第9話
『ラビット』の本拠地、その一室。暗闇の中、レースに包まれた手がパチンとスイッチを押した。照明がつき、一気に部屋の中が明るくなる。大きな事務机に書類の詰まった棚。厚手のカーテン、デザイン性に富んだテーブルランプ、本革の使用された高級感のあるチェア。ここは俗に『執務室』と呼ばれるような部屋だ。『ラビット』の建物の内部は洋風のデザインで統一されているが、中でもこの部屋は重厚感を感じるインテリアで揃えられていた。……これは別に、姫月の指示や趣味でこうなったわけではない。デザインにこだわりのある者に全て任せたところ、こうなっていただけだ。
「……」
照明をつけ終えた手をパニエで広がるスカートの上へと戻し、黒白のフリルは机に向かって歩き出した。頭に乗せたミニハットから零れる長いレース、そして二つに結ばれた長い白髪が合わせて揺れる。毛先に入った桃色と紫色のメッシュをふわふわと靡かせ、少女は事務机を横切った。星と月のフェイスペイントの上の瞳は、机を見下ろして気だるげにゆっくりと瞬いた。長くカールした睫毛が、その度にふるふると震える。愉悦組織『ラビット』のリーダーである少女は弾力性のある本革へ腰を埋め、一つため息を漏らした。そして机の端に置かれていた紙切れを一枚摘み、雑に中央へと寄せた。
「んー……。メンドクサ。うちに書類手続きを求めるなんて、分かってないなあ……」
そうぼやきつつも、引き出しへ手を掛ける。薔薇のレースに包まれた手は、中から万年筆を取り出した。その引き出しには朱肉や判子、ハサミ等が仕舞われており、そしてそれ以上にお菓子が大量に詰め込まれていた。この部屋は『執務室』と呼ばれてはいるが、姫月はここを『執務室』だとは思っていない。一応書類や要望書を書いたりするのに使いはするが、大体はだらだらと過ごしたり、お菓子を食べるために使用している。個人寮の部屋とは別の、第二のプライベートルームのようなものだ。そもそもペンを走らせるような機会がほとんどなく、また姫月はそれを嫌ってもいた。『ラビット』はあまり他の組織と繋がりを持たず、取引や協力関係なども受け付けることは滅多にない。加えて書類を面倒に感じる姫月は、信用出来る相手に対しては口約束で済ますことも多い。神経質な『レッド』が見たらひっくり返るであろうが、姫月にとっては執務室の机に書類が置かれているのはとても珍しいことだった。
「えっと、日付ね……んーと、今日は——」
書類の上で万年筆の先を浮かせ、姫月は遠くの卓上カレンダーへと顔を向けた。ぼんやりと眺めたあと、リップの艶めく唇が、自然と小さく開いていった。そして、ぽつりと零す。
「……九月、二十日……」
姫月はそこで漸く、今日は自分の誕生日だったのだと思い至った。カレンダーに視線を吸い寄せられたまま、しばし固まる。万年筆を持った手が、止まったまま宙に浮いていた。
「……」
姫月は僅かに目を伏せた。その顔には、微塵も喜びは浮かんでいない。カレンダーを見つめる瞳は、むしろ今日が来たことを悲しんでいるかのようだ。
実際、姫月は誕生日を『良い物』とは認識していない。毎年九月二十日には、部屋に何百万もするネックレスや洋服が届く。これは父親からのプレゼントだ。朝はメイドから『お誕生日おめでとうございます』と抑揚のない決まり文句を投げられる。『おはようございます』と同じ、ただ挨拶の文言が変わっただけだ。にこりともせず、まるで呪文のようにそう告げられる。そして晩御飯には、とても豪勢な料理が並ぶ。広い机を埋め尽くさんと並ぶ皿々を前にして、誰も座らない椅子に囲まれ、それを一人で黙々と食べる。これが九月二十日のルーティーンだ。姫月にとって誕生日とは、決められた儀式をこなす日だった。そのため『誰かに祝われると嬉しい』という感覚が、子供の姫月にはよく分からなかった。一番祝って欲しい相手である父親に、『誕生日おめでとう』と声を掛けられたことは一度もなかった。誕生日になると嬉しいと言う絵本の中の登場人物の気持ちが、姫月には不思議に思えて仕方がなかった。
