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グレイル・アイズ  作者: 九六式
冥海の使者
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冥海の使者





「油断……?」


 確かに、目の前のコイツは油断し切っている。だがこちらは武器を失い、背後から伸びる触手に退路も塞がれている。


 絶対絶命だ。


 いくら油断しているからと言って、付け入る隙は無い。それとも、彼女には何か活路が見えているのか。


 目の前の化け物は、滑稽な物を見るかの様にニヤニヤと笑っていたが、やがてその笑顔が消えていく。


 グジュルッ……ビチャッ


 不快な音。それが背後から伸び、壁に突き刺さっているその触手から聞こえる。そして


「っ!?」


 突然、触手が先端から黒く変色していく。


 全て真っ黒になると、今度はボコボコと嫌な音を立てながら表面が変形し、やがてベチャベチャと音を立てながら崩れていく。


 ズルッ


 また違う音が聞こえる。今度はすぐ目の前だ。


 いつの間にか髪を束ねていた彼女が、その束ねた髪の中から何か黒いモノを引き摺り出そうとしている。


 そして、徐々にソレが露わになるにつれ、目の前の彼女の長い頭髪が対照的に白く染まっていく。


 漸く何か、事の重大さを察した化け物は、身震いをしたかと思いきや人間の殻を突き破ってその正体を晒す。


 ブヨブヨとした肉塊から無数の巨大な触手が同時に彼女へと襲いかかる。今までとは違う、一切の手加減無し。それが、奴にできる最優の選択肢。


 しかし、その判断は一歩遅かった。


「残念。時間切れ」


 触手は彼女に辿り着く事なく、ボトボトと床に転がる。その何れもが真っ黒に染まっている。


 そして、彼女の右手には一振りの剣が握られている。彼女の身の丈ほどはあろう大きさ。装飾の類は無く、ただただ黒いだけの大剣。


「ィィイギャァァァァァァァァッ!」


 突然悲鳴が上がる。


 見れば化け物がもがき苦しむように、その巨体を激しくくねらせている。


「やっぱり、ハイエンドでは無かったわね」


 そう言って彼女は右手の剣を手放す。


 剣は地面にぶつかると同時に、ベチャリと音を立てながら黒い水溜りになる。


「悪性魔素。貴方達の肉体を構築する魔素を、触れた箇所から食い尽くし、自身と同じ存在へと作り変えていく」


 悪性魔素。確かに彼女はそう言った。


 何だ、それは。聞いたことが無い。あの黒い剣を形作ったモノが、あの禍々しい液体が、魔素だと?


「作り変えられてしまった魔素は、その肉体の構築を維持できず、やがて崩れゆく……ねぇ、どんな気持ち?末端から徐々に別の物へと変えられて死んでいく気分は。って、もう聞こえてないか」


 気づけば化け物も剣と同じく黒い水溜りに変わっていた。


「触らない方が良いわ。人間に対しては連中程の効果は無いけれど、決して無害という訳でも無いから」

「言われなくても触らないよ」


 ただそのままにしておくわけにもいかない。


「放っておいて良いわ。どうせそのうち死んで蒸発するから」


 どうやら悪性魔素は長持ちしないらしい。それがどんな理屈なのかは教えてくれなかったが、癌細胞の様に宿主が死んだ事で栄養が供給されず死んでしまうのかもしれない。


 一瞬であの化け物を食い尽くすほどの大食いだ。空気中に漂う微細な魔素では生きていけないのだろう。


「結界も消えたわね。ほら」

「あっ」


 遠くで車の走る音や、学生たちの楽しげな騒ぎ声の様なものが、部屋の外から聞こえてくる。


 あの誰も居ない、あの不気味な世界から帰ってきたんだ。


「それじゃあ私は帰るわ。くれぐれも帰り道に気をつけなさい」


 それだけ言って彼女はスタスタと外に向かっていく。


「あ、あの!」


 思わず引き止める。結局彼女が何者なのか教えてもらえてない。


 僕は彼女の事を何も知らない。命の恩人の名前すら知らないのだ。


 立ち止まると、白く長い髪を揺らし振り返る。


 まるで人形のように整った顔立ち。何処かで会った様な妙な既視感があるが、こんな綺麗な人、一度出会ったら忘れないだろう。


 たぶん、僕の気のせいだ。


「オルカ」

「え?」

「私の事は、そう呼んで」


 そう言って今度こそ彼女はその場を去る。慌てて追いかけるが、外には誰もいない。


「っ、燕翔寺かよ……」


 最近仲良くなった、小動物の様な友人を思い出す。


 まるで夢の様な出来事。何もかもが現実味のない不思議な出来事、振り返っても既に化け物だったモノすら残ってない。


「(けど……)」


 自分の掌を見つめる。そこにはほんのりと、彼女に握られていた時の温もりが残っている。それが今日起こった全てが、現実であったことを物語っていた。


「オルカ、か」


 名前しか知らない彼女の顔を思い返す。

 

 この日の出来事を契機に、数々の困難が僕たちに降りかかってくる事を、この時の僕には知る由も無かった。






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