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12 樹上の姫・中




 夕刻には引き返すと思っていたのに、木の葉越しに垣間見た家から、微かに灯りが洩れている。暗闇の中、ミスリルは嗚咽を押し殺した。

 月明かりが時々雲に遮られ、自分の手元すら見えなくなる。ランプも蝋燭すらも無い樹上で、ミスリルは昔を思い出すくらいしか時を過ごす術を知らない。








 あの日、ミスリルを乗せた馬車はイスタルドの王城を出てすぐに宰相の屋敷に向かった。豪華な客室に軟禁状態で留め置かれて数日後、侯爵自らがこの森にミスリルを連れてきたのだ。

「王城での政務が立て込んでおりましてな。我が家に戻ることも叶いませなんだ。本来ならもっと不自由ない生活を送っていただきたいのですが、その髪の色ですとどこから話が洩れるやも知れません。民に見つかればなぶり殺しに遭いますから、ここならば安心でございます」

 森の入り口で馬車から馬に乗り換えた宰相は、狭い道に苛立ちながら、行く手を遮る枝々に舌打ちを重ねながら、後ろを付いて行くミスリルがハラハラする手綱さばきでようやく目的の地へたどり着く。 最後尾の騎士が素早く馬を降り、板塀に挟まれた門に手を掛けて首を振った。

「閂など掛けおって、忌々しい。さっさと開けんか!おい!」

 真っ赤な顔で宰相が自分の名を叫ぶ。何度も何度も。


 しばらくたって、ようやく中から板戸が開けられた。馬がやっと通れるくらいの入り口を、宰相の立派な白馬、ミスリルの乗った牝馬、それに護衛の騎士が続いて通り抜けた。

 中には小さな家、畑、そして一人立つ女性。顔に深く刻まれた皺や、下がった口元からしてかなりの年齢と思われた。なのに背筋が、高貴な女性のようにピンと伸びている。


「誰かと思えば……忘れてくれていてよかったのに」

 女性は、宰相を見て眉を顰めた。


「不自由もありましょうが、悪く思わないでください。機を見て必ず。姫様は御身を大事になさいませ」

 そうするのが当たり前、と言わんばかりの態度で、宰相は女性にろくな説明もしないままミスリルを残し去って行った。

 さて、と女性はミスリルに声を掛ける。

「森もこの家も、今はあの男の持ち物らしい。忌々しいが言うことを聞くしか無いようだ。ここでは身分も育ちも関係なく、動かねば口に物は入らない。いいね?」

 こくりと頷くミスリルに、初めて女性は笑いかけた。祖母を思い出すような、品のある表情だった。



 挨拶をして名乗ったミスリルに、女性は頷いたが名を教えてくれなかった。

「面倒になるから訊かないほうが良い。私もあんたの名は忘れる」

「ではなんとお呼びしたら」

「魔女とでも呼んでくれればいい」

 口調は市井の民の様でありながら、どことなく仕草が洗練されている魔女は、以降ミスリルの名を口にすることは無かった。「ねえ」「ちょっと」と話しかけられ、「はい、魔女様」と応えるのが当たり前になった。


 魔女以外の人間とは話すことはおろか姿すらも見ることがなく日々は過ぎる。満月の翌日は、言われた品物をテーブルに出して、二人分のランチを籠に入れて、日が高くなる前に家を離れる。日が傾きだしてから戻るとそれは、小麦粉や塩、布や糸に形を変えていた。もうずっと昔からこのようにして生活しているのだと魔女は言った。なぜなのかは最後まで口にしなかった。


 魔女は丁寧に、ミスリルに生活の術を教えてくれた。ここで初めてミスリルは、いかに自分が周囲に傅かれていたのか実感した。井戸から水桶ひとつ汲み上げられない、火も満足におこせない、炊事など論外だ。失敗し涙ぐむミスリルを、魔女は慰めもしなかったが怒鳴りつけることも無い。

