第6話
ミラクはすっくと立ち上がり、転がされている『ブルー』の少女の身体へと腕を回した。抱くようにして持ち上げると、自身の肩に寄りかからせて立たせ、腕で固定した。ポケットから取り出した折り畳みナイフを開き、リボンの巻きついた首に当てる。そして、ふと違和感を覚えたように「……そういえば」と漏らした。隣に並んだティアラも振り向く。
「なんか……静かだね?☆」
人けのない夜の道。時々風が木々を揺らして、木の葉がさわさわと音を出す。その音すら耳に残る程、辺りは静寂に包まれている。どうやらミラクは、耳に装着したイヤホンからの音が途絶えたことを言っているらしい。
「もう朱宮が現れる時間だからだと思う。……向こうで音を立てたら、バレちゃうから」
「ああ、確かに☆」
待ち伏せする相手が近づいてきたのなら、静かになるのは当たり前だ。
「じゃあみらく達も、あんまり大きな声を出さないようにした方がいいね☆」
二人の装着したイヤホンにはマイクがついていて、こちらの音は向こうのイヤホンからも出力される。ミラクとティアラがあまり大きな声を出して、隠れているプリンとありすが気付かれるようなことになってしまったら目も当てられない。二人は顔を寄せ合って、唇に人差し指を当てた。「しーっ」とジェスチャーを取り合う。確認を終えたミラクはその手を引っ込め、『ブルー』の少女の首に改めてナイフを突き付けようとして……ふとその顔を覗き込んだ。
「……あれ?」
蚊の鳴くような小さな声。ティアラの耳には届かなかったらしく、彼女は石段の先を見下ろしたままだった。
「……死んでる……?」
ぽつりと零れた声は、石段の下からの大声に搔き消された。
「おい!」
二人はびくりと肩を震わせた。静かな夜の道に突然乱入して来た叫び声は、石段の下に立つ少女から発せられていた。薄群青色の、特徴的な制服。近づいてきていた少女に間違いない。やはりここが目的地だったようだ。暗い事もあって顔ははっきりとは見えないが、縹よりも身長が低く、髪の長さも短い。声も違うようで、別人であることは明らかだった。
「隠れているつもりなら全く意味ないぞ。血の匂いがする」
石段の下の少女は、頂上の二人へ向けて腹から叫んだ。その声はよく通り、二人の耳にもきちんと届いた。
「血の匂い? ……あ、人質の……」
ティアラは思い当たったようにそう言って、隣で抱えられている『ブルー』の少女を一瞥した。くたりとした身体は動くことなく、瞑られた目も青白い唇も微動だにしない。彼女の身体を捕らえているミラクは、しめたとばかりににやりと笑った。
「よく見えていないみたいだね☆ ならもう人質が死んでることにも、きっと気が付かないはず☆」
ティアラは強気に笑い、石段の下へと声を張り上げた。
「『ブルー』の子だよね?☆ 見て見て、あなたの仲間を捕まえたの☆」
「……その黒白の服……『ラビット』、か?」
『ブルー』の少女は、目を凝らして石段の上を仰ぎ見た。そして捕らわれている身体が言葉通り薄群青色の制服を着ていることに気付き、彼女は今にも噛みつかんばかりの勢いで身を乗り出した。
「てめえら……!」
「おっと、近づいたらこの子の首がね、切れちゃうんだよ☆」
ミラクは首に当てたナイフを見せつけるようにして、楽しそうに笑った。
「この子のこと、助けたい? どーしても助けたいなら、お願いを聞いてくれたら助けてあげられるかも☆」
『ブルー』の少女は怒りに染まった顔に、僅かに困惑を滲ませた。今にも突撃しそうだった前のめりの身体が、その動きを止める。
「は? お願い……?」
「うん☆ かーんたんだよ☆」
ミラクはくすくすと笑いながら、小さく身体を揺らした。訝し気な顔で見上げる『ブルー』の少女は、仲間を気にしながらも次の言葉を待っている。ミラクの横で、ティアラが一歩、小さく後ろへと下がった。ミラクは愉快そうな顔で、石段の下へと楽しそうな声を響かせる。
「あなたは縹を殺してくるの! それでね、綺麗な首をミラク様達に頂戴! そうすればこの子は首を切られることなく——」
ミラクの身体が前へ押し出され、宙に投げ出された。空に靡く、弧を描いている二つの髪の束。クラゲのように揺れて浮かぶ、膨らんだフリル塗れのスカート。咄嗟に踏み止まろうとした黒い厚底は、抵抗虚しく石段から離れていく。抱えた『ブルー』の少女の死体が重りとなって、重力に抗えずに段々と傾いていく身体。見開かれた大きな瞳には、遮るもののない、模型のような街並みが視界いっぱいに広がっていた。そしてその景色はすぐに、どこまでも続いている石段の並ぶ光景に変わった。無機質な石の波に、吸い込まれるように迫っていく。黒白のフリルの塊は、薄群青色の身体と共にそのまま石段の下へと落下していった。
「きゃああっ!?」
驚愕と恐怖に満ちた高い悲鳴は、身体が石段にぶつかったことで物切れに止んだ。弾みをつけて、長い段差を転がり落ちていく。先頭を務める『ブルー』の少女はいくら階段に打ち付けられても動き出すことはなく、完全に心臓が止まっているであろうことが窺えた。突然落下してきた二つの身体に、石段の下で見上げていた『ブルー』の少女はぎょっとした顔を浮かべた。下敷きにならないよう、すぐに端へと避難する。その頭上で、ミラクの身体は落下の勢いを乗せて何度も石段に叩きつけられていた。まるで口から内臓が飛び出るかのような衝撃と、全身を貫く重く鈍い痛み。どうにかしようと手を伸ばそうとして、身体と石段の間に挟まれて潰れ、変な方向へと折れ曲がった。再び宙に投げ出され、数メートル下の石段の角に叩きつけられる。今度は足の骨に響くように衝撃が走り、変な違和感を伴って動かなくなった。ミラクの身体はさらに二、三度叩きつけられて、漸く石段を降り切った。階段下のコンクリートに嫌な音を立てて腹で着地をすると、勢いを殺しきれずそのままごろごろと転がっていった。黒白の塊は血と土で汚れ、今や白色の見る影もない。呻き声を漏らしているが、震えるばかりで動く様子はなかった。手足が折れ、すぐに起き上がることは出来ないようだ。『ブルー』の少女は落ちてきたフリルの塊から顔をあげ、石段の上を睨んだ。もう一人いたはずの『ラビット』の少女は、忽然と姿を消していた。辺りに視線を這わせるが、隠れている気配もない。恐らく逃げられたのだろう。敵の状況を確認し終え、『ブルー』の少女は落ちてきた仲間のもとへと駆け寄った。薄群青色が見えない程、その制服は血で汚れていた。腹部は血で赤黒く染まり、背中には方頭刀がその身が見えなくなる程に深く突き刺さっていた。落下時に出来たらしい頭の窪み、複数の切り傷、紫色の痛々しい痣。手足や指の一部はあらぬ方向に折れ曲がっている。一縷の望みをかけて脈を診てみたが、既に事切れているようだった。持ち上げた手首の先、血の隙間から覗く掌は赤く爛れていた。恐らく毒の類を盛られたのだろう。痛々しく、見るも無残な仲間の姿を焼き付けるように、『ブルー』の少女は死体を見下ろした。悔し気に唇を噛み、怒りで肩を震わせる。拳を握り締めて立ち上がると、転がっているフリルの塊へと二枚歯を鳴らして近づいた。ミラクは絶え絶えに呼吸をしながら、苦痛に呻いていた。痛みで身体が動かせない。骨も何本か折れ、ひびが入っているようだった。『ブルー』の少女は倒れているミラクのもとへ来ると、鋭い眼差しで見下ろした。そして上体を強引に地面から剥がすと、その胸倉を掴んで締め上げた。痛みに泣き出しそうになっている顔へ、拳を思い切り振り上げる。直後、闇夜に重い殴打音が響いた。
「いだ……っ」
ミラクは思わずといったように叫んだ。頬に大きな赤い腫れを作った兎は、それでも抵抗する素振りを見せなかった。痛みに震える力の入らない身体では、反撃どころか立ち上がることすら出来ないのだろう。
「よくも……よくも同胞をっ」
怒りに震えた叫び声が、夜空に木霊した。『ブルー』の少女は顔を真っ赤に染め、再度固く握った拳を振りかぶった。
「絶対に許さない!」