17 大国の王族、小国の兄妹
太王太后を「おばあ様」と呼ぶその人は、国王の弟だと名乗る。
「ピエールと言います。後宮に入ってしまえば会う機会も少なくなりますから、今のうちに評判のご尊顔を拝見と思いまして」
なるほど貴族たちが騒ぐはずだと笑う王弟殿下の視線に耐えきれず、ミスリルは目を逸らした。
「ピエール、貴方も来年は成人でしょう。いつまでも子供の様に振舞うのはお止めなさい」
太王太后の話では、王弟殿下は御年十七。国王に世継ぎがいないため、後継候補として帝王学を学ばせてはいるが、本人にやる気が見られず困り果てているのだとか。
「学んだところで役立つとも思いません。兄上は国王となることが決まっていたから努力したのでしょうが、自分はその器でもないし、あの兄が私を頼ることなど無いでしょう」と、王弟殿下は笑った。
侍女が急ぎ整えた席に陣取り、王弟殿下は話し続ける。
「兄は若くして戴冠し、数年前こそいろいろありましたが現在は手堅く国を治めている。近年は豊作が続き、周辺諸国との関係も上手く立ち回っている。わたしが成人したところで出番など無いのですよ。せいぜいが、妃を娶らぬ兄に変わっての種馬の役割でしょうか」
「ピエール。淑女の前なら話題を選ばぬか」
太王太后の鋭い声に、王弟殿下は動じる様子も無い。
「ミスリル殿にとっては重要な話ではないですか。もっとも、国王のご寵愛を得る機会があればの話ですが」
言いながらピエールはミスリルを凝視する。俯くとまた、からかうような口調で声が掛けられた。
「貴方を蔑んでいるわけだは無いので、お気を悪くなさらずに。兄上は相手が誰でも気に入らないようですから。どんなに想っても寵姫が墓から出てくるわけじゃないのに」
「それには困ったものだが、それにしてもそなた、礼儀を弁えよ」
「今年の夏至祭には、兄の妃の座を狙って国内外からご令嬢が押し寄せている。その時期に側妃である貴方がこの城に戻ってきたことについて、いろいろな憶測が飛び交っています。お気をつけてと忠告しておきましょう」
そうそう、と王弟殿下は兄に向き直った。
「今まで剣技大会の予選を見ていましたが、リューン国の騎士が目を瞠る戦いぶりでした。ここ数日、話題になっておりましたよ」
「恐れ入ります」
言葉とは違い、兄の顔には“当然”という色が浮かんでいた。
「余程腕に覚えがある者らしいですね」
「トーレス卿は、我が国一の使い手ですから、そう容易くは崩せないでしょう」
「本戦が楽しみだ」
予選から盛り上がっていて目が離せません。続きを観戦したいので私はこれで、と王弟殿下は立ち上がる。ミスリルは兄と二人、席を立ち礼を取った。
「ミスリル殿は観戦しないのですか」
いえ、私は、と口ごもったところに兄が助け舟を出した。
「妹はやっと病が本復したばかりですし、人の目にも慣れておりませんので」
「それは残念。皆があなたの姿を楽しみにしているのに」
王弟殿下が去った後、太王太后も疲れたので休む、そなた達はここで自由に過ごすと良いと言い置いて、侍女に連れられ部屋を出て行った。
「庭でも散策しないか」
兄の提案に頷き、兄妹で北の宮に面した庭に出る。宮付きの護衛の一人が、ここは太王太后専用の庭で、外からの出入りは許されていないのでゆっくりできるはず、と説明してくれた。
「外に出るなとは言われていないが、今城内はたくさんの客人が滞在していて騒がしい。祭りの期間中は、太王太后の言葉に甘えてここで静かに過ごすと良い」
「お兄様は?」
「諸国の王族や有力貴族がこれだけ集まる機会も少ないからな、顔も売っておかねばなるまい。ゆっくりはしていられないな」
「そう……」
ゆっくり歩くうちに、噴水のあるちょっとした広場に行きついた。兄は護衛に耳打ちをして彼らを遠ざけた。
「五年ぶりに再会して、今までゆっくり話す機会が無かったから、二人にしてくれないかと言いつけた。ここまで離れたらこちらの声は聞こえないだろうから」
宰相の館では誰に聞かれるとも知れずに、込み入った話は出来なかったから、と、兄はミスリルに傍らのベンチを勧めた。兄自身も座り、会話が小声に変わる。
「リル、五年前、宰相に何を言われて城を出たんだ」
ミスリルは当時の事を隠すことなく、全て兄に話した。後宮に入ってから寵姫が訪れたことも、その後朝まで陛下の訪れが無く、翌朝髪の色を理由に宰相から身を隠すように言われたことも。
兄は時々質問を挟みながら熱心に聞いていた。そして話が終わった時、ぎり、と歯が軋む音を立てた。
「この国の民の間に、そんな迷信は無い。お前は宰相に謀られて攫われたんだよ、リル」
森を出てから会った人々の反応で分かってはいた。ああ、そうだったのかと確認できただけだ。
「森の中へお前を迎えに行く前に、国王から五年前の事を聞いた。おそらくお前が醜いと噂されていたから、後宮に上げても寵姫の地位を妨げないと思って呼び寄せたのだろう。しかし実際、そうではなかったから、お前を隠した」
人知れず始末するつもりだったのかもしれないが、無事にいてくれて本当に良かったと、兄はミスリルの手を握りしめた。
「この城に来てから、多くの人と話をして当時の事を聞いた。国王は身分の低い寵姫を正妃にしようとしていたらしい、宰相はそれを利用して国王を操ろうと企み、失脚したそうだ。その時期に寵姫は亡くなっているが、病死なのかは怪しい。庇護していた宰相が力を失ったから、対抗する貴族が毒を盛ったのではないかと言う説もあるし、何かを知っていて口を封じられたのではとも囁かれていた」
