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第7話

 暗闇の中を、黒い厚底で駆けていく。夜の街並みは相変わらず人の姿がなく、耳に届くのは自分の息遣いだけだ。黒白のフリルの塊は一度足を止め、自身が来た方へと振り返った。荒く息をしながら、じっと闇の先を見つめる。どうやら誰も追いかけてきていないようだ。

「ふう……」

 大きく息を吐きだし、ティアラは顔の向きを戻した。目に留まった近くの空き家へと駆け寄り、中へと入る。半壊した扉は簡単に侵入者を歓迎した。割れた窓から差し込む月の光を頼りに、家の奥へと進んで行く。見えてきた扉を開けると、こぢんまりとした部屋が現れた。損壊は最小限、生活用品はそのまま置かれ、埃や汚れもあまりない。空き家にしては比較的綺麗な状態だ。隠れるのには丁度いいだろう。ティアラは窓のもとへと向かい、壁を背にして腰を下ろした。ブラウンカラーの後頭部が、月光に淡く照らされる。ティアラは鼓動を速める心臓を戒めるように、両手を胸に当てた。胸の高鳴りは、走ってきたせいではない。緩むのを抑え切れない口元。紅潮した頬。息を殺して、耳を澄ませる。

『あぁぁっ!』

 誰もいない静かな部屋は、イヤホン越しの声もよく響いた。高い悲鳴、重い殴打音。決して、鳴り止むことはない。

『いだっ、ねえ、いだいっ……』

『お前だって同じ目に遭わせただろうがよ! 腹も背も散々傷つけやがって!』

 重く鈍い音が、何度も何度も繰り返される。殴りつけられる音、叩きつけられる音、踏みつけられるような音、何かが落とされるような音。

『ねっ……や、やめ……っ』

 懇願の言葉も、殴打音に掻き消される。その声には、いつもの無邪気な元気さは欠片も残っていなかった。繰り返される内に、悲鳴が段々と泣き声混じりになっていった。殴られて歯が折れたのか、物言いが覚束無くなってきている。

『う、ぐっ、あ、あぁっ』

『まだまだこんなんじゃ足りねーぞっ!』

 『ブルー』の少女の怒りに満ちた怒声の後、何かが折れるような一際重い音が続いた。より荒くなった息遣い、苦痛に呻く声。マイクは全て拾ってティアラの耳へと届けてくれる。

「……」

 ティアラは胸に当てていた両手を、ゆっくりと頬に当てた。まるで上気した頬を冷ますかのように、両手で包み込む。手の中の顔は、恍惚とした笑みを浮かべていた。蕩けた瞳、幸せそうな表情。うっとりとして、イヤホンの運ぶ声に聴き入る。

『あぁっ、ああああ!』

『こんの……っ、地獄で詫びろ!』

 殴打音が激しくなり、悲鳴も高く長いものに変わった。なりふり構う余裕もなく、口から漏れる言葉にならない絶叫。ミラクの高く可愛らしい声は、断末魔の叫びを上げ続けた。ティアラは陶然としたようにそれを聴いていた。ミラクの苦痛に喘ぐ声を少したりとも聞き逃さないとでも言うかのように、じっと息を潜め、静かに耳を澄まし続けたのだった。




 やがて、ミラクの声はイヤホンの奥から聞こえなくなった。それに続き、止まる事のなかった重い殴打音も聞こえてこなくなった。荒かった呼吸の音も、嘘のように消えている。ミラクはもう、死んだのだろう。久方ぶりの静寂の中、『……くそ』というぽつりとした言葉をマイクが拾った。その声は遠く、『ブルー』の少女が仲間の死体を見下ろして呟いたのであろうことが察せられた。

 ティアラは残念そうに眉尻を下げた。ミラクの断末魔の叫びをまだまだ聴き足りないと言わんばかりの表情だった。

『……どうした?』

『あ、縹様!』

 マイクは近づいて来る二枚歯の音を拾い、直後に新たな声が続いた。よく通る凛とした声。ティアラにも聞き覚えがあった。この声の主は『ブルー』の長、縹だろう。

『『ラビット』の奴にやられました。相手は二人、一人逃げられてしまって……くそ。すみません』

『……』

 衣擦れの音がしたような気がした。縹が屈んだのだろう。二人の声もそうだが、ミラクの死体からは少し距離があるようで、少々聴き取り辛い。

『どうも奴ら、私と縹様がここでトレーニングをする約束をしてたのを知ってたみたいっす。ここで待ち伏せしていて、彼女を殺されたくなかったら縹様を殺せとふざけた要求をしてきました』

