20 忠臣そして幼き姫
夏の間ずっと放置してしまい申し訳ありません。なんとか頑張りますのでよろしくお願いします。
今回は現宰相視点で。
王宮の一室で執務を続ける国王を眺めつつ、宰相であるマーカスは心の中でだけ嘆息した。
昨夜の晩餐の様子は、給仕に当たった者達から聞いている。差し障りのない話だけが交わされた、緊張感だけが支配する、周りの者まで胃が痛むような時間だったと。人払いの後の僅かな時間の後、部屋を出た国王はいつも通り表情を出さず、戻ったばかりの側妃は目の縁を赤くさせ、硬い面持ちで騎士に送られたらしい。
抱いていた淡い希望は、あっという間に打ち砕かれたと、マーカスはその報告に頭を抱えた。
実務には長けていると自負はしていたが、元々の地位がそれほど高くなかった一文官だったマーカスが突然イスタルドの表舞台に引きずり出されたのは、前宰相の失脚によってだった。国王を欺いていた前宰相の息のかかった人間を、上から順に切り捨てていった挙句の果て、マーカスが文官のトップになる羽目に陥ったのだ。
元々下級貴族の次男で剣の才能も上に取り入る才覚も無いマーカスには、立身出世など無理だと周囲も本人も思っていたのだから、まさに青天の霹靂。
突然の宰相代理を仰せつかってからは、目の前の問題に右往左往しながら国王に付いて行くのに精いっぱいの日々だった。その間失政が無かったのは、ひとえに若い国王の力に依るものだ。マーカスはその下働きに過ぎない。
国内の一大勢力を構築しつつあった前宰相を失った後、腐敗した部分に大鉈を振るい、税を下げ、国難ともいうべき危機を乗り越えた手腕は見事と言うほかない。そして国が栄える影で、国王が多くのものを失ってきたこともマーカスは知っている。そう、初めて直接言葉を賜ることになった、あの日からずっと傍で見てきたのだから。
前宰相が牢に閉じ込められて五日目だったか、上官から順に国王の元へ呼ばれ、誰も帰ってこないことに文官たちが震えているときに自分の番がやってきた。
怯えながら豪華な扉をくぐり、目の前の若き王に膝を折ったマーカスに国王は言った。
「マーカス・ダルバ・カリュー。男爵家の次男か」
「は、はい」
「そなた、王宮で給金以外の金をもらったことがないと聞くが何故だ」
「はあ」
文官が袖の下を受ける機会は多い、事務処理の順を早めてもらいたいとか、税の申告で怪しいところを見逃してほしいとか。マーカスはそんな話から逃げ回るのが常で、同僚から『誰も気にしないのに臆病な男だ』と嘲笑を受けていた。
「どうした。早く申せ」
国王の冷たい声音に、マーカスは慌てて答えた。
「はい、あの、それはわたくしが融通の利かぬ堅物だからかと」
「ほう」
「この職を与えられてすぐに、遠い親戚から頼まれたことがあるのですが、わたしにはそんな権限が無かったので断りました。その後も何人かの要求を何度か断ってまいりまして。正直なところ任される物によっては出来ない事も無かったのですが……」
「続けよ」
「はい。それを受けると以前断った者に文句を言われると思いまして、それに一度引き受けると次々なので本来の仕事が捗らずにいる者達の様子を見て、面倒だなと」
「面倒な分、金が手に入るではないか」
「給金なら充分頂いております。独り身ですので貯まる一方で」
「ならば女に使えばよい」
「それが生憎、さっぱりでして」
「花街にも行かないのか」
「そういうところはつまらないので」
表情を見せない国王の眉が、僅かに上がった。
「つまらない、か。男にとっては面白いところだろうに」
「女に好かれる容姿でもなく、剣も弱い男ですから。そんな場所で近寄ってくる女には、わたしの顔が金に見えるのではないかと」
