11 樹上の姫・前
森の家近くの大樹。大きな幹が枝分かれするところに、ひとが一人横になれるほどの小屋が造り付けられている。夏を間近にしたこの季節、葉が覆い尽くしていて、縄梯子さえ引き揚げてしまえば余程注意深く見上げない限り発見は出来ない。
近づかないと入口が分からない洞穴や、木の洞など、他にも隠れ場所は数か所。とりあえず家から近いここで様子を伺うことにした。
何度か訪れた男に連れ出すと言われてから、ミスリルは警戒を強めていた。少年が着るようなシャツにベスト、スカートは履かずにズボンとして、家の周囲には鳴子を付けた縄を幾重にも張り巡らせた。
侯爵が亡くなった。それが何を意味するかは、見当も付かない。長い間一人森の中で、生国はおろか、この大国がどうなっているのかも分からない。
それでも身を守らなければ、己のためではない、父と兄がいる、生まれ故郷の為に。
「リューン国王女ミスリル様!お隠れにならずに御出でませ!我らはここ、イスタルドの騎士でございます!御身傷つけることは決してありません!」
家の前で誰かが声を張り上げている。梯子を下ろして降りてゆけば、あの騎士たちに保護されるのだろうか?それとも掴まってしまうのか。王城へは連れてゆかれるのか。そもそも本当にこの国の騎士なのか。名を聞いたところでミスリルが分かるはずも無い。
騎士を名乗る暴漢だとしたら、攫われて別の場所、最悪はここで命を落とすかも。どうして素直に出て行けよう。
この国にミスリルが信じられる人など、いないのだ。
長くは隠れていられない、森の外に逃げる術は無い。いったい私はどうしたらいいのだろう。この樹上の小屋で、ミスリルは途方に暮れるしかない。
分からない事ばかりのままここに連れてこられて五年。もう限界なのかもしれない、でも。
ミスリルは身を硬くする。見つかるわけにはいかない。それだけを心に決めて。
この大国、イスタルドの王城に入ってから、不可解なことばかりが続く。思惑の分からない人々の言いなりでここに留まって。
あの日―――――――――
後宮の一室に一人、ミスリルは居た。付き従った人々はすぐに帰され、父王から献上するように言われていた鎧も、直接国王に渡す事すら叶わずに、ベールを被ったまま用意された部屋でソファーに座っていた。
大国の王城は、自分のいた城とは比べものにならないほど大きく、華麗だった。自分が卑小な存在に思えるほどに。
実際そうなのだろう、ここに来るまでに出迎えたのは国の中枢にいる方でないことは、小さな国でも王族であるミスリルには分かっていた。
ここで世話をしてくれる女官も侍女たちも、外で警護する騎士も、丁寧ではあるがどこか冷淡で、田舎の王女だったミスリルは不安で胸が潰れる思いがした。
「ミスリル様、医師の診察があります。こちらへ」
医師と向き合い、お顔の色が見えませぬと言われ、そこで初めてベールを取った時、周囲が息を呑むのをミスリルは不思議に思った。
「あの……なにか」
「い、いえ、なんでもありませぬ!」
部屋にいた侍女がひとり、慌てた様子で出ていった。
診察が終わり、お茶を頂いているところに、女官が来客を告げる。
「ご側室のエイダ様がご挨拶にと」
この方の噂はリューンにまで届いていた。眩しいほどのご寵愛を受けていると聞く。礼を失してはいけないと緊張しつつ対峙した。
堂々とした、綺麗な方だった。陽の光のような煌めく金の髪、零れ落ちそうに大きな水色の瞳、華やかなドレスに身を包んだ姿は、さすが大国の寵姫である。
このように美しいひとは初めて。心からそう思った。
型通りの長い挨拶を終え、椅子に落ち着いて侍女がエイダにお茶を出した。優雅な仕草で口に含んだあと、優しげに話し出す姿にも魅了される。
「ミスリル様、そのベールは何故?」
「あ、これは子供の頃からでございます」
「ここではそのような習慣はありませんの。外していただける?仲良くなりたいのですから」
「はい」
言われるままにベールを外すと、エイダが目を瞠り口を押えた。
「……なんてこと」
それきり、黙り込んでしまった。こちらを見つめる眼差しに、険が含まれているようにも感じるが、それを言っていいものか迷う。
長い沈黙の後、ようやくエイダが話し出す。絞り出すような声だった。
「……貴方のお国では、そのような色の髪は多いのですか」
「いいえ、ほとんどの民は淡い金の髪です。私のこの髪は亡くなった母と同じですが、他にはおりません」
「よりにもよって……」
「は?」
「い、いえ。私用を思い出しましたの、ここで失礼いたしますわ」
立ち上がり部屋を出ようとするエイダを、ミスリルは追った。
「あ、あのエイダ様。わたくしなにか無作法を?」
そうではないのミスリル様、と答えたあと、エイダは笑みを見せて言った。
