4話:試験と手
【〇月〇日・〇時〇分】
渡された服に着替えた2人は、顔を見合わせた。
上下揃いの黒いジャージが、やけに浮いて見える。
「なぁー、これダサすぎん♡」
「くそださジャージとか、初めて着たわ」
文句を言いながらも、モネとベラは同時に円形の光へと視線を向けた。
光は不規則に明滅し、ビリビリと空気を震わせている。
まるで、内側から何かが出てこようとしているようだった。
床に伝わる微かな振動に、ベラは思わず足元を見下ろす。
理由は分からないけれど、胸の奥がざわつく。
ただ嫌な予感だけが確かにあった。
「これなんか出てくるんちゃうん♡」
「一応、あそこから離れとこ」
2人が数歩下がった瞬間、地響きが部屋いっぱいに広がった。
空気が弾けるような音とともに、光の中心が大きく歪む。
床に亀裂が走り、光の中から黒い影が伸びた。
それは最初、獣の前脚のように見えた。
「うわ、きたきた!♡」
「やばいんちゃう!?」
鋭い爪が床を掴み、重たい音を立てて姿を現す。
大きなイタチのような化け物だった。
人の倍以上はある体躯に、しなやかで艶のある毛。
目だけが不自然に光っている。
イタチは低く唸り声を上げると、首を傾げるようにして2人を見た。
モネは軽い目で見ているのに対し、ベラは警戒の目で見返す。
「でかくてかわいいとか反則すぎっ♡」
「よぅ見てから言いや!」
言い終わるのと同時に、イタチの足が床を蹴った。
乾いた音が鳴り、一瞬で距離が縮まる。
「はっや....!」
2人の体は勝手に動いた。
考えるよりも先に、横へ飛ぶ。
爪が空を切り、床に深い傷が刻まれた。
心臓が早鐘を打つ。
けれど、不思議と恐怖だけではなかった。
ベラの背中は、じわりと熱を帯びている。
そのときだった。
イタチの背後で、静かにもう1つの円形が生まれていた。
その円形の光は、さっきよりも静かだった。
音もなく、ただ淡く、存在感だけはある。
「モネ、あれさぁ....」
「言わんでもわかるわ。後ろやろ?♡」
振り返った瞬間、空気が一段と重くなり、2人は何かに押し潰されそうな気がした。
すると、光の中から細長い影がゆっくりと姿を現した。
鱗に覆われた胴体。
天井に届きそうなほどに長い首。
それは龍だった。
動く度に鱗が擦れ合い、低い音が空間に響く。
イタチとは明らかに違う。
この場の空気そのものを支配するような存在だった。
「けっこー、ピンチな感じ?♡」
「冗談抜きで結構ピンチやな」
イタチは前脚で床を引っ掻きながら、龍の方を一瞬だけ見た。
まるで合図を待っていたかのように、2体が同時に身構える。
その瞬間、壁一面にまたサクラが映し出された。
「今から試験を始めます。私が満足するまで、戦ってもらうからね」
淡々とした声。
感情は乗っているのか、乗っていないのかも分からない。
サクラが壁から消えると、すぐにイタチが素早く動いた。
低く、速く、床を滑るように距離が近づいた。
ベラは反射的に前へ出る。体が軽く感じ、怖いのに動ける。
「モネ!龍の方、頼むわ!」
「うぃ〜♡」
【ベラ・イタチ】
距離は、ほんの数メートル。
それなのに、異様なほど遠く感じた。
イタチは低く身を伏せ、床に腹を擦るほど、姿勢を落としている。金色の目だけがこちらを捉え、瞬きひとつしない。
獲物の呼吸や癖を読み取ろうとしている、そんな静けさだった。
──目、外したら負けや。
そう思ったとき、イタチの姿が視界から消えた。床を削る音が、耳に届く。
反射的に体を捻ったが、完全には避けきれない。
風圧が頬を掠め、熱い痛みが走った。
気づけば、頬から血が滲んでいた。
速い。
考えるより先に、背中を冷たい汗が伝う。
一歩下がる判断がほんのわずかに遅れた。
イタチは間を与えない。
血に気を取られていると、横から鋭く飛びかかってくる。
腕で受けた衝撃は重く、体ごと弾き飛ばされた。
床に転がり、息が肺の奥で詰まる。
視界が揺れ、天井と床の区別が一瞬つかなくなる。
──やばい。
立ち上がろうとした瞬間、頭上に影が落ちた。
ベラは本能のまま、腕を突き上げた。
触れた。
体の奥が、ぐっと引き攣れる感覚。
何かを無理やり引き抜かれるような、嫌な感覚。イタチの動きがピタリと止まる。
時間が凍りついたように、互いの距離が固定された。イタチの金色の目が、ほんの少しだけ見開かれる。
すると、重たい音を立てて床に崩れ落ちた。意味が分からなかった。
殴った感覚も、突き飛ばした覚えもない。
ただ触れただけ。
ベラは震える手を見つめる。右腕が痺れ、力が入らない。
イタチは体を起こさず、床に伏せたままだ。
呼吸はある。
だが、まるで意識だけが切り抜かれたみたいに動かない。胸の奥に、妙な実感だけが残っていた。
できた、という感覚と理解できていない不安が入り混じる。
「とどめ刺さなあかんよな」
声が少し震えた。
床に刻まれた爪痕を踏み越え、一歩ずつ近づいていく。
──情けかける相手ちゃうよな。
分かっているのに、喉が鳴る。
しゃがみ込み、震える手でイタチの額に触れた。抵抗はなかった。
イタチの輪郭が静かに崩れ落ちる。砂が風でほどけるみたいに、音もなく。
「え、あっけな....」
最後に残った金色の光が、ふっと消える。そこにはもう何もなかった。
ベラは、床にそのまま倒れ込んだ。天井がやけに遠い。
息を整えようとしてもできない。
心臓だけがまだ戦っているみたいに早かった。
「へぇー。ベラちゃんは思ったより早かったね」
サクラの声。
どこか遠くから響く、相変わらず淡々とした声。
【〇月〇日・〇時〇分】
ベラの意識は完全に沈んだ。




