一章 あれから
今回から、まとめて投下することにします。
メツは深呼吸して重厚なドアを開けた。
「失礼します」
目に入ったのは高級なつくりの執務机。
そして、大柄な男の背中。
「来たか。人類二番目のカウンター。アルファ2。高坂メツ」
男が振り返る。
出迎えた人物はメツにとっては意外だった。
そして基地の人物だった。
「タダトさん!?」
間違いなくコウの父親だ。面識もある。
「久しぶりだな。息子がいつも世話になっている」
「い、いえ……貴方が……司令だったのですか?」
タダトは頷き、肯定する。
「そんなに驚くことも無いだろう。私がここで勤めているということは知っていたはずだ」
以前あったときと印象が違う。失礼な言い方だが、彼はもっといい加減な人物と言った印象だった。しかし、今は威厳を備えている。
「……コウからは何も聞いていません」
「それはそうだ。息子には何も話していないからな」
「なぜ?」
「照れくさくてね。私は一職員で、この施設一の雑用代わりで通している。この基地の司令とはそういうものだからな」
「そうですか」
頬をかくタダトに苦笑し、すぐに顔を引き締める。
「この度、ぼ……私をお招きになられたのはいかな理由でしょうか?」
背筋を伸ばし、はきはきと質問する。
友人の父とはいえ、この施設のトップなのだ。
無礼がないように注意する。
「楽にしたまえ」
そういいながら、タダトは椅子に座り、執務机の上で手を組む。
「はい」
メツも足を肩幅に開き、楽な姿勢をとる。
「君は両親のしつけが行き届いているようだ」
微笑むタダトにメツは頷く。
彼らのような家庭は特殊だ。タダト自身、コウに対してあまりかまってやれなかったという負い目があると聞いている。謙遜するのは返って嫌味だろう。
「君は今の状況をどう考える?」
「極めて厳しいと感じています」
戦力は正直、壊滅的だ。
人間側の神に対するカウンターは事実上、メツのみとなってしまっている。
サキはあれから目を覚まさず、クゥは自室に引きこもってしまっていて、こちらからの呼びかけには応えない。
ただでさえ厳しいといわれていた神との初戦以上に厳しくなってしまっている。
メツの言葉にタダトは息を吐く。
「ハヅキさんに言わせれば我々のそういった戦力を前提に考えてしまうのは悪癖なのだろうな」
彼女は戦力の重要性を肯定はしているが、戦いを肯定しているわけではない。単に交渉のカードとして用意したいだけだ。しかし、殆どの人類は神を打ち負かすことばかり考えてしまう。
霊長の長としての栄華を誇ってきた人類はその利権を手放そうとはしない。
「人類が最も恐れるものは同属だったな」
「過去形ですね」
「ああ、すでに同属は最大の脅威足り得ない」
人間たちの遺伝子に確かにある服従因子は神と天使を前にすれば発動する。
後は地獄だ。
人間たちは地に足を着く。
逆らうことなど許されない。
彼らはただ蹂躙する。
人間の意思や尊厳は服従因子の前には無力だった。
「彼らの最大の脅威は人類の数の力を一切無力化してしまうことだ。戦は古来より効率よく多数を少数で殴ることを考えていた。それを否定される。だから我々は君たちのような例外に頼らざるを得なくなっている。そして、それが相当な負担になっていることも理解はしている」
「随分と期待を持たせる言い方をしますね」
メツの指摘にタダトは頷く。
「……時にメツ君。君は神を信じていたか?」
過去形の質問にメツは頷いた。
「信仰心の厚い青年だったかな?」
「いえ、ただ人間以上の存在が見守ってくれている、と考えを受け入れるのは楽なんですよ。現に世界中の人間はそうしています。いえ、していました」
「認知できる神は……神か?」
「…………神、なんでしょうね。服従因子に実際にあてられれば、信じもします」
「私はそれを神と認めない。認めてはいけない立場にある」
そう言うと、タダトは一冊のファイルをメツに渡した。
表紙には大きく赤で極秘、と印字されている。
メツがタダトに目線で問い、司令官が頷くのを確認する。
手が一瞬躊躇ったのは、この中に書かれているものはきっとろくでもないものだからだ。
ゆっくりと表紙をめくる。
『服従因子攻略計画メモ』
そう短く書かれた一枚目をめくる。
羅列された文字の多くは専門的であり、理解できなかった為、わかる部分を拾って読むことにした。
メモと書かれているとおり、報告書というよりも手記のようなものであった。
二枚目からは悪夢が書かれていた。
本計画の目的は服従因子の攻略にある。
これは神が顕れた直後からの課題であり、必ず成功しなければならない計画である。
この計画が完遂されれば、神と天使に従う道理がなくなる。
計画には犠牲が出る。
遺伝子に介入する研究、しかも、急務とあれば安全な臨床試験は望めない。
それにもかかわらず、協力をしてくれた人々にはいくら感謝しても足りないだろう。
戦力は拮抗し、必ずや天界の軍勢を退けることだろう。
そのための研究の記録を略式ではあるがまとめることとする。
10月25日
研究素材『五月席 メイ・ダンク』
この個体はアルファ1、暁コウと十月席、オクトバー・ルウラが神原ハヅキの指示の元、撃破した神であり、重要なサンプルである。仮に聖骸と呼称する。
この個体から判明したことは、服従因子を攻略することが不可能ではないということだった。千切れた下半身からDNAの採取を成功したので、研究のめどが立った。本来であれば壊死してしまうはずの新鮮なDNAを採取できたのは非常に幸運である。その他、血液の状態もすばらしく、実際に輸血実験をしてみることにした。
後日わかったことであるが、驚くべきことに、この聖骸は劣化しない。
死してなお生きているような鮮度を保っている。用心の為、脳波や心電図などのさまざまな検査をしてみるが一切の反応は見られず、死体そのものだったことを追記しておく。
彼は完全に死んでいる。
それにもかかわらず、生きているかのごとき肌の色やつや、なにより表情はこの神の凄まじさを教えてくれている。
服従因子は遺伝子に作用するものではあり、本来はコントロールできないはずのものではあるが、神や天使はオン、オフができるようである。人間は自分の遺伝子をコントロールで気はしない。ここに服従因子を攻略するヒントがあるのではないか?
11月1日
新たな神が顕れた。
研究を急ぐ必要がある。
彼女たちは協力を申し出てくれているが、いざというときの為の準備は必要だ。
彼女たちがその気になればこの施設を一瞬で制圧できる。
信用で彼女達の行動を縛る方法はわかるが、楽観的ではないだろうか?