「魔女様、これはなんですか?」

「ああ、鳴子と言って、森に迷い込んだ奴が引っ掛かったら音がするのさ。掛け方を工夫すれば動物は引っ掛からないし、鳴る音は小さくても、驚いた鳥たちが飛び立ってくれる。案外便利なものだ」

 魔女は出入りの商人にも姿を見せず、徹底した隠遁生活を送っていた。家の他にもいくつか隠れ場所を作っていて、定期的に見回り、手入れを欠かさない。何から身を隠しているのか尋ねたら、笑いながら答えてくれた。

「もう身を隠す必要も無いと思っても、習慣になってしまったのさ。それにあんたの方が必要だろう?」

 素性もいきさつも訊かないのに、魔女はミスリルの事情を察していたようだった。やはり髪の色だろうかとミスリルは心の中で溜息をついた。

「宰相になったのかいあいつは……あんた、あの男が万が一来ても、のこのこ出て行かないほうが良い。年を取っても本性は変わらないからね」

 首を傾げたミスリルを見ずに魔女は独りごちた。

「あれの父親とはどうしてこうも違うものか……ああ、いい。聞かなかったことにしてくれ」



 日を追うごとにミスリルは、森での生活が楽しくなってきた。料理のレパートリーが少しずつ増える、手を掛けた畑で野菜が育つ、摘んだ薬草を干して加工する、ようやく世話になれた山羊の乳を搾り、作ったチーズが見たことの無い商人に引き取られ、布に代わり、刺繍したハンカチがまた商品となる。季節毎の森の恵みに感謝して、ささやかな食卓を魔女と囲む。