そう思えば何を言われても、こうやって男を手玉に取るのだなと感心するしかないのです、と俯きつつ答えたところで、国王がクッと小さく笑う声に慌てて顔をうかがった。笑顔には見えず、片方だけ口元を歪めた表情に、マーカスは冷や汗を掻いた。
もしかしたら気分を害したのでは、こうして自分も王宮から姿を消すことになるのではと悪い方へ考えが転がっていく。独り身で良かった、妻がいたら未亡人にしてしまう。ああでも母や兄には迷惑を……と困り果てているときに低く声が発せられた。
「なるほどな」
生きた心地なく次の言葉を待つマーカスに告げられたのは、思いもよらぬ言葉だった。
「マーカス・ダルバ・カリュー、そなたに宰相代理を命ずる。身を粉にする覚悟で励め」
傍らの騎士に促されるまで、返事をすることも忘れていた。
あれから四年、宰相も激務だが国王はそれ以上の日々だった。恐怖政治だと囁く貴族もいる中で公正を貫き、実直な者を身分にかかわらず重用することで政務も安定してきた。 ただ一つの問題を残したまま、とりあえずのところ国内は落ち着いている。
そういえば当時はじめに取り掛かったのは寵姫の処分だった。箝口令の敷かれた内容を後に知らされたのはマーカスただ一人。その時見せた国王の内に秘めた闇が、マーカスの心をも苛んだ。しかしだからと言って、行方不明だった側妃の件が後手に回ったのは申し開きの仕様もない。長い間ひどい扱いをしてしまった側妃には、宰相として出来うる限りのことを、とは思っているがどうしたものか。
「宰相閣下」
部下からかけられた声に、止まっていたペン先から顔を上げた。閣下と呼ぶ声には未だ慣れない。いつもその器ではないのにと心の中で思ってしまう。
「リューン国の早馬からでございます」
「ご苦労」
ミスリル王女が見つかったとの知らせを受けてのものであろう。リューン王都からの距離を考えると驚異的な速さで、いくつかの封書が届けられた。
「陛下、リューン国王からの親書をここに」
「ん」
表面に薄く貼り付けたミスリルが精緻な文様を刻んでいる文箱は、リューン王からのものに違いない。今までは他の小国と同様に宰相が中を検め、国王へは報告のみであったが、今回はそういうわけにはいかない。国王は中から取り出した紙に刻まれた流麗な書体を一瞥したのち、マーカスにそれを戻した。失礼して拝読する。時候の挨拶に続き、王女が健康でいることの感謝、王宮に戻ったのなら、王女の愛用品をいくつか送りたいと書かれていた。
「返書する」
机上の書類を除け、王は専用の羊皮紙に筆を走らせ始めた。小国への返書は文官が用意し、国王は内容を確かめてサインするのが常なので、これも異例だ。
「リューンの早馬に持たせますか」
「いや、こちらから出せ。リューンの者には充分な休養を」
「では私の屋敷でもてなしましょう」
「頼む」
サインの手を止め、国王がこちらを向いた。
「イレーヌにはまた世話を掛けるな」
「あれはじっとしているのが苦手な性質ですから、却って喜んでいると思いますよ」
「思っていたより仲良くやっているようだな」
「ええ」
国王の口元がほんの僅かだけ緩む。始終側にいる者にしか分からない、微かな変化だ。
無爵の者が宰相などと、と言う声を聞いた国王の勧めで、マーカスは没落貴族の娘であった侍女を娶ってサリエリ侯爵家を引き継いだ。利害の一致から始まった結婚だったが、自分には過ぎた妻だと、期せずしての幸せに感謝するばかりである。
「こちらはミスリル様宛でございますが、検めますか?」
もう一つの封書を差し出すと、国王は珍しく躊躇いを見せ、それを押し戻してきた。
「いや、良い。このまま彼女に」
「……よろしいのですか?」
後宮に住まう者達への手紙は、複数の文官が目を通してから本人に渡すのが決まりだったはず。そう進言すると国王は口を歪めた。
「まだ後宮に入ったわけでもない」
もうこれ以上は聞かぬと言わんばかりに、国王は除けておいた書類を引き寄せる。