とにかく、服従因子の攻略を急ぎ、このような懸念ごと払拭する必要がある。
11月2日
またも新たな神が顕れた。
顔が仮面で覆われ、性別の判断は出来なかった。
先日、協力を申し出てくれていた十二月席と暁コウの模擬戦中に介入し、明確な敵対行動をとってきた。顕れるペースが速い。
研究は今でも急ピッチで進められているが、なおスケジュールを繰り上げる必要がある。
11月5日
顕れた神は二月席であるらしい。
彼女はショッピングモールで服従因子を解放した。
現場には暁コウと十月席が居合わせていた。
戦闘にはならず、人的被害は起きなかったが、いずれ来る絶望的な光景を見せてくれた。
彼女達は脅威だ。
怒りを買えばいつでも人類を滅ぼせる。
そんなことはあってはならない。
被験者の男性が死亡した。
輸血実験で10CCの血液を輸血しただけだったが、拒絶反応が出てしまった。
初めて命を奪ってしまった。
研究という名目ではあるが、これでは殺人と変わらないのではないか?
今回の輸血実験は7名の協力を仰いだ。
彼らが今後どうなるか、予断を許さない。
もう止まる事はできない。
11月6日
前日、輸血した人々は朝になれば冷たくなっていた。
輸血実験は失敗だった。
ほんの10CCだったが、服従因子との拒絶反応が起こり、被験者は死亡した。
遺伝子問題はクリアしたはずであったが、やはり絶対の壁が存在するようだ。
更なる検証のため、追加で3人の協力を仰ぎ、めどが立ち次第、献体となってもらう。
服従遺伝子の攻略のためにすでに7人の尊い人命が失われている。
それにもかかわらず、研究はめどが立たない。
あと少し、あと少しだ。
何かヒントがあれば……。
11月20日
もう協力者はいない。
全部、使い切ってしまった。
私も疲れた。
もういやだ。
そんなことを考えていると、世界が崩壊した。
以前より懸念されていた天界との融合が本格的に始まったのだ。
天使とビジターが現れ、ついにこの国も終わりかと思われたが、二月席を介入させ、場は一時的に収まった。
戦場において天使が現れた際にどのようなことが起こるか上層部もようやくわかったらしく、急遽予算が組まれ、こちらに送られてきた。これでもう少しやりやすくなる。
11月23日
七月席が街を強襲した。
私も服従因子にあてられ昏倒した。
十月席以来のことであった。
町は混乱し、交通事故をはじめ、被害が数多くでた。
しかし、収穫がなかったわけではない。
1人、服従因子にあてられていない女子がいたのだ。
彼女は何の変哲も無い女学生だった。
複数回あてられた場合、耐性が付くのだろうか?
いや、それは今までの模擬戦で十月席にためさせてもらっている。
人によって個人差があるのだろうか?
彼女には身寄りがなく、生活の保障を引き換えに強力を申し出ると、快諾してくれた。
これで一気に研究が進む。
彼女の遺伝子には服従因子への欠損があった。
これは神原ハヅキと同じ欠損のように見えたが、1つだけ違ったことがあった。
彼女のものは後天的なものだったのだ。
明らかに遺伝子に細工された痕跡があった。
不自然に捻じ曲げられたDNAは私にヒントをもたらしてくれた。
何故、彼女がそうなったのかは未だにわかっていないが、これで研究のめどがたった。
11月26日
新たな協力者に施術を施す。
経過は良好。
タイミングよく七月席が現れたため、服従因子が影響する範囲に入ってもらうと、彼らは平然としていた。外付けのブースターと大型の外部ハードがなければ安定しないが、これで研究は一旦、終了する。
もう疲れた。
私は十人殺した。
もう耐えられない。
後は任せます。
さようなら。
言葉が出なかった。
手が震えるばかりだ。
命が大切なものという倫理が欠如していることすら感謝した。
この実験は狂気だ。
間隔が短すぎる。
十分な検証など為されていはいない。
人体実験というにはあまりにお粗末で、思いつきのように方策を試している。
この施設で人を切り刻むような実験を行っていたという事実。
それがメツを動揺させていた。
「この……書き手は?」
タダトが首を横に振り、それで理解した。
「私はこの研究を許可していた」
「なぜ?」
責めるような問いではなかった。
諦めるように問うた。
何故ならば、メツだって理解できていたからだ。
すでに人間の世界は限界が近い。
たったの数人に全てを任せなければならないほどに老いてしまっている。
しかし、神の攻勢はこれからもっと激しくなる。
多少の犠牲が出ても、打開策を見つけなければならない。
わかっている。
それでも問いただしたのは、彼自身、組織のトップの人間から実際に話して欲しかったからだ。
「……私は、息子に何もしてやれなかった」
タダトの口から出てきたものは司令とは思えない言葉だ。
「妻を殺され、仕事に没頭した。あいつは周りの全てを拒絶し、私も息子に対して弱腰になっていた。ハヅキさんがいなければ、私達の関係はとっくに崩壊していた。この戦いでも私が息子にしてやれることは少ない。このままでは死ぬかもしれない。それは駄目だ。私は家族を二度も失うことに耐えられるほど強くは無い」
「…………」
コウがさらわれている現状ではかなりのストレスが掛かっているだろう。それでも、それをおくびにも出さない。
「私は人類を救う、という使命等、もののついでくらいにしか考えていない。この研究が少しでも息子の助けになるなら……いくらで足を踏み外す。見損なったかい?」
「いえ、むしろ安心しました」
人類を救うなんて声高に言われれば、逆にこの人を許せなくなっていたかもしれない。
大儀のために人の命を蔑ろにするよりも、自分の家族を守る為に手を汚す人間のほうがよっぽどマシだ。
「僕にこれを話したのは……疑念を持たせない為ですか?」
「そうだ。いくらなんでも戦闘態勢に入ったあの者達の前で動ける部隊がいれば君達は動揺するだろう」
「それはそうです」
「すでにこの研究者のノウハウは活かされており、16名の施術が完了している。これからも増やしていく方針だ。すでに轟隊長は施術を終えている。そのこともあり、これから3日間は、他のものが指揮を執る」
「3日?短くはありませんか?」
「この施術は外付けのブースターを取り付ける作業だから、やり方自体は簡単だ」
「はい」
「その後、君には1日だけロウアーの見張りを頼みたい」
「見張り……ですか」
「ああ、ビジターの討伐は君でなくても出来るが、あの強力な天使はやはりハヅキさんのように頭が回るものか、君のように単体で天使に対抗できる者で無ければならない」
その日はサキの見舞いに行けなくなることは残念ではあるが仕方ない。
そして、この言葉でこの計画自体がハヅキに内密で行われているということを察した。彼女が気づいていれば決してこのような実験を許さなかっただろう。
「よろしければ理由を聞いても?」
あくまで、人類の現最大戦力である自分を見張りに向かわせることに疑問を覚えるといった体ではなす。
