深夜のブルー、夜明けのグラデーション
ウェブデザイナーの桃香は、クライアントからの無茶ぶりに追われてストレスを感じていた。そんなある日、ミッドナイトブルーのヘッドホンと出会う。深く美しいその色に導かれ、桃香の世界は変わり始める。
WH-1000X M6「ミッドナイトブルー」発売記念 オリジナル作品募集で作ったお話です。
原稿内に「ミッドナイトブルー」「ヘッドホン」を入れることが条件でした。
「弊社のロゴが目立たないので、色を変えてもらえないか?」
クライアントからの無茶なリクエストを見て、桃香はひっそりため息を吐いた。
都内の小さなデザイン事務所は、昼前のこの時間が1番人口密度が高い。ある人は眉間に皺を寄せ、ある人は紙パックのコーヒー牛乳をガブ飲みしながら、桃香と同じようにクライアント対応をしている。
ウェブデザイナーとして3年働いてきた。もちろん、ちゃんとしたクライアントもいるが、むちゃくちゃなリクエストを平然と振ってくるクライアントの方が多い。
『御社のロゴは色を変えないように、という指示が最初にあったはずですが』
とメール返信しようとして、指を止めた。違う。そうじゃない。この人が言いたいのは、ロゴが目立たないという主張であって、色を変えることが本題ではない、と気づいたときには右のこめかみのあたりがチリリと痛んだ。
デザイン案を開く。ロゴが入る画面右上の背景を明るくしよう。そうすれば自然とロゴが目立つ。
いつか自分のデザインで誰かを感動させたい、と桃香は夢見ていたが、現実は遠い。
納得できるデザインに修正したものを、メールに添付した。
未処理のメールは山積みだった。
「このフォント、ダサいので変えて」
「もっと可愛い感じにして、締め切りは明日で」
桃香は読みながら胃がキリキリしてきた。偏頭痛も治まらない。鎮痛薬を飲んでみようかとバッグに手を入れた瞬間、中に潜んでいたヘッドホンの、硬い感触が爪先に当たった。
資料探しで本屋に出かけたとき、家電量販店で視線を奪われたヘッドホンがあった。深く吸い込まれるような深い青。プライスタグには「ミッドナイトブルー」と書かれていた。
その名前が、夜の海のように桃香の心に静かに響いた。
試着すると耳に柔らかくフィットし、ノイズキャンセリング機能が周囲の喧騒を消し去った。
「これ、欲しい」衝動的にレジへ向かった。
ミッドナイトブルーのそれを装着し、好きな音楽を流す。すると、不思議と心が落ち着いた。
クライアントの声が遠のき、目の前のデザインに集中できた。色や形、配置──自分の世界に没入する感覚。
修正依頼も、まるでパズルを解くように楽しめた。
「このヘッドホン、魔法みたいだな」
桃香は小さく笑った。
それから、ストレスがピークに達するたび、桃香はヘッドホンを装着した。
ミッドナイトブルーの世界に閉じこもれば、どんな無茶振りも乗り越えられた。デザインのアイデアも冴え、クライアントからの評価も少しずつ上向いていった。
ある日、桃香はオフィスでいつものようにヘッドホンを装着し、ウェブサイトのレイアウトを調整していた。クライアントの要望は相変わらず細かく、頭を悩ませながらも、ミッドナイトブルーの世界で集中していた。
すると、突然、肩をポンと叩かれた。
驚いて振り返ると、そこには見覚えのある顔。桃香が憧れていたウェブデザイナー、佐藤悠眞だった。
「え……?」
「ごめん、急に。君の画面、ちらっと見たらめっちゃ素敵なデザインで、つい声かけたくて」悠眞は少し照れたように笑った。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
社内の別デザイナーとの打ち合わせだったらしい。呼ばれて歩いていく彼の背中が小さくなっていく。
悠眞のデザインが好きで、作品集のZINEを通販で購入したこともある。業界では名の知れた存在で、桃香は何度も彼の作品集を眺めて「いつかこんなデザインを」と夢見てきた人物だ。
頭が真っ白になり、上手く言葉が出てこない。
「あ、えっと……ども」
憧れの人に褒められた喜びが胸を満たしたが、同時にいたたまれない恥ずかしさがこみあげてきた。ちゃんと伝えなきゃ、と思えば思うほど何も言葉にならない。
悠眞は「またね」と軽く手を振って去っていった。
桃香は慌ててヘッドホンを再装着し、パソコンの画面に向き直った。
(なんであんなことしか言えないんだろう)
後悔とドキドキが混ざり合い、顔が熱くなる。
それでも、悠眞の言葉は心に残った。「素敵なデザイン」。誰かに、しかも憧れの人に認められた瞬間だった。
ミッドナイトブルーのヘッドホンから流れる音楽が、まるで喜びを増幅するように、アップテンポのものに変わった。
その日の帰り道、電車に揺られながら、桃香は窓に映る自分を見た。
ミッドナイトブルーのヘッドホンを着けた自分は、ほのかに笑っている。いつもなら、疲れ切って無表情なはずなのに、今日は違う。心のどこかで「明日も頑張ろう」と思えた。
クライアントの無茶振りも、ストレスもきっと乗り越えられる。
ミッドナイトブルーの魔法があれば。
そして、いつかまた悠眞に会えたら。今度こそちゃんと、気持ちのこもった「ありがとう」を伝えよう。
そう心に誓った。
電車の窓に映る笑顔が、桃香の新しい1歩を照らしていた。
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