ただ、人生で一度だけ、最高の誕生日を迎えたことがある。それは学生時代のことだった。二人の友人がプレゼントを用意し、ミニパーティを開いてくれたのだ。勿論そのプレゼントは何万円もするものではなかったし、用意してくれた料理も三人で食べきれる量、自慢のシェフ手作りのものでもなかった。それでも姫月にとって、そのプレゼントは人生で一番の宝物になり、そしてその時の料理は人生で一番美味しく感じた。『おめでとう』と自分の誕生を祝ってくれることが、こんなに嬉しく感じるものなのだと初めて知った。大切な二人が自分のためにプレゼントや料理を用意して、一緒に喜び隣で笑顔を向けてくれる。それが何よりも嬉しく、幸せだった。その日姫月は始終笑顔で、楽しさに溢れた、至福の一日を過ごしたのだった。
……でも、そんな日はもう二度と来ない。だって、彼女達とは命を奪い合う敵同士となってしまったのだから。どんなにあの日を恋焦がれても、もう戻ることは出来ない。姫月の誕生日はすぐに、儀式を粛々と執り行う日へと舞い戻った。……しかし、変わったこともある。それは『ラビット』の皆からお祝いの言葉を貰うようになったことだ。彼女達は純真な笑顔で、姫月の誕生日を心から喜んでくれる。メイド達から儀式として掛けられる時とは違い、『ラビット』の面々から掛けられる言葉は姫月も嬉しく感じていた。もう二度とあの友人達に祝ってもらえることはないだろうが、『ラビット』を発足したからこそ、新たに祝ってくれる人が沢山出来た。そう考えると、現状も悪い事ばかりではないのだろう。
「……」
しかしこの心にポッカリと空いた虚しさのようなものは、どうにも消えてくれない。『ラビット』の子達に祝われることは嬉しいし、満たされているはずなのに。どうして二人のいない誕生日を迎えることが、こんなに切なく悲しく思えてしまうのだろうか。一度極上の幸せを体験してしまったからなのだろうか。この溺れるような喪失感は、一時経験してしまった幸せに対する罰なのだろうか。
「……」
カレンダーを見つめる瞳には、一種の諦観が滲んでいる。小さなため息を一つ零し、止まっていた万年筆を動かし始めた。日付の欄に、今日の日付を走らせる。何の感情も滲ませず、淡々と万年筆を滑らせていく。すぐに日付の欄は書き終わり、署名の欄へとペン先を移動させた。契約内容に気だるげに視線を走らせ、自身の名前を書いていく。その時、扉がノックされる音が響いた。姫月は署名の途中でペン先をあげ、扉の向こうへと返事を返した。
おずおずといった動きで、扉が小さく開く。扉の奥から、黒白のフリルの塊が顔を覗かせた。
「……キツキちゃん。今いいかな」
「宝冠。……うん、入りな」
ブラウンのセミロングの毛先を揺らし、ひょっこりと顔を出したのはティアラだった。彼女は『ラビット』の一員である。姫月は微笑みを浮かべ、万年筆のキャップを閉めた。書類の横へ置き、椅子から腰を浮かせる。ティアラは姫月の言葉をきいて、扉を大きく開け、部屋へと入ってきた。それにより隠れていた全身が露になる。彼女は自身の身長程もある、大きな箱を連れていた。箱は紙で出来ているらしく、全面に模様がプリントされていた。蓋がされていて、中身は見ることが出来ない。ティアラはそれを両腕で抱えて、部屋へ入ってくると床へ置いた。姫月は事務机の横を抜けて彼女と大きな箱へと近づいた。近くで見ると、その箱は姫月の身長よりも大きいようだった。姫月がそれを不思議そうに眺めていると、箱の横に立つティアラがもじもじと身体を揺らし始めた。
「キツキちゃん。……今日、お誕生日でしょう。九月二十日」
「ああ。……覚えてくれてたの?」
「も、勿論だよ。お誕生日おめでとう、キャプテン」
ティアラは少し恥ずかしそうに、姫月に向かってはにかんだ。姫月も柔らかな笑みを返す。
「ありがとう」
『ラビット』の子に祝われるのは、純粋に嬉しい。姫月は穏やかな声色で感謝を述べた。ティアラはあまり積極的に姫月や周りのメンバーに話し掛けるような子ではない。そんな彼女がこうして部屋までお祝いの言葉を言いに来てくれたのだ。それだけで彼女の想いの強さがわかる。
「あのね、キツキちゃん。……大好きなキャプテンへ、プレゼントを用意したの」