「どうやら十二月席との先約があるらしい。こればかりは、蔑ろにできない」
こう切り替えされてはメツは頷くしかなかった。
机の上で真っ白な模造紙を見つめながらハヅキは思案していた。
(この設計思想だと、どうしても出力が不足する。コウが体内に内包しているエネルギーを取り出すことができれば一気に強力になるんだけど……)
本来であればコンピューターや実際に紙面に線引きして考察する武器設計をハヅキは脳内で組み立てていた。紙を広げているのは単にスイッチを入れる為だ。彼女の考える武装を作るには技術がまだ追いついていない。なにより、ロウアーの横で実際に紙に起こすなどもってのほかだった。
「うっ……」
ロウアーがうめく。
「あら」
牢屋に入り、脳天を軽く足でつつく。
「よく眠れた?」
「……おはよう。ハヅキさん」
笑う彼は相当にタフだ。
監禁からすでに一週間。
体力的にも精神的にも限界が近いことは顔を見ればわかる。
目元がくぼみ、隈が深い。
彼はそれでも余裕の姿勢を崩そうとしない。
牢屋に入り、天使を見下ろす。
「悪く思わないでね。あなたは危険なのよ。痛めつけておかないとどんな危険がこちらに来るかわからない」
「実験台にしておいてよくいう……」
3日前に、喉元に取り付けられたセンサー付きの首輪はどうやらファクターが発動しそうになったら知らせてくれるものらしかった。反応すればその都度、電流が流れるのだ。新しい発明品に上機嫌になったハヅキは不必要に電流を流してくれた。
大体、身体的な問題もそうだが、風呂に入れていないというのは結構、精神に来るものがある。自分自身から悪臭がするというのは顔には出さないが、かなり堪えていた。
「それ結構、自信作なのよ。ルウラがファクターの流れが見えるって言っていたからね。それが感知できないか研究してきた成果よ」
「人間はすぐ機械に頼る」
「あんた達と違って、か弱いもの。私なんかあんたが暴れればすぐに殺されちゃうわ」
「……信じる心とか大事だよ?」
「私に下の世話までさせといてよく言う」
つま先でロウアーの顎を持ち上げる。
「私はノーベル平和賞がもらえるんじゃないかってくらい慈悲深いわよ。仇敵に手厚い介護して上げているのだから。それにしてもあんた臭いわね」
「風呂に入れさせてもらってないからね……」
事実だけを言う。
この地獄の拷問吏がこちらの要望を受けるはずがない。
「入りたいの?」
ハヅキの言葉にロウアーは思わず彼女の顔を見上げそうになるが、堪えた。そっぽを向いたまま短く堪える。
「そりゃあ」
「いいわよ」
ちらり、と彼女を見ると無表情のままでこちらを見下ろしていた。
「あたしの足を舐めなさい」
「………………性格変わってない?」
「これは取引よ。貴方が私に服従の姿勢を見せるのであれば、風呂に入れることもやぶさかではないといっているの」
ロウアーは思案する。
靴を舐めるというのも別にかまわない。
プライドよりもそれをすることによって生じる隙のほうが大事だ。
さっさとここから逃げてしまいたい。
最優先の目的がある。
ここで無駄な時間を費やしている暇は無い。
舌を出す。
ハヅキが嗜虐的な満面の笑みを浮かべた。
やっぱり性格が変わっている……。
観念するように舌を出したまま、溜息をつくと、頬にハヅキがロウアーに向けている足が叩き込まれた。
舌をかんで、思わずうめく。
「やっぱ、息が臭いから却下。むしろ汚れちゃうわ」
うめくロウアーをさも楽しそうにハヅキは観察した。
「まぁ、入院中の患者だって週に一回くらいしか風呂に入れないんだから、気にしないことね」
「なにやってんですか?」
「ひゃあ!」
牢屋の外にメツがいた。
引きつった表情を浮かべている。
「コミュニケーションよ」
すばやく呼吸を整え、冷静に応える。
「いや、完全にSMクラブでしたけど?」
「SMクラブなんてメツ君、むっつりなのね」
攻撃の対象がこちらに移りそうだったのでメツは溜息をついて終わらせる。
「いや、ちょっと待って。なんか私のイメージが損なわれた感じがするわ」
「損なわれていませんよ。健全そのものです」
ハヅキは難しい顔をして、ロウアーに向く。
「風呂に入れてあげるわ」
そういうとハヅキは牢屋の外にでて、すぐに戻ってきた。手にはホース。
「それ」
ホースから水が噴出し、ロウアーの顔面に直撃する。
「どう?気持ちいい?気持ちいいでしょう?気持ちいいって言え!」
「がばばばばば!」
水浸しになってロウアーがぐったりしてからハヅキは水の放出を止める。
「仇敵を綺麗にまでして上げるなんて、なんて優しいのかしら。メツ君。私って優しいわよね?」
「はい!」
下手な言葉を発せば、どんな目に合わされるかわからない。
水をかけている途中に見せた悪魔の笑顔が脳裏からはなれない。
メツは必死に頷いた。
ハヅキは微笑むと、「後はよろしくね」と言い残し、この場を後にした。
その後姿を恐怖が混じった視線で追いかける。
彼女の姿が消えたのを確認し、全身を弛緩させる。
「あ、メツ君」
「ひゃい!」
一瞬で背筋を伸ばし、ハヅキに向き合う。
「誰かに言ったら殺すわよ」
青い顔をしてメツは首を縦に振り、今度こそハヅキはその場を去った。
島から返ってきたハヅキはすぐに地下にあるクゥの部屋を訪問した。
何度かチャイムを押したが、彼女は出てこない。
「クゥ!居るんでしょう!」
中からゲームの音楽が聞こえる時点で引きこもりをするつもりなのは明白だった。
ロウアーと戦ってからずっと引きこもりを続けているらしい。
このままではクゥが駄目になってしまう。
誰が呼びかけてもクゥは無反応を通しているらしかった。
胸糞悪い仕事のお陰で一週間も構ってやれなかったのだ。今日こそはクゥを外に連れ出してやらなければならない。
「……今日、何の日か知っている?」
反応は無い。
「乙女ロードでサイン会の日よ」
はじめてあったときに交わした約束事を伝える。
ゲームの音が途切れ、中から動揺の気配が伝わってきた。
長い沈黙の後、部屋の扉が少しだけ開く。
顔を半分だけ出してひどくばつの悪そうなクゥが俯いていた。
「…………………………いく」
消え入りそうな声にハヅキは苦笑して、クゥの部屋に入る。
「あ~もう。髪の毛ぼさぼさじゃない。お風呂に入ってきなさい。部屋の片付けしてあげるから。さっさと準備してきなさい」
クゥは頷くと、風呂場へ向かった。
どうにか外に連れ出すことは成功したようだ。
牢屋で目を覚ましたコウは自分が全快していることに気づく。どうやら再生能力は元に戻ったようだ。そして、自分の手足に何も拘束がないことに驚きを覚えた。点滴や尿道カテーテルが体についていた。服は白を基調とした簡素な服装で寝巻きのようにも見える。囚人服というよりも病衣のようだ。どれだけ寝ていたかわからないが、体が異様に重い。手に持っていたインテグラは当然ながら取り上げられていた。他の武装はあの戦いで全損している。それでも随分とセキュリティが甘い。
(こちらが病人とはいえ……舐めているのか?)
