屋上から落ちたらどうなるかなんて、子どもでもわかるようなことだ。
俺はどこか他人ごとのように、悠長にそんなことしか考えていなかった。
(次に生まれ変われるなら、今度こそ愛情をしりたいな…)
こうして、俺、椿齋の人生は終わった。