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『鍋ひとつで、王国を救ってしまった件』(連載版)  作者: くろめがね


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2/2

第二話 「おかゆの匂いは、戦より先に届く」

第二話も美味しくどうぞ。

 朝になっても、石の広間の空気は冷たいままだった。

 けれど、昨日までの“乾いた匂い”が少し薄い。


 人の息が、まともになった匂い。

 眠れた人間の匂い。


 私は火の落ちた炉の前で、鍋の縁を指先で確かめた。

 冷たい。――まだ早い。


「おい、料理人」


 背後から声がした。

 昨夜、匙を握って目を閉じた兵士だ。今日は立っている。立てている。


「……俺、腹が痛くない」


 報告するように言って、照れたみたいに視線を逸らした。


「よかったですね」


「昨日の……あれ、何した?」


「消化に悪いものを、避けただけです」


 言いながら、私は水を張り直す。

 骨は昨日ので十分。今日は、もっと軽くする。


 ――ここ、前線だ。

 血の匂いと、鉄の匂いと、焦げた匂いが混じる場所。

 そんなところで、胃が弱っている人間に“濃いもの”を入れたら、身体は拒む。


 火を入れる。

 ゆーっくり、ゆっくり。


 水が温まるにつれ、空気がわずかにやわらぐ。

 匂いが、鋭くなくなる。

 鍋の底で、何かがほどけていく匂い。


「……お、また来た」


 大きな女性が、どすんと腰を下ろした。

 胸も肩も存在感も、朝から容赦がない。


「あたしが見張ってやる。

 あんた、鍋見てな」


「見張りって……」


「人が増えると、盗むやつも出る。

 “匂い”ってのは、腹だけじゃなくて理性も動かすの」


 言って、彼女はひょいと桶を持ち上げた。

 力がある。

 生活の力だ。


「はいはい、そこ! 並ぶなら列つくりな!