周囲を確認する。牢屋は4畳ほどの広さであり、手洗い場と寝台、トイレがある。そのほかにはコップと歯ブラシとタオル。
(随分といたせり付くせりだな)
敵の待遇にしてはいいほうだろう。
手当ても適切だ。
コウは点滴とカテーテルを勝手に外した。
頭をさっぱりさせる為に手洗い場で顔を洗い、歯を磨いた。そして、思考を整理する。
とりあえず負けた。無様な完敗で、完膚なきまでに叩きのめされた。七月席は少しも動揺した様子を見せなかった。力の差がありすぎた。ここはどこか?わからない。アイは……恐らく天空大陸にいるだろう。ここが天空大陸であることを祈るのみだ。そうであれば取り戻すチャンスがある。ここが天空大陸でなければ、脱出できる公算が高い。
鉄格子に近づき、手をかけ、力を入れると、きしむような音を立てる。
どうやら強引な突破は可能らしい。
一旦、鉄格子から離れ、牢屋にある寝台に腰をかける。
さり気無く周囲を見回し、監視カメラを探すが、見当たらない。そう言えば全体的に牢屋の中は古臭い。
少し肉のにおいがする。
「お~い」
「うるせー!」
大声で牢屋の外に呼びかけてみると品のない大声が返ってきた。
看守はいる。当然か。
「なぁ、看守さん。看守さん」
無反応が続いたが、コウが鉄格子を蹴り始めると、看守が現れた。背中に薄い布のような翼が見える。中肉中背の天使だ。
「うるさいぞ。お前。……ようやく起きたと思ったら、元気じゃないか」
うんざり、と言った風に看守がコウに語りかける。
すまなさそうに笑うと愛想たっぷりに質問する。
「時間わかります?」
「朝の8時だよ。ついでにお前は一週間、寝ていた」
一週間も寝たきりだったということよりも、看守の言葉に驚きを覚える。
隠す必要がないといったようだ。
「いやにあっさり教えるんですね」
「お前はVIP待遇だからな」
「VIP」
ぐるり、と周囲を見渡し……。
「確かに」
苦笑。
つかまったにしては随分と待遇がいい。
拷問くらいは覚悟していたのだが。
「仕方ないだろう。お前は強いのだから。目が覚めたのなら出させて貰えると思うぜ」
看守の言葉にコウは思わず目を丸くした。
「……どういうことですか?」
「ん?ああ、そうか。説明が要るな」
なんとも懇切丁寧だ。
「とりあえずお前がここに放り込まれたのはいきなり暴れられても困るからだよ。バーンズ様はお前のことを城の一室に入れておくつもりだったんだが、アレキ様に物凄い反対を受けてな。とりあえず地下のここに入れておいたってわけ。お前が起きたから連絡を入れた。そろそろバーンズ様がここにいらっしゃる。失礼の無いようにな」
「……いや、意味があまりわからないんですけど……」
「どこがわからんのだ?」
「俺は敵の捕虜ですよ?」
「下っ端の俺に聞くなよ。バーンズ様がそうしろっていってんだからそうなってんだ」
「…………はぁ」
看守は「話は終わりだ」と元の場所に返っていった。
バーンズがここまで来ると脱獄の望みは殆どない。
しかし、放置気味な今の状況はかえって不気味だ。脱獄するならしてみろ、と言うことだろうか。もし脱獄した場合、人質になっているアイの処遇も危ういかもしれない。
(脱獄は……やめだな)
情報が少なすぎるので、今、下手に動くのはやはり危ういという結論に達し、やめておくことにした。もしかすると七月席から何らかの情報を得られるかもしれない。
十数分ほど座って待っていると月席が現れた。
天を突く炎のような頭髪。
闘争心を隠すことのない瞳。
今はジャージではなく、豪華な衣装に身を包んでいる。
そのいでたちは大陸の王にふさわしいものだった。
先日の敗北のこともあり、緊張が体を走る。
「お、回復しているな」
「おかげさまで」
笑みを浮かべて話しかける彼にコウは立ち上がり、努めて冷静に返事をした。
「その様子だと後遺症は無いようだな。安心したぜ。少し焼きすぎちまったのかと思ったんだ」
そう言いながら、牢屋の鍵を取り外すよう、看守に指示し、牢屋のなかに入ってくる。
手が出そうになるのを必死に堪える。
勝てないということを何度も胸のなかで反芻し、自分の中にある憎悪にブレーキをかける。その葛藤を知ってか知らぬか、バーンズはさらに笑みを濃くした。
「あなたは一体、どういうつもりで俺をこんな目に?」
「いきなり質問してくる元気さは認めるが、な。ここで話すのもなんだ」
そう言うとバーンズは牢屋から身体を出した。それを見るコウに対して怪訝な表情をして振り返る。
「どうした?出て来いよ」
余裕の表れだろうか?
胸中に芽生えた少しの苛立ちをおくびにも出さず、その背中に付き従う。
ほんの少ししか離れていないその背中はいかにも無防備であり、そして挑戦的だった。
いつ攻撃されてもやられるつもりがないという絶対の証だ。
少し歩くと出口が見え、看守が最敬礼でバーンズを送り出そうと身構えていた。
「ご苦労さん」
軽く手を振って看守をねぎらう神の後に続いて、コウも軽く会釈する。それを見て看守は少し驚いたような顔をした。怪訝な顔を浮かべていると、前方から笑いをかみ殺したような気配が伝わってくる。
「おいおい、自分を捕まえていた奴にする態度かよ」
おかしそうにからかうバーンズにコウはむっとした表情を見せる。
「別にあの人悪い人じゃないだろ。……あ、天使か」
「ははっ。お前、天使とか人とか結構、どうでもいい風に考えてんだな」
「特にこだわってない」
「いいね。そういう精神は皆が見習うべきだと思うぜ」
そう言いつつ石で作られた階段を昇ると、扉が見えた。
「少し待て」
バーンズがゆっくりと扉を少しだけ開けて、外の様子をうかがっている。何をしているのだろうか?ここは彼の城ではないのか?