「やはり、ベールは被っていたほうが……その髪は人に見せないほうがよろしくてよ」
口の端は綺麗に上がっていたが、目の光は鋭くて。
嫌われてしまったのかとミスリルは悩んだ。
早い夕食は一人きり。そのあと湯浴みして丁寧過ぎるほど手入れをされて、ミスリルはひとり寝台で国王を待つ。
急な話で絵姿も目にせず、初対面がこのようなところなのは顔から火が出るほど恥ずかしかったが、ミスリルの立場で抗議が出来るはずも無い。豊かな大国の王が眉を寄せただけで吹き消されてしまうような国の王女なのだ。立派なのは地位だけ。それは痛いほど理解している。エイダ様から寵愛を奪うようなつもりはさらさらない。
それでも、ほんの少しでも、優しさやいたわりを感じることが出来たら。
そんな願いは叶えられることがなく、長い夜が明けた。
やって来た侍女たちは、何事も無かったかのように身支度を整える。ミスリルは膨れ上がった不安も疑問も周囲に話すことが出来ないまま、されるがままに身を任せるしかない。
朝早い時間にやって来たのはこの国の宰相。慌ただしい挨拶の後、ベールを外すように言われ、従うと唸り声が聞こえた。
「あの……」
動くと揺れる脂肪がたっぷりついた身体を椅子に納めて、宰相が口を開いた。
「確認しなかったわたしが悪いのですが……困ったことになりましたな、ミスリル様」
何を言われているのか、理解出来もしなかった。
宰相の話を要約すると。
この国の民の間では、銀の髪は不吉の証。呪われていると信じられている。もちろん神官も王族も、そしてこの宰相も、それは迷信だと思っているのだが。
国王の側室に銀髪の者がいると、悪しきことは皆貴方が原因と噂される。友好の証として参られた姫君にそのような災いが降りかかることは、国王も本意ではない。
「どんなに隠したところで貴方様がここにいると、後宮に銀髪の魔女がいると人の口に上りましょう。この国の治政の問題だけではありませぬ。ミスリル様ご自身も深く傷つきましょう。我が国の民の反感を買うことは、リューン国にとってもよろしくないことです」
ミスリルは恐怖に慄いた。
「昨夜、国王のお渡りを取りやめたのは、そのためにでございます。ですが今ミスリル様をお返しになってしまえば、諸国から我が国とリューンとの同盟の綻びを見透かされてしまう。いやはや、困ったことになりました」
たぷたぷとした輪郭に縁どられた柔和な顔を顰めて、宰相は首を振る。顎の周りの肉が、珍しい犬の頬のように揺れた。
「あ、あの、私はいったいどうすれば……」
申し訳なさそうにしていた宰相の視線が、ミスリルに固定された。顔から胸のあたり、そして足元に至るまで舐めるように見られたが、それが何を意味するのか、今まで限られた人としか会わなかったミスリルにはよく解らない。
「そうですな……とりあえずは理由を付けて王城を出ましょう」
宰相はそう言って、女官に支度を言いつけて席を外した。
動き出す侍女たちを目の前に、ミスリルは呆然としていた。国の為にとここまで来て、まさか自分が、災いを呼ぶ存在になるとは夢にも思わなかった。相談する者も周りにいない。宰相の考えに従うしか道は無かった。
やがて戻ってきた宰相が、病気を理由に城を出ることになった。側室はお手がつかずに三年経てば、白き結婚として里に帰すことが出来るので、その時期まで身柄を預かり、いずれ帰国出来ましょうと説明した。
安堵の息を吐いたミスリルに、宰相は申し訳なさ気な顔で言葉を重ねる。
「国王陛下も、この件を憂慮なさっておいでです。ここまで来て歓迎できず申し訳ない。例え離れていても、この国を出るまではミスリル様は国王の妃であると。御身大事にするが良いと仰せにございました」
一度も会っていない国王陛下が、ミスリルを妃と認めてくれた。この国に来て初めて感じた優しさに、涙が滲む。
「これはミスリル様が国王の妃であると言う証。大切になさいませ」
ミスリルの手に、指輪が渡された。明るい色味の青い石が埋められている。地金に刻まれた文様は艶やかで、名のある職人が丹精したものなのが、このような細工が盛んな国の王女だからこそ、ミスリルにはよく解った。
「ありがとうございます」
樹上の小屋でミスリルは、その指輪を取り出し眺めた。国王からミスリルに向けられた、唯一の心が込められている。木漏れ日に輝く明るい青は、陛下の瞳の色なのか。ならば髪はどんな色だろう。順当なのは金、あるいは赤毛、明るい茶かも知れない。
大国イスタルドの側妃ミスリル。五年もその位置にありながら、夫の姿を彼女は知らない。
いやその指輪、国王知らないし。
それに国王に会ってるし。
でもそれを知らないんです姫。可哀想という意見多いのにさらに追い打ち。
次回は魔女(と呼ばれるひと)との出会い予定。