 寝てたやつ、先に座らせな!」


 言葉の端が鋭いのに、不思議と怖くない。

 叱る声が、誰かのためにあると分かるからだ。


 そのとき、小さな影が、入り口でもじもじしていた。


 子ども。

 兵士の子だろう。

 頬がこけていて、目だけが大きい。


 持っているのは固いパン。

 抱える手が、弱々しい。


「……こっち」


 私は手招きした。


 子どもは一歩近づいて、匂いを吸った。

 吸って、止まった。

 息を吸うのが“嬉しい”という顔をした。


「噛める?」


 聞くと、首が小さく横に振られた。


「じゃあ、柔らかくしよう」


 私は鍋の横に小鍋を置いた。

 昨日の薄い出汁を少しだけ移し、穀物を入れる。


 米ではない。

 この世界の、つぶの小さな穀物。

 そのままでは硬くて、弱い胃には重い。


 だから、煮る。

 ゆーっくり、ゆっくり。


 湯気が、ふわりと立つ。

 甘い匂いが、低い位置で広がっていく。

 砂糖の甘さじゃない。

 穀物がほどけていく匂い。

 「食べてもいい」と身体が思う匂い。


 大きな女性が、目を細めた。


「……あんた、その匂い。

 怒ってる腹でも、許しそうだね」


「許してくれるといいんですけど」


「許すよ。

 腹は正直だもん」


 小鍋を木べらで混ぜる。

 鍋底が、こつん、と優しい音を立てる。

 それだけで、広間の空気が少し落ち着く。


 ――これが、料理の一番の仕事だ。

 味より先に、匂いで「安心」を作る。


 とろりとしてきたところで、私は火をさらに落とした。

 沸かしすぎない。

 ぐらぐらは、胃を驚かせる。


 少しだけ塩。

 ほんの少し。

 病人や子どもの舌は、強い味を受け止められない。


 匙ですくって、息で冷ます。

 湯気がほどけて、匂いがふわっと広がる。


「はい」


 子どもに差し出すと、受け取る手が震えた。

 怖いのではなく、期待で震える。


 子どもは一口、口に入れた。

 噛まない。

 飲み込む前に、目を丸くする。


「……あったかい」


 その一言が、広間の温度を一段上げた。


 子どもはもう一口。

 もう一口。

 匙が止まらない。


 見ていた兵士が、喉を鳴らした。

 大きな女性が、肩で笑う。


「ほら見な。

 生きるって顔になった」


 子どもの後ろにいた母親が、口元を押さえた。

 泣くのを堪えるみたいに。


「……こんなご飯、初めてです」


「初めてじゃなくて、いいんです」


 私は淡々と答えた。


「毎日、こういうのがあるといい」


 母親が、ふっと目を見開く。

 “贅沢”と“当たり前”の間で揺れる顔だ。


 そこへ、あの細身の男が近づいてきた。

 背が高く、姿勢が整っていて、顔が――相変わらず、反則だ。


 近くに来るだけで、空気が静まる。

 兵士が背筋を伸ばす。

 習慣みたいに。


「私が見てきた前線の炊事は、量が正義でした」


 淡々とした声が、湯気の向こうから落ちてくる。


「ですが……これは」


 彼は、小鍋から漂う匂いを一度だけ吸い、視線を上げた。


「“食べられる”ことが正義ですね」


「はい」


 私は頷く。


「胃が動いてない人に、量を入れても意味がないので」


 彼の目が、ほんの少しだけ細くなる。

 笑う前の気配。

 それが“犯罪級の顔”に宿ると、ちょっとズルい。


「理屈が通っています」


 言い方が、褒めているのに淡々としている。

 けれど、“評価している”のが分かる。


「あなたは、ここが前線だと理解していますか」


「……してます」


 私は小鍋の火を見たまま答えた。


「だから、ゆっくりにしてます」


「ゆっくり?」


「急ぐと、胃が驚くので」


 大きな女性が吹き出した。


「あんた、戦場で『胃が驚く』って言えるの強いわ」


「驚くと、吐くので」


「真顔で言うんじゃないよ」


 広間の端で、誰かが小さく笑った。

 笑い声の匂いがした。

 久しぶりに、この場所に“人間”の匂いが混じる。


 そのとき、奥から声がした。


「おい……こっちも、頼む」


 声は弱い。

 でも、呼ぶ力はある。


 視線を向けると、毛布にくるまった若い兵士がいた。

 汗の匂い。

 浅い呼吸。

 口の中が乾いている匂い。


 ――熱。


 私は小鍋を持って近づき、顔を覗き込む。


「飲める?」


 兵士は小さく頷いた。

 けれど、喉が動かない。

 唇が乾いて、匙を受け止められない。


「じゃあ、先に水分」


 私は小鍋の上澄みをすくい、塩をほんの少しだけ溶かす。

 薄い。薄いけれど、意味がある。


 汗をかいている身体は、水だけでは戻らない。

 でも、濃いものも受け付けない。


 匙を当てると、兵士の喉が、やっと動いた。

 ごくん、と小さく鳴る。


 その音が、周りの兵士の背中を少し起こす。


「……もう一口」


 次を求める声は、か細いのに、強い。


 私は頷いて、もう一口。

 ゆーっくり、ゆっくり。


 そのうち、兵士の眉間の力が抜けた。

 肩のこわばりがほどける。


「……腹が、落ち着く」


「よかった」


 たったそれだけで、場が少し明るくなる。


 細身の男が、静かに言った。


「“うめき声が消える”のは、軍にとって価値が高い」


 価値。

 その言葉が、この場に似合わないくらい冷たい。


 大きな女性が、腕を組んだまま返す。


「あたしらにとっちゃ、価値じゃないよ。

 人が寝られるってだけだ」


 男は、視線を落とさずに頷いた。


「……ええ。

 だから、価値が高い」


 淡々としているのに、言葉が折れない。

 この人は、優しいとは違う。

 でも、守り方を知っている。


 私は立ち上がり、小鍋を火から外した。

 次に必要なのは、もっと“広く”効くものだ。


(胃が弱ってる人には、他にも色々ある)

(粥だけじゃない。蒸し物、すり潰し、温度……)


 けれど、まずは今日。

 今日を越えないと、明日が来ない。


 大きな女性が、私の肩をぽん、と叩いた。


「あんた、名前は?」


「……後で」


「後で? 変な子だね」


「鍋のほうが先です」


「そういうとこ、好きだよ」


 彼女は笑って、配膳を仕切る。


「はいはい、病人はこっち!

 元気なやつ、勝手に突っ立ってないで、運べ!」


 人が動く。

 兵が動く。

 鍋の匂いが、仕事をしている。


 そのとき、外から駆け込んできた兵士が叫んだ。


「隊長が倒れた!

 ……医者が、手が回らない!」


 広間が、一瞬で静まった。

 血の気が引く匂いがした。


 細身の男が、淡々と私を見る。


「あなたが必要です」


「……はい」


 私は迷わなかった。

 迷う暇があるなら、火を見たほうがいい。


 大きな女性が、桶を持ち上げる。


「あたしも行く。

 あんた、鍋持てる?」


「持てます」


「じゃあ決まり。

 走るよ、料理人」


 私は小鍋を抱え、深く息を吸った。


 鉄と汗と冷気の中に、

 まだ残っている――

 おかゆの匂い。


 この匂いは、戦より先に届く。


 そう思って、私は前線の奥へ走った。


60話ほどで、この旅は終わりますので、よろしければ最後まで。

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