「よし。声を出さずに、音を立てずに付いて来い」
音も無く扉をあけ、外に出るバーンズの真似をして付いていく。外はまだ長い石畳の廊下だった。神の身のこなしは驚嘆に値するものだった。まるで動いている気配がない。眼で確認しなければ気づかないだろう。何とかまねて付いていっているが、明らかにこちらが不恰好だ。
少しばかり凹んでいると、目の前に突然、女の天使が現れた。眼鏡をかけた彼女は音も無く着地すると、七月席を睨む。
何の前触れも無い瞬間移動。
それには見覚えがあった。
嫌な記憶がどうしても脳裏に浮かぶ。
最悪の神。五月席。メイ・ダンク。
浮かない顔をしているコウをよそに女はヒールで大きな音を立ててバーンズに接近する。
「バーンズ様」
「……ア、アレキか。今日も綺麗だな」
「私が言ったことを覚えておりますか?」
「あーそのーえー」
バーンズが言葉を濁しつつ、アレキから目を背ける。
「この子を出すときは私に話を通すようにと言ったではないですか!」
「お、俺は神だぞ!何でお前に許可がいる!?」
「私貴方をお守りするのも私の役目だからです!それが仕事なのです!」
「あ、はい、すいませんでした」
アレキの一括にバーンズはへこへこ、と頭を下げる。
アレキはバーンズの横を通り過ぎ、コウに先ほどと同じようにヒールで音を立てながら接近してきた。思わず左右を見て逃げる場所がないか確認してしまう。コウの直前で立ち止まった彼女はしたから上目遣いにコウを睨みつけてくる。コウは引きつった愛想笑いを返した。
(……小さいなぁ)
胸部を見て失礼なことを考えていると女天使から言葉が発せられた。
「あなたが『神喰らい』?」
「えーと、なんか、そう呼ばれてるみたいですね」
「思ったより普通ね」
「……すいません」
意外と傷つくものである。それでも何とか愛想笑いを継続。女が不機嫌なときに変に歯向かえば碌なことにならない。バーンズがはらはらしている様子でこちらを見ていることから、この女天使は怒らせないようにすることがベストだ。
「ああ、ごめんなさい。初対面で言うことではなかったわ」
そういうとアレキは右手を差し出してきた。
「アレキです。バーンズ様の補佐をさせていただいております」
「こりゃあ、どうも」
握手に応じるコウにアレキは無表情だ。
(……やりずれぇ!)
「これから貴方の状況を説明するに当たって私が応接間に案内させていただきます」
「おい、アレキ。俺のほうが先にきたんだから……」
アレキが睨むとバーンズはおとなしく引き下がった。よほど本気で怒らせると怖いらしい。
「それでは行きますよ」
「え?」
その途端、視界が、暗転した。
暗転は一瞬で、すぐに目に周囲の映像が飛び込んできた。
目の前に鏡台があり、右手には多くの豪華な衣装。左手にはアクセサリー類が入った棚。
彼女のファクターは空間転移なのはこれで確定だろう。
しかし、ここはどこだ?
「応接間に行く前に身だしなみを整えていただきます。歯は磨きましたか?」
質問をするよりも早く、説明が入った。コウは頷く。
「よろしい。それではこちらで一旦身体を洗ってください」
部屋の奥を示され、そこをたどると扉が見えた。あそこが風呂場のようだ。
「下着類もこちらで用意しましたので、安心してください」
罠の可能性を一瞬疑ったが、すぐに取り消した。ここまで来るのに殺せる瞬間なんかいくらでもあったのだ。抵抗しないほうが身のためだろう。捕虜になったときは相手を極力怒らせないようにすることが大事だ、と轟が言っていたことを思い出していた。
「随分素直ですね?」
コウが風呂場へ歩を進めようとするのをアレキが呼び止める。
「いけませんか?」
「いえ、少し意外に思っただけです」
「……一体どういう奴だと思っていたんです?」
「極めて粗暴な方かと」
「はぁ」
そう思われても仕方がない。確かに戦闘中に自分は極めて粗暴だ。
「拍子抜けした、と」
「正直な感想を言わせてもらえば。神を2柱も退けた男とは思えません」
「退けたつもりは無いんですけどね。一回目はルウラが手伝ってくれなければ死んでいたし、二回目のサキは初めから僕のことを殺すつもりは無かったみたいですから」
「謙虚ですね」
相手によって口調を切り替えたりする所は世を渡っていくうちに身に着けたものであろうが、どうにも真似事をしているといった印象を受ける。
「本当のことですから。今まで生きていたのは運がよかったんですよ」
「最後に1つ聞かせてもらいたいのですが」
「はぁ」
「あなたは我が主の敵ですか?」
アレキの表情や気配はまるで変わらない。敵であっても自分の神のことを信じているのだろう。まぁ、脅しのようなことをされてもこちらの回答は変わらない。
「……わかりません」
「わからない?」
「七月の神は強すぎる。俺が相手にされること自体が不思議なんですよ」
コウの言葉にアレキは無言だった。何かを逡巡しているようだった。
「…………じゃあ」
無言の彼女を置いて今度こそ風呂場に入ろうとしたとき、背後から言葉がかけられる。
「相手になってあげて」
言葉はドアが閉じられる瞬間に放たれたものであり、コウはわざわざ問いただそうと思わなかった。
まるで願いのような声だった。
午前中の課題を片付けてアイは一息ついた。
「ええと、これで……いけるよね」
自分で生けた花を慎重に観察する。
アレキが残していった課題はアイにとって拷問のようだった。
『レディのたしなみです』と連日出される花嫁修業まがいの課題はアイの精神をガリガリ削った。元々、こういったことに疎く、憧れも持っていなかったのだ。特に花を生けるなんてことは最も苦手だった。はじめのうちは向きや角度もてんでばらばらで統一性の無い作品ばかり出来上がったが、この三日で随分と上達した。
(同じような文化があるというのは驚きだったけどね)
どうにも生けられた花を見ると自分がやったのだという照れくささが沸いてきて、気恥ずかしくなってくる。
「うまくできてるじゃねぇか。女の子だな」
「うぉわ!」
いつの間にか後ろにいた七月席の声にとても女の子が出すとは思えない声を上げる。
「……いきなり後ろに立つの、やめてください」
アイがむすっとした顔で対応すると七月席は軽く謝りながら、部屋の椅子に座った。
「随分としごかれているみたいだな」
「アレキさんはしっかり教えてくれています」
「採点は辛いだろう?」
苦虫をかんだような顔になってしまう。初日にやられた終わることの無い説教を思い出してしまった。怒りはしないが、延々と駄目だった点を挙げられ、それに関連付けての精神論に発展するので、課題を必死にしないと、説教漬けになる。それでも褒めるところは褒めてくれるので嫌いになれない。意外にこちらの話もしっかりと聞いてくれる。
「ところでトロッコ問題って知っているか?結構、有名らしいんだが」
バーンズが雑談を差し向ける。
「いえ」
「五人が線路にいる。トロッコはそこに猛スピードで突撃している。このままでは5人とも確実に死ぬ。ただ自分の手にはスイッチがあって、線路を切り替えることができる。しかし切り替え先にも1人いて、切り替えればその人が確実に死ぬ。どうする?ああ、法的責任は一切無いものとする」
「ええと」
同じような倫理問題をコウと一緒に聞いたことがある。
色々と考える問題ではあるが、つまるところ、多数の幸福を取るか、自分の手で本来、死なないはずの命を犠牲にするか、の道徳問題だ。
「私は……切り替えられない…………かなぁ」
「どうして?」
「きっと勇気がないから……かな?」
コウも切り替え無い、だった。理由は答えなかったが、恐らく自分と関係がないからだろう。
「ふむ」
「バーンズさんはどっちです?」
「この花瓶。結構いいものだなぁ」
「…………トロッコを壊すって答えましたね」
バーンズは咳き込むフリをする。
「仕方ないだろう。簡単に出来るのだから。それこそ線路の分岐点を変えるよりも、な」
神と人間との意識レベルの差だろうか?