 今にも『ラビット』に突撃しそうな勢いで、『ブルー』の少女は捲し立てた。

『奴らの狙いはきっと、縹様だったに違いないです!』

 怒りの籠った叫び声が木霊する。

『ということは、この子はあたしの代わりに……』

 部下とは正反対の、静かな声がぽつりと漏れた。悲しみの滲む声。しかしそれ以上に、怒りを湛えているのは明白だった。

『……許せないな』

『報復に行きましょう!』

『ああ。あたし達の家族に傷を付けたらどうなるか、じっくり思い知らせてやろう』

 再び衣擦れの音がして、二枚歯の音がゆっくりと遠ざかっていった。その足取りからして、『ブルー』の死体を抱えて離れたようだ。カランコロンという音は小さくなり、やがて聞こえなくなった。ミラクの死体は放置されているらしく、マイクは何の音も拾わなくなってしまった。

「……」

 ティアラは徐に立ち上がると、薄暗い部屋の中を見渡した。背後の窓から漏れた月明かりを頼りにして、隅に置いてある小さな棚へと近づく。その上には、旧式のアナログ時計が置いてあった。それを手に取り、文字盤を見下ろす。時刻は二十一時二十八分。秒針は止まることなく時を刻んでいる。空き家に放置されていたにも拘らず、この時計はまだ正常に動いているようだ。

「……」

 ティアラは口を結んだまま、置時計の裏を弄り始めた。一番短いアラーム用の針が、短針のすぐ横に並んだ。置時計を持って窓へと戻り、再び腰を下ろす。イヤホンを外すと、マイクの先を時計のスピーカー部分へとあてた。微笑んで時を待つ。そして、それはすぐにやってきた。

『ピピピピピピピピピピピピピピ』

 最大音量の爆音の電子音が、辺りに響いた。当然それは時計に当てられたマイクを伝い、無線で通じたイヤホンからも出力される。

『わっ……っ、えっ!?』

 戸惑ったようなプリンの声が、外したイヤホンから小さく聞こえてきた。それを確認し、ティアラは時計のアラームを止め、イヤホンを耳へと装着し直した。微笑みが無意識に深くなっていることに、彼女は気付いていない。

『な、なに? 何の音? ってかここどこ……』

 ミラクの絶叫を聞いても静かだったイヤホンの奥が、俄然賑やかさを取り戻す。

『あ、ここ……そっか、朱宮を待ち伏せしてたんだっけ。それで……、あっ? あちし、寝ちゃってた!?』

 はっとしたような声のあと、激しい衣擦れの音が聞こえてくる。

『ありす、起きて! 起きて! あちし達、してやられたよ!』

『……うん……?』

 左右に振られた朧気な声。プリンがありすを揺さぶって起こしたようだ。

『……あれ? あなた、なんで私の部屋に勝手に……』

『部屋じゃなくて外だよここ! あちし達、眠らされてたんだよ! たぶん『レッド』に全部気付かれてたんだ!』

 息を呑むような音が小さく聞こえてきた。寝ぼけていたありすの頭も覚醒したのだろう。

『ここ、朱宮が……。……まずいわ、あなたの声で居場所がバレたんじゃないの!?』

『あちしの声以前になんか爆音がしたんだよ! きっともうとっくに気付かれてる!』

 息遣いが変わる。その場を去ろうと二人とも走り出したようだった。

『な、なんで……いつ気付かれたんだろ? 作戦中なのに眠気が酷いなって思ってはいたんだよね……あちし、わくわくしすぎて昨夜よく眠れなかったのかなって思ってたんだけど……』

『だから話をしようって言い出したのね? 眠気を吹き飛ばすために。私も眠いなとは思ってたけど……あなたもだったなんて』

『睡眠薬でも盛られたのかな? でも、いつ?』

『それにしては可笑しいわよね。だって、口にした物に『レッド』が介入する機会なんて……』

『そ、そういえばミラクとティアラは!? 全然音聞こえないし……『レッド』に通信を妨害されているんじゃ!?』

 パニックになった声が、イヤホンの奥でキンキンと響く。

『どうしよう、二人にヘルプも求められないよ!』

『……。……いえ、待って。もしかして、眠らせたのは『レッド』じゃなくて……』

『うぎゃあっ?』

 その時、ありすの言葉を掻き消すようにプリンの悲鳴が上がった。続けて、ガタガタとマイクと何かがぶつかったような籠った音が聞こえてきた。

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