 雨の日は魔女の蔵書に手を伸ばす。古い本がほとんどだったが、魔女の興味は広きに渡り、退屈する事は無かった。

 母が話してくれた物語の本も数冊あって、何度も読み返していると、魔女が「余程気に入ったようだね、もうこの本はお前のものだよ」と言う。

 ミスリルの持ち物は森へ持ち込まれなかった。なのでここへ来てから一度だけ届けられた質素な衣服と櫛、そしてあの日に渡された指輪が全財産だ。

「ありがとうございます」

 頭を下げるミスリルに、魔女は目を細め口の端を上げた。


 別の日に、シーツを洗ってるミスリルに魔女が声を掛けた。

「その指輪、水仕事のたびに外すと失くしそうだね」

 これだけは触らせてもらえない小箱から、魔女は細い鎖を取り出した。指輪を通してミスリルの首に掛けてくれる。

「こうしておきなさい」

 感謝の意を軽く笑って受け流す。魔女のその顔がミスリルは好きだった。 



「魔女様、このくらいでいいのですか」

「ああ、そうだね。辛かっただろうご苦労様」

 裏庭の一角に穴を掘って欲しいと言われたことがある。詳しく示された範囲は狭かったが、ミスリルの力では何日もかかった。

「魔女様、出た土はどうすれば?」

「穴の横に盛り上げておけばいい」

 そのまま放置された穴の使い道を、ミスリルは一人になってから知ることになる。



 この森に来て二年を過ぎたころ、魔女は寝付くことが多くなった。食欲も落ち、身が一回り縮んだように感じる。

そんな魔女の身の回りに心を砕きながら、ミスリルの心に不安が忍び寄る。調子のいい時に魔女は、一人になった時の心構えをミスリルに説いた。

「寂しいとか、哀しいとか、そんな言葉は忘れなさい」

 泣き出しそうなミスリルの顔をゆっくり撫でながら、魔女は微笑む。

「あの男は信用するんじゃない。迎えに来たなら隙を見て逃げなさい」

「でもこの髪が」

「ああ……それは目立つね。被り物で隠して人に見られないように」

 あんたの素性は訊いてないけど、おおよその見当はついてるよと魔女は言う。

「怖ければここにいつまでもいることだ。十年くらいここにいれば、すんなり生まれ故郷に帰れるかもしれん。あの男はその頃死んでいるか、生きていても枯れてるだろうから」

 あの身体じゃ、長生きは無理だと思うからねと魔女は笑った。


 この森は冬でも雪は降らない。それが少し寂しいとミスリルが話した日、魔女は久しぶりに手ずから薬草茶を淹れた。それを飲みながら、ミスリルの前に小箱を差し出した。

 ずっと気になっていたのだろう?一度だけ見るがいいと開けられた中には、一房の褪せた金の髪と、緑の石を嵌めこんだ指輪があった。

「もう、遠い昔の事だから話しても仕方ない。お茶のおかわりはどうだい?私は要らないよ、夜に飲んだら後が厄介だ」

 その夜は珍しく遅くまで話をした。最近孵ったひよこ達の事、山羊の事、パンくずをもらいに来る小鳥たちの事、チーズはミスリルが作った物の方が美味しいと、いつになく魔女は饒舌だ。ついに眠気を我慢できずベッドに入ったミスリルに、魔女は優しく語りかけた。

「お前と暮らせて幸せだったよ。自分が“人”に戻れた気になった。お前には感謝している。お前の幸せを願っているからね」

 さよならの挨拶みたいな悲しいことを言わないでと言いたかったが、酷く眠かったミスリルは一言も返すことが出来なかった。



 翌朝は霜が降りるほど、酷く冷えていた。起き出したミスリルは、隣のベッドに魔女の姿が無いことに気付く。

 家の中にも、井戸にも、家畜小屋にもいなかった。

 見つけたのは以前掘った穴の中。傍らに小さな紙片が、石を錘に置かれていた。


『面倒だろうが土を掛けて、その辺にある棒でも挿しておいておくれ。さよならそして、ありがとう』


土の上に横たわった魔女は、胸の上にあの小箱を抱えていた。触れた頬の冷たさは、一生忘れることが出来ない。



 ぽたぽたと落ちる涙が、遺体の上にかけた土に混じった。

 そしてミスリルの、孤独な生活が始まった。


 泣き暮らしているわけにはいかない。一日何もしなければ、山羊の乳が張り、鶏は飢えて騒ぎ出す。そして自分も。

 一人きりの生活で空腹になるのは、とても惨めな気持ちになる。どんなに嘆いても生きていたいと身体が訴える。悲しみで動かない身体を引きずって日常生活を送るうちに、感情が薄れていくのが少し怖い。

 独り言が増えた、楽しげな歌を口にして気持ちを奮い立たせることもあった。刺繍の模様を凝ったものに仕上げたりもした。



 一番の慰めは、接触を硬く禁じられた商人とのやり取りだった。

 一人になって初めての満月の翌日、うっかり二人分作ってしまったランチを、半分皿に盛ってテーブルに置き家を出た。夕方戻ったら、注文を書く石盤に一言、『旨かったよご馳走様』と書かれていて、ミスリルは声を上げて泣いた。石盤の文字は次の満月まで消さずに、毎日眺めて暮らした。

 それからミスリルは、丁寧に生活することにした。自分で美味しかったと思う食事を月に一度商人に振舞うために、毎日の食事で研究した。上手くできた焼き菓子の包みも添えるようになった。石盤に書かれた文字だけが、励みだった。


 一人でも明るく、楽しく生きていこうと心に決めて、毎日を過ごすことにゆっくりと慣れていった。


 でも時々、分からなくなってくる。

 闇の濃い夜は却って眠りが訪れない。そんなときは身を丸めてじっと、ただひたすら耐える。寂しいと思わない、哀しいと思わない。自分に言い聞かせながら、あの夜の魔女の言葉がふと心に浮かぶ。



 魔女様、あなたが去ってから、もう季節が二巡りしています。あなたが話してくれた言葉が、このところ胸に刺さるようになりました。



 魔女様、わたしはまだ“ひと”ですか?







魔女との出会いと別れでした。

このあたりが最もミスリルには過酷かも知れません。これ以上辛い目には遭わせたくないと作者も思っています。


次回は評判の悪い国王との絡み。

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