「作るのは大変でも、壊すのは簡単だって昔の偉い人は言っていたそうですよ?」
「…………じょ、冗談はともかく、このトロッコ問題ってのは哲学のテーマにおいて希望を見出す為に必要だというぜ?なんでも道徳的ジレンマを人間がどうやって乗り越えるのかって奴らしい」
「どこかで取ってきたかのような言葉で話題をそらしにきましたね?」
「まぁ、そう言うなよ」
「私はそんなジレンマ乗り越えられなくていいと思います」
バーンズが面白そうに微笑み、続きを促す。
「ジレンマがなくなっちゃったら……きっと人生退屈です」
「違いない」
神の回答はアイにとって意外なものだった。先ほどのジレンマ問題の神の回答はルール違反であったとはいえ、強大な力を持つ神、特にバーンズのような神がジレンマを肯定するとは思えなかったのだ。自分の行動に一切の迷いがないような力強さが七月席にはある。
「ジレンマって奴は強くなる機会とも言える。俺がここまで強くなったのもジレンマあってこそだ。退屈だといえる精神は大切にしておくべきだぜ」
アイが意外そうな顔をしたのを受けてか、七月席は疑問に回答してくれた。
「そう言えば、暁コウが目を覚ました」
「本当ですか!?」
思わず立ち上がる。彼はここに来たときは重症だったのだ。四肢の火傷はもう一生動かないぐらいではないかと思うほどだったし、意識も無かった。
「あいつは気を失っても、重症の火傷を負っても剣を手放さなかった男だ」
バーンズが闘争をたたえた笑みを見せる。これくらいのことは当然だが、やはり期待にこたえられるという素質は重要だ。
「もうすぐしたら会えるだろう。少し待っていろ」
そういい残すとバーンズは部屋から退出した。
服を選べといわれ、少し迷い、一番動きやすそうな赤と黒をメインにした服をコウは選んだ。
「それでいいのですか?こちらなどは天使の間でも中々手に入らないブランド品ですが」
「いえ、これで大丈夫です。そんなに畏まったものをきるのは苦手でして」
「若いうちからこういうものに馴れておかないといつまでたってもなれないものですよ」
「そう言う理屈もわかりますが……」
「とりあえず着てみてください」
アレキの口車に乗らされてもう何度も着替えをしている。
今の服も先ほどアレキが薦めてきたものだ。どうやらこの天使は他者に着せ替えさせることが好きらしい。
「一番これが動きやすそうなので……っ!」
何とかアレキが押し付けてきた服を押し返すと、少し残念そうな顔をして彼女は引き下がった。
「…………まぁ、それならいいでしょう」
じっくりとコウの格好を観察し、アレキが頷く。
「それではこちらへ」
アレキがコウに背中を見せ、付いて来るように促す。
「どこへ?」
「バーンズ様の執務室です」
通された部屋は広かった。
部屋の両サイドには図書館のように大量の本が棚に納められており、コウを見下ろしている。赤い絨毯の中央には火の鳥をモチーフにした紋章が縫い付けられていた。同じ紋章が壁にたらされており、その紋章の下に高級なつくりの机に大量の紙資料が置かれている。紙の山の向こう側に赤い髪が見え、七月席がいることが確認できた。
「来たか」
立ち上がり、七月席がはっきりと姿を見せり。
「ようこそ。我が執務室へ」
「…………」
無言で七月席を睨む。
「ま、聞きたいことは山ほどあるわな」
そういいながら、客人との対談用ソファーに歩を進め、どっかりと腰を下ろす。コウもそれに従い、対面側のソファーに腰掛ける。
「だが、質問は最後だ。とりあえず、今の世界がどうなっているかを説明しよう」
そう言うと、間の机に七月席の傍らに移動していたアレキが世界地図を広げた。浮遊大陸はユーラシア大陸の東海岸をすっぽりと覆うくらいに位置していた。すでに浮遊大陸込みの世界地図だ。バーンズがペンでその世界地図に線を書き始める。楕円状の浮遊大陸を中心に円で囲み、日本を外したいびつな円が出来上がった。
「この円がすでに俺の手に落ちた」
次に円の中に『128』と書き加える。
「これが何の数字かわかるか?」
「あんたらの被害」
ぶっきらぼうに答えるコウに七月席が「違う」と短く答えた。
「服従因子が効いていない人数だ」
思わず目を見張る。
今まで自分たちだけが効いていなかったのだ。それが一気に3桁まで増えれば驚きもする。
「そう驚くほどのことでもない。服従因子というものは遺伝子的なものだからな。そこに欠陥があれば効かない。あくまで俺たちが確認した数だから実際にはもう少しいるだろう」
「俺たちみたいなのが128人……」
「ファクターに目覚めたものはいないがな。それに正確にはお前たちは例外だ。ファクターに目覚めた件も、服従因子が効かない件も、な」
「どういうことだよ」
「自分が何故ファクターに目覚めたかは知っているか?」
「いや」
「十月席とあったからだ。十月席が認めた人間はファクターに目覚める」
「………………そうか」
それなりに驚くだろう情報に対し、短く沈黙し、淡白に返すコウにバーンズは意外そうな顔をした。
「随分と薄いリアクションだな」
「納得できる理屈だ。なおさらルウラには感謝したい気分だね。あいつがいなければ俺は最初の戦いでとっくに死んでいた。生きていれば、状況を打開できるチャンスをつかめる」
コウの言葉に神は喉を鳴らして笑う。
「お前と高坂メツは自身のファクターによって服従因子を無効にしている」
「らしいな」
「十月席があの極東の島国に降り立たなければ、お前たちは力を得なかったし、生きてもいなかった」
「代わりにお前らの標的になったじゃねぇか。クソッタレ」
「確かに、な。五月には痴情のもつれで、二月には自殺まがいで、俺には力を持っているばかりに目をつけられ……並べてみると、お前、本当に運がないな」
「こっちの台詞だ!」
突っ込みみを入れるコウに手をかざし、静止する。
「そう悲観するな。人間がこれほど神々に気に入られるということは前例がないことだぞ」
「いい迷惑だぜ」
「しかし、今までの神との接触でお前は戦力となり、お前の国は守られている。この円のうちにある国は為す術無く蹂躪されたのだ」
「しらねぇよ。俺は自分の周りさえ無事であればそれでいいんだ」
バーンズはソファーに背を預け、間を作る。
「時に暁コウ。お前は俺たちに対して、深い憎悪があるようだな」
「これだけの事をされて恨まないほうがおかしいだろ。人の平和な日常を今すぐ返して欲しいくらいだ」
怒りを湛え、神を睨みつける。
