9,開幕と幕開け - ②
隣に座っているリーンハルトの気配を肩と二の腕に感じ、緊張からルージェの身体に力が入った。この部分がこんなにも敏感な機能を備えているなんて知らなかった。身体の部分の中で、ただ距離が一番リーンハルトに近いというだけなのに。
ヨアンナが茶器類とラルジュテーレ王国特産の酒などが乗ったカートを押して移動してきて、テーブルの上にセッテイングを始めた。
ルージェは静かに無駄な動きなく準備するヨアンナの姿を目で無意識に追いながらも、頭の中では先程のヨアンナの言葉が駆け巡っていた。
意識が乗っ取られたかのように、言葉だけがぐるぐる回る。
そのせいで、先程まで静まっていた心とは別の感覚で思考は停止し心が静まっていた。
ヨアンナは準備が整い終わると、流れるような仕草で伏し目がちに深く一礼をして、足早に扉を出て行った。
その有無を言わせない素早く隙のない迫力のある給仕の動作に圧倒されて、ありがとうと言葉をかける暇もなかった。
まるでお手本のように綺麗にお辞儀して退出した余所行きのヨアンナの所作を見てから、ルージェは急に現実感が湧き、身体だけでなく心まで緊張してきたようだった。
ひと言くらい声を掛けていってくれてもいいのにと、ルージェはヨアンナに責任転嫁した。
一人残された寂寥感が残る。
覚悟を決めたはずなのに、またぐらつき始めていた。
「熱いうちにいただこうか」
リーンハルトが金色の紋様で縁取られた受け皿ごと持ち上げ、平たいカップの柄を手に取ると、一口お茶を飲む。
「熱っ!」
「大丈夫ですか?!」
「うん。思ったより熱かった。でも、火傷するほどじゃないよ」
「良かったです。申し訳ございませんでした」
リーンハルトの言葉にほっと胸を撫で下ろす。
「どうしてルージェが謝るの? お茶が熱かったくらいで」
リーンハルトが無邪気に、不審がって聞いた。
「え? いえ……はい、そうですね………」
指摘されて初めて気付いた。
今までは何か言われたらすぐ謝る、それが普通だったし求められていた。
だから謝るのが癖になっていたようだ。
そうしないと存在を許してもらえなかったから、目上の者に対してはそうすることが自然と身についてしまっていた。
リーンハルトはそういう態度は嫌いなのだろう。
(気をつけなくては)
「ヨアンナの入れてくれたお茶は美味しいんですよ。茶葉によって一番合う入れ方を変えているみたいで」
ルージェはうわずっていた心をしまい込み、気を取り直して、気後れしていることを悟らせまいと明るく取りなすように言う。
「そうだね。確かに美味しい。普通の琥珀色じゃなくて、薄い黄色をしているね。これは何の茶葉なのかな」
「心を落ち着ける効果と、安眠を誘う効果もある薬草入りのものです」
「いつも飲んでるの?」
「ええ。気持ちが安定するので」
リーンハルトはその言葉を聞いて、カップを見た。
「………ああ。……気を、つかってくれたんだね」
そう言って、お茶の水面を上から覗き込むようにして、カップの中をじっと見つめた。
揺れ踊る湯気の向こうに、リーンハルトの輪郭が影となって浮かんでいた。
リーンハルトはカップを鼻の下まで運ぶと、軽く目を閉じて香りを嗅ぎ、また水面を見つめる。
そのあとフーッと軽く息を吐き、影を揺らし湯気を飛ばし消すと、コクリとひとくち口に含んだ。
「本当だ。甘みがあって、柔らかい味と香りで安心する」
「気に入っていただけたようで嬉しいです。甘いけれど、お砂糖は入っていないんですよ」
「そうなのか。すごいな。おもしろい」
感心したように目を少し見開いて口角を上げ、リーンハルトはお茶をまた口に運んだ。
リーンハルトのその姿を見て、ルージェもなんだか安心し気が緩んだように感じて、自分もカップに口を付けた。
「夕食は食べられた? ごめんね、一緒に取れなくて」
「いいえ。私の方こそ、お気遣いいただいて、すぐに送り届けてくださってありがとうございました。お夕食はちゃんといただきましたよ」
「そう、ならよかった」
「殿下こそ、きちんと召し上がられましたか?」
ルージェの質問を聞いたリーンハルトは、カップを持ったまま視線を逸らした。
「………えー、っと……実を言うと、食べてない」
リーンハルトは気まずそうにゴクリと喉を鳴らしてお茶を一口飲むと、カップを受け皿に置き、テーブルに戻した。
その一連の動作を見守ると、ルージェは立ち上がり、テーブル奥に置かれた大きな皿のクローシュを取った。
並んだ皿の一皿目には、数種類の具の違う薄めのサンドイッチと