優しげな面立ちはずの兄の顔が険しく歪む。
「イスタルド王は寵姫が亡くなってから、一切女を近づけないらしい。寵姫が忘れられないからだと言う話だ。それが今回お前を迎えるにあたって、正妃の部屋に入れようとした。そのようなことをしたら今度はお前が、あの時の寵姫の立場になる。周囲も止めたら、今度は後宮を開くことになった。お前、イスタルド王に会ったことは無かったはずだな」
ミスリルはしっかりと頷いた。
「ならばお前自身を気に入って、と言う線は無い。それでも側に置こうとするのは、形だけの妻を置いて体裁を整えたいのか、あるいは世継ぎの事を考えてかもしれぬが、それならばお前である必要など無いのだ」
―――――――だから、国に帰ろう、ミスリル。
兄は森での言葉をまた繰り返す。
「弱小国と言えど、他国の王女を貰い受けたのに五年も森の中で、供も付けずに放置していた。行方も知れなかったなどと公表できる訳も無い。お前は城に入ってすぐに病に倒れ、鄙の地で療養していたことになっている。真実を知るのは国王と宰相、それに迎えに行った騎士数名で、彼らには厳重に口止めしてあると聞いた。太王太后も王弟も、聞かされていないはずだ」
いや、違うなと兄は言い換えた。
「お前が宰相の策略で隠されていた事は噂されていた。そこまではきっと知っているのだろう。だがあのような王城近くの森で暮らしていたというのは洩れていない。それはこの数日、城内の社交場で私だけではなく、供の者にも探らせた」
「供?」
訊き返したミスリルに兄は眉を上げた。
「おいおい、仮にも王太子だぞ私は。国から一人で来るわけがない。森にはひとりだけ同行したのだが、気付かなかったか」
頷くミスリルに、兄は笑った。
「あの時は周りのことなど見る余裕も無かったからな。警備の都合で北の宮には入れぬが、折を見て引き合わせよう。子供の頃に会った顔もあるはずだ」
話がずれたと兄は顔を引き締める。
「とにかくお前は、五年もの間病みついていたと言うのが、表向きの理由なのだ。しばらくの間はそれを盾に国王とは距離を置け。夏至祭の間に国王が他の姫に心を寄せたのなら、白き結婚を理由に帰国することも出来よう。そうでなくても、リューンに帰ることが出来るかもしれぬ」
そのために、お前と一緒にいる時間を削って外交に励んでいるのだからと兄は言った。
「明日到着予定であるカスクール国の王女が、見目麗しいと大層評判だ。カスクールは太王太后の母国でもあり、イスタルドと並ぶ大国だろう?正妃候補の最右翼だ。他にも妃の座を狙う姫たちが続々やってきている。彼女たちの邪魔をして各国から疎まれるのも面倒だ」
祭りの間は極力ここに引きこもっているべきだ。兄は騎士たちの様子を見遣り、それから小声でも強い口調でミスリルに念を押す。
先程王弟殿下が話していた剣技大会予選に足を向け、その後は毎夜開かれている夜会に顔を出すから今日はもう会えないと言い、兄はミスリルを置いていった。
少しだけ歩いて庭園の中を見わたし、遠くに控える騎士を認めてミスリルは噴水の端に腰を落ち着けた。水に手を浸して涼を取りながら、城に入ってからの事を思い出し、兄に言われたことを反芻する。
この国に来てからの事に、怒りの感情は湧かなかった。「ああ、そうだったのか」というところで感情が止まっている。自分を騙したひとはもう、他の罪で処刑されている。その人の言うことに怯えて身を隠して、魔女と言われるひとと過ごした三年間、独りで暮らした二年間。
ただここで時を過ごせば、父王や兄の待つ国に帰ることが出来るかもしれないと淡い希望を抱き続けて、それが叶わないのではという諦めも同時に感じて。未来を思えば身体が動かなくなるので必死に押し込めて日々の生活に意識を傾けていたあの日々。言葉を返してくれる人さえも居なくて、自分を保つことすら難しかった孤独の日々。
水面に映る自らの姿に、ミスリルは見入った。五年間着慣れていた、質素な衣服ではなくて、華やかなドレスを身に纏い、髪を結いあげた娘が波打つ水面に揺れている。
この国に来るまではこちらの姿が当たり前だったのに――――――
森に連れて行かれた時と同じ心境だ。ただただ、途方に暮れている。
森の中の暮らしが、恋しいとミスリルは思った。
城は怖い。行きかう人々の視線だけで顔が強張り身が竦む。
今は亡き宰相も、一度だけ会った寵姫も城内に居るような気さえしてくる。怖い。
そして一番怖いのは、まだ見たこともないこの国の王。
一度も会っていない、わたしの夫。
「ミスリル様」
女性の声に振り返ると、いつの間にか侍女が控えていた。たしかアンヌと紹介されたはずだ。
「はい、なにか」
「本日国王陛下より、晩餐を共にとご招待を受けています。身支度を」
声が震えそうで、返事をするのに時間がかかった。
「……わかりました。部屋に戻ります」
侍女の先導でミスリルはゆっくりと歩き出す。
お伽話で読んだ、魔物に差し出される娘のような心持ちだと、ミスリルは密かに思った。
国王と再会するまでいかんかったです。最近話が進まない。反省。
*投稿一時間後に、王弟殿下さんの呼称がばらばらだった(ピエールと書いたり王弟と書いたり)ので統一しました。