「お前の怒りの根源はそれだな。我々がこちらに来る以前の生活がお前の理想であった」
頷くコウに神は言葉を重ねた。
「その理想。叶える事は可能だ」
「!?」
予想外の神の言葉にコウは思わず立ち上がる。
神の言葉が真実とは限らないが、真実であれば、何でもするという想いはある。
あの誰も死なない。
血風舞う戦場などどこにも無い。
穏やかな日常が返ってくるなら、きっと己は手段を選ばないだろう。
「落ち着け」
バーンズの言葉で我に返り、ソファーにゆっくりと腰掛ける。
「今の言葉は本当か?」
「我が娘に誓って」
バーンズはコウが落ち着いていることを確認し、続けた。
「神というのはそもそも絶対神に近い連中を指す。絶対神は世界の最深部にいる。その最深部にまで深くもぐっている奴が神だ。それは十二の神として絶対神に管理されている」
「おい、ちょっと待て」
「どうした?」
「あんた達がやっているのは絶対神を決めるバトルロイヤルじゃないのか?絶対神ってやつはもういるのか?」
「いる。このバトルロイヤルは世代交代の儀式だ。もう今の絶対神は限界なんだよ。だから、新たな絶対神を選定することとなっている」
「わかった。続けてくれ」
今の絶対神が世界の法則を創っているのというのなら、とやかく言っても無駄だろう、と割り切り、先を促す。今はそれよりも大事な話が次に控えている。
「本来、神は天使でしかなれないが、ここで例外が出てきた。十月席に力を与えられたものは絶対神にアクセスできる。絶対神の元へ潜れる」
「神になるということか?」
「いいや、受験に例えるなら裏口入学みたいなものだ」
あっちの世界にも受験があるのか、と考えつつも話に集中する。
「とにかく暁コウ。お前の深度が現在どれほどのものかはわからないが、神を殺し尽くせば、お前が望む世界に作り変えることが出来る可能性が高い。時だって支配できる。絶対神への道は狭い。他の神が潜った深度を奪い、神は絶対神に辿り着く」
不敵な笑みを七月席は浮かべる。
挑戦して見せろ、と彼は言っている。
「……俺が絶対神になったら、みんなと日常を送れるのか?二度と戻ってこれない、なんて話は無しだぜ?」
「その辺はお前が世界をどう創るかによるな。設定は慎重にすることだ」
神が娘にまで誓ったのだ。
この話は信憑性がある。
神を全て亡き者にすれば、あの輝かしい日常が戻ってくる。
コウの口が自然と歪んだ。
目には血に染まった希望の色。
己の欲のために、全てを淘汰するヒトゴロシのロクデナシ。
どうせ俺の命名は『喰らう者』だ。
そうして何が悪い。
なにより――。
エリコ。
初めての戦いで手にかけてしまった赤毛のクラスメイト。
彼女が戻ってくるのなら何だって……。
頭痛が走る。
不鮮明なノイズが脳内にこだまする。
『ザッ……ザッ………我が名……ザッ……『絶……ザッ……らう……ザッ……』
その声は不鮮明であったが非常に心地よかった。
もっと聞いていたかった。
もっとその声に耳を傾けようと――。
「そうだ。殺すといい。お前を助けた十月席も、友人のような十二月席も、親友の彼女の二月席も、己の欲のために喰らうといい」
「…………ッ!」
我に返ったように顔を上げると、七月席は先ほどと変わらぬ笑みを湛えている。
「どうした?俺は神様らしく、人に希望を提示した。もっと喜んでもいいんだぜ?」
全身に冷や汗をかいていた。
「全てを殺し、願いをかなえる。俺たちと同じ位置に立つか?人間」
「俺は……」
言葉が続かなかった。
熱が回らず、悪寒がひどい。
先ほどの声は今ではおぞましいものだったと理解できる。
あれは……自分の汚い部分。
その根幹だ。
「今は休め。明日、また時間を設ける」
コウの変調を察したバーンズがアレキに指示し、コウを連れて行かせた。
アレキが返ってくると、バーンズは依然としてソファーに座り、考え事をしていた。
「あいつ……聞きかけたな。忌み名を」
バーンズの言葉にアレキが驚く。
「彼は人間ですよ?」
「あいつは特別だ。『世界の鍵』《ワールドワン》の恩恵を受けている。あれは聞いてはいけない命名だ。使えば己を滅ぼす」
「何故、彼が?」
「追い詰められすぎたのだろう。そこに希望をぶら下げられたことで無意識に禁断の領域を覗いてしまった。……もう少し図太い奴かとも思ったが、ガラスの心の持ち主だったな」
「重症であると?」
「これ以上に無いほどに、な」
天井を仰ぎ、七月席は溜息をつき、次に口をゆがめた。
「しかし、忌み名まで聞きかけるのであれば、素質は申し分ない。あの男は俺の最強の敵として立ちふさがる資格をそなえている」
闘争を愛する神が笑う。
世界は未だ戦乱を望んでいるということを示すかのようだった。
乙女ロードを抜けた喫茶店でハヅキとクゥは休憩していた。
サインを大事そうに抱えたクゥは口数は少ないものの、少しは元気を取り戻したようである。
「楽しかった?」
「……うん」
弱々しく何とか笑みを返すクゥにハヅキは頭を抱えたくなった。
完全に心が折れている。
前に会ったときの彼女はエネルギーに満ちていたが、それがそっくり無くなっている。
「ごめんなさい。……私なんかとの約束、せっかく覚えていてくれたのに…………」
(しおらしくなっちゃって……)
コーヒーに口をつけつつ、時間を稼ぐ。
「あの下っ端みたいな語尾……。やんないの?」
「もう……意味、無いから」
「聞いたわよ。貴方の語尾がああいう風になった理由」
「恥ずかしいね」
「ついでに言うとあなたの家族に何が起こったのかも大体の推測は出来ている」
「ますます恥ずかしいね」
苦笑する彼女の瞳に涙が溜まっていた。
「ロウアーは……やんちゃな奴だったの。お父さんは優しくて、アリスは……私よりも女の子らしくて、優しくて……幸せになって欲しかったんだ」
「うん」
「私はロウアーの子分って扱いにされていたから、結構、苦労したの」
「そう」
「けど楽しかった。これ以上に無いくらい楽しかった。だけど、みんなバラバラになって……私だけでも、あの時のままで、口調だって、ロ、ロウアーが、あの時の、こと、思い出して、くれるかなって…………っ!」
すでに言葉にならない。
しゃっくりをあげるクゥにハンカチを手渡すと彼女は思い切り鼻をかんだ。
「グスッ……ごめん……なさい」
「気にしないで」
クゥはハンカチを自分のポケットにしまいこむ。洗って返すつもりだということを察することができた。本来、彼女は他者に対してこういった気遣いができる女なのだ。