「今日到着した方々が謁見を願い出ております」
侍従の言葉に溜息を吐き部屋を出る国王に、マーカスも続いた。連日の面談は人嫌い、とりわけ妃の座を狙う女たちを厭う国王には苦痛の時間でしかないのは承知の上だ。世継ぎを願う声に押される形で、祭りにかこつけ諸国の美姫を招いたのは自分の発案。あからさまに眉を顰めた国王には、それでも心動く娘がいないのなら仕方ないと諦めさせる機会となりましょうと取り成した。
失脚した前宰相の復讐で倒れた寵姫を忘れられぬ国王は、生涯妃を娶らぬようだと思い始めている者も多い。祭りで誰も選ばれなければ、その考えが確信に変わるのだろう。
既に先を読んだ一部の貴族からは、王弟に娘を引き合わせようとする動きもある様だ。
廊下を歩く国王が、ふと足を止め開け放した窓から外を眺めた。微かに聴こえる舞曲。
「ダンスの練習を望まれたので、楽団を手配した、と聞いております」
窓からは北の宮の尖った屋根が、庭園の樹木越しに見えた、踊る方々の姿はそれらに隠されている。
「そうか。他に何か望んでいたか」
「女官から報告はありませんが」
「今まで不自由していたのだ。出来る限りのことは叶えてやるが良い」
「は」
再び歩き出す間際に、若い娘の笑い声が届いた様な気がした。おや、と耳を澄ませたが、弦楽器の音が聴こえただけだった。
仮に笑い声だったとしても、昨日会った側妃のものとは思えない。
考えている隙に国王の姿が遠ざかり、マーカスは軽く慌てて歩を早めた。
「カスクール国が第一王女、アンリエッタにございます」
幾人かの口上を形ばかりは丁寧に受けた国王に、最後に謁見したのは太王太后の母国から来た少女。赤みを帯びた金髪がひときわ目立つ、まだ中性的な細い身体に成人前の娘特有の腰を絞らない形の装束を纏い、快活と優雅を織り混ぜた礼を見せる。上げた顔も気性の強さを表すごときくっきりとした容貌で、若草色の瞳を好奇心いっぱいに輝かせている。
「遠いところをよくぞお越し下された」
「はい、わたくし国を離れたのが初めてで、道中大変でしたが楽しませていただきました。都もとても大きくて、馬車から降りられないのが残念なくらい」
率直な物言いに、噴き出すのを押し殺す声がそこかしこに聞こえた。
「そうか、滞在中は見聞を深めるがいい」
「はい!」
明るい笑顔に、控えている者達の顔が和む。
「太王太后もそなたに会えるのを楽しみにしていた。明日にでも訪ねてくれまいか」
「嬉しゅうございます」
アンリエッタ王女はまだ十二歳。年頃の王女がいないカスクール国は高位貴族の娘を送り込んでくるとマーカスは踏んでいたが、返書に書かれていたのは幼き姫の名だった。輿入れを狙わず親善に徹したかとも読んでいたが、これはどうして、と思い直す。
接してすぐ利発さと明るさに惹きつけられる姫。幼さは無垢にも通じる。あまたの美女を袖にしてきた国王が、無邪気な姫に心安らぐことも有り得る。
子ども扱いされ妃にと望まれなくても、親戚にあたるのだから好感さえ得られれば友好関係の維持に役立つだろう。イスタルドとの同盟が命綱なのはどこも同じだが、カスクールはここに来て奇策を練ってきたようだ。
マーカスは思索する、どうやってこの姫と顔を合わせる機会を作ればいいかを。おそらく太王太后も同じことを考えているに違いない。ならば後程側妃の様子を訪ねた折にでも話をしてみようかと思う。
世継ぎは確かに重要な問題だ。だがそれよりもまずは国王の心とマーカスは思う。寵姫に裏切られた傷まだ癒えぬ孤高の王が、側に置きたいと願う娘であれば、それが敵国の王女でも市井の娘でも良いとまで考えている。幼かったとしたら時を待てばいいのだ。
珍しく型以外の言葉を交わす国王を見ながら、マーカスは苦手な策謀を巡らすことを決意した。