第一話 鍋の前に立つ
この物語は、
強さを誇る話ではありません。
誰かを言い負かす話でも、
派手な奇跡の話でもありません。
お腹が空いている人に、
温かいものを出す。
それだけの話です。
匂いが、先に届く物語になればいいなと思っています。
どうぞ、鍋のそばへ。
目を開けた瞬間、
ここが日本じゃないことだけは分かった。
石の天井。
鎧の擦れる音。
そして――
ちゃんと食べていない人間の匂い。
冷えて、乾いて、
胸いっぱいに吸い込んでも、どこか足りない空気。
焦げでも、腐りでもない。
ただ、腹の奥がじわじわと縮んでいくような匂いだった。
「……ああ」
私は小さく息を吐いた。
「これ、ちゃんと食べてない匂いだ」
声は低い天井に吸い込まれていき、返ってこない。
身体を起こすと、視界の端に人影がいくつも見えた。
鎧を着た男たちが、床や壁際に座り込んでいる。
兵士だと理解する前に、もっとはっきりしたことが分かる。
全員、同じ顔をしている。
血の気が薄く、唇は乾き、
目の奥に、長い疲労が沈んでいる。
腹を押さえている者。
膝を抱えたまま動かない者。
目を閉じ、呼吸だけを数えている者。
動けないわけじゃない。
でも――動く理由が、もう残っていない顔だった。
「……ご飯、食べてる?」
考えるより先に、口が動いていた。
料理人を長くやっていると、こうなる。
「食ってるさ。朝も昼も」
返事をした兵士は、胸を張ろうとして、途中でやめた。
声に、張りがない。
視線を巡らせると、火にかけられた鍋が目に入った。
大きく、黒ずんだ鍋。
中を覗いた瞬間、胃の奥が、きゅっと縮む。
煮え切らない肉。
色の抜けた根菜。
塩の匂いだけが、重たく沈んでいる。
――これは、弱っている人の飯じゃない。
「……ねえ。その鍋、ちょっと借りていい?」
誰も止めなかった。
止めるほどの余裕が、ここには残っていなかった。
私は鍋を抱え、水場まで運ぶ。
中身を静かに捨てて、
もう一度、水を張った。
骨を入れる。
使えそうな野菜を、形を崩さないまま入れる。
火を弱める。
ゆーっくり。
ゆっくり。
ぐらぐら煮立たせない。
ただ、温度を上げていく。
最初は、水の匂いだった。
少しすると、空気が、ほんのり変わる。
甘い、というほど強くない。
でも確かに、
「あ、今、空気がやわらいだ」
と分かる匂い。
鍋の底で、骨と野菜が、静かに手をつなぎ始める。
木べらで、鍋底をなぞる。
かき混ぜる音が、
この広間で、いちばん優しい音になった。
「……なんだ、その匂い」
ぽつりと、誰かが言った。
兵士の一人が顔を上げ、
鼻を、ひくりと動かす。
もう一度、深く息を吸う。
ふぅわっと、
野菜を煮込んだ、美味しい匂いが広がっていた。
「スープです。お腹に優しいやつ」
説明は、それだけでいい。
塩を、ひとつまみ。
ほんの少し。
刻んだ野菜を加えると、
湯気が、やわらかく立ち上った。
乾いていた空気が、後ろへ下がる。
代わりに、胸の奥を、そっと撫でるような匂いが満ちていく。
(胃が弱ってる人には、
本当は、他にも色々あるんだけど)
今は、これでいい。
匙を差し出すと、
兵士は一口、口に運ぶ前に目を閉じた。
ふう、と息を吐く。
それから、何も言わずに、もう一口。
誰も喋らない。
ただ、匙の触れる音だけが、静かに重なった。
しばらくして、
大きな影が、私の横に立った。
「あんた、料理人かい?」
低く、よく通る声。
振り向いた瞬間、
視界が一気にふさがれた。
――大きい。
胸も、肩も、存在感も。
その女性は腕を組み、鍋を覗き込む。
「なるほどね。
こりゃ、腹の奥にくる匂いだ」
言い切りが、気持ちいい。
「はいはい、そこ邪魔だよ。
食べてる人、優先!」
その一声で、人の流れが変わった。
配膳が始まり、
場が、自然に回り始める。
私は火加減を確かめながら、静かに息を整えた。
――大丈夫。
鍋は、ちゃんと応えてくれている。
そのとき、少し離れた場所で、
こちらを見ている人がいた。
背が高く、細身で、
姿勢がやけに整っている。
表情はほとんど動かない。
ただ、その顔が――
近くにあるだけで、思考が一瞬止まる顔だった。
兵士の何人かが、
無意識に背筋を伸ばしている。
理由を考える前に、
体が反応しているのが分かった。
――ああ、これは。
視線が合った瞬間、
こちらが先に目を逸らしそうになる。
それでも、その人は何も言わず、
ほんのわずかに、会釈した。
声を聞く前に、
まず「整っている」と思ってしまうのは反則だ。
「私の顔を見て、黙る方が多いのですが」
淡々とした声。
「体調の影響でしょうか」
……顔の影響だと思う。
「いえ」
私は鍋から目を離さずに答えた。
「今は、匂いのせいです」
顔の話をすると、
場の温度が変わりそうだった。
一瞬、
その人の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
その夜、
うめき声は、一つも聞こえなかった。
兵士たちは久しぶりに眠り、
寝息の匂いが、少しだけ、軽くなった。
私は鍋を洗いながら、ぽつりと思う。
「……今日の夕飯、何にしようかな」
まだ、何も始まっていない。
でも、火は入った。
ゆっくり、
ゆっくりと。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この作品に出てくる料理は、
特別なものではありません。
病人のための食事も、
大衆のための食事も、
「ちゃんと調べて、ちゃんと理由がある」
そんなものばかりです。
料理は、魔法ではありません。
でも、食べられるというだけで、
人は少しだけ前を向けます。
主人公が信じている正義は、とても単純です。
――ア◯パ◯マンのみが、この世で正義。
今日の夕飯を考えるような気持ちで、
この物語も続いていきます。
気が向いたときに、また鍋を覗いてもらえたら嬉しいです。