「私は貴方達に何があったのか大体、知っている。けど、あくまで推測でどういったやり取りが行われて現状に至ったのかはわからない」
一呼吸おいて、ハヅキはクゥの手をとる。
「教えてくれる?もしかすると、貴方の力になれるかもしれない」
クゥは少し躊躇い、そして語りだした。
あちらの世界で起こった自分の家族に降りかかった不幸の話を――。
天蓋つきのベッドの上に身体を投げ出す。
コウにあてがわれた部屋は豪華なものだった。
どうやらアレキは警戒を解いてくれたらしい。愛想はやはり大切だ。
全ての調度品が上品で、高級ホテルのスイートに泊まったような錯覚を覚える。
天蓋を見上げ、気持ちを落ち着かせる。
先ほどの声に疑問は残るが、考えたくない。不吉なものだ。触れてはならないと本能が警報を鳴らしている。
(質問すること……たくさんあるな……)
頭の中で質問をすることを考えていると、廊下のほうから大きな足音が聞こえ、コウの扉の前で立ち止まった。
一呼吸おいて、扉が静かに開かれる。
顔を出したのは銀髪の幼馴染。
セミロングの髪が不規則に揺れる。
「コウ?」
紅を引いた唇が開き、名前を呼ぶ。
一瞬、目を奪われた。
姉とは違う健康的な色気を持った女性がそこにいた。
胸元が開いた青のドレスに身を包み、こちらを濡れた瞳で見つめている。
「……アイ?」
思わず疑問符で返すと、彼女はこちらに走りより、コウの首元に手を回し、抱きつく。
その動きにつられるがまま、ベッドに押し倒された。
姉よりも小ぶりだが、姉以上に張りのある胸が押し付けられ、体が緊張してしまう。
「お、おい!どうした?」
引きつった声を上げて女の肩を持つと、彼女は震えていた。
コウの身体を土台にして、アイが上体を起こす。
「バカ!」
コウの胸に当たって少しだけ口紅が乱れた相貌がなおさら扇情的だ。
「バカバカバカバカ!どれだけ心配かけさせてんだ!」
「あ、うん。ごめん」
素直に謝ると彼女は溜息をついてコウの上からどいた。
「……素直でよろしい」
鼻を鳴らして、涙を収めようとする彼女を見て、急いでハンカチを用意する。
「あんがと」
顔をもう一度整えようと、鏡のほうへ歩く彼女の後姿を見て、正直コウは動揺していた。
(あいつ、あんなに色っぽかったか?)
がさつ、を体現しているような女だったのに、今は女の貌を見せていた。
「……なぁ」
「ん?」
顔を整え終わった彼女がこちらを振り向く。
ハヅキに負けないくらいの美人がそこにいる。
「イメチェンしたか?」
「あー……はは。似合ってないかな?」
上目遣いでこちらを見上げる仕草が堂に入っている。
「似合っている。見違えた」
正直な感想を述べるとアイが手に持っていたポーチがコウの顔に激突した。
「いってぇ!」
「ご、ごめん!つい!」
真っ赤な顔をしたアイが謝罪する。
「つい、で攻撃する癖を直せよ!」
二人で顔を見合わせ、そして、二人で笑った。
ひとしきり笑い、二人でベッドの上に腰掛ける。
「で、今までお前はなにやってたんだ?」
「マナー修行」
「はぁ?わざわざ攫われといて?」
眉を上げて怪訝な顔をすると、アイも溜息をつく。
「そういう反応をするのもわかるけどね。マジなのよ。大マジなのよ。あたしも自分の身体に起こっている変化目当てで攫われたのかなー、なんて思っていた。けど私がここに来たときにはまず品の無さを怒られ……。アレキさんにはあったんだよね?」
「あの眼鏡かけたおっかない天使な」
「そう。その人に付きっ切りで作法の勉強させられていたわけ」
「うわ。地獄だ」
「天に浮いている大陸にいるのにね」
再度、溜息をつくアイにコウは慰めの言葉をかける。
「けどこっちの上流階級の暮らしって奴には触れられたんだろ?」
「一応ね」
ベッドから腰を上げ、コウの前に直立。くるり、と一回転した。スカートがきらびやかに舞い、一瞬だけアイの健康的な大腿部が見え、羽が舞い降りるように元の位置へ戻る。
「どう?」
自信満々な顔を見せるアイにコウは親指を立てることで返した。
彼女なりの上流階級の示し方なのだろうが、正直まったく伝わらない。
豪華なドレス着て回転すれば、アイにとっては上流階級なのだろう。
とにかく深く突っ込むと殴られるのでスルーすることにした。
「すごいな。やればできるじゃねぇか」
ついでに褒めて機嫌をとる。
「これでも私は姉さんの妹なのよ」
相変わらずの調子のよさだ。見ていて安心する。
「それってダンスのターンなんだろ?ダンス踊れるようになったの?」
「えーと……まぁ……わ、私に掛かればヨユーよ!」
「うわ、一気に信憑性が無くなった」
「い、一応、やり方は一通り覚えたのよ!」
「一応、ってなんだよ。一応って」
「だって、ターンばっかやっていたんだもん」
「まぁ、反復練習は大事だな」
「そうよ。厳しかったのよ。倒れるまでターンさせられたわ。スカートの浮き上がり方がなってない、だとか。太腿の魅せ方がなってない、だとか……」
「まて」
「なによ」
「……いや、やっぱりいい」
「そう?」
コウは少し考えて、やはりスルーすることにした。
あの天使は間違ったことは教えていない。だが教え方が妙に趣味的だ。
(一回、語り合ってみたいな)
案外、趣味が合うかもしれない。
太腿の魅せ方にこだわるあたり、彼女はああ見えて変態的な素養を持ち合わせているとみた。
「後は手芸したり、花を活けたり……そんな感じだった」
「ふぅん」
「コウはもう大丈夫なの?」
腕や足を見るアイに頷く。
「八割程度だけど、もう一晩寝れば治っているだろ」
「そっか」
隣にもう一度、腰掛けた彼女はうつむいて無言になった。
「どうした?」
「……私たち、どうなるのかな?」
「さぁな」
正直なところ、自分自身ではもうどうにもならない状況だ。わからない。
「あのさ……クゥとロウアーのこと……知っている?」
「何の話だよ?」
怪訝な顔でアイを見ると、何かを考え、意を決したようにコウを見上げる。
「コウは……あの人たちの事情、知りたい?」
「知りたい」
即答した。
殆ど反射で応えたようなものだ。
「俺は何時だって、殺すやつの事は知っておきたいって思うし、仲間の事は知りたいって思っている」
次に自分の言葉に驚いた。
ロウアーはともかく、クゥのことを仲間と認められていたのだ。
「そっか」
アイが苦笑し、語りだした。
彼女達を襲った悲劇の話を――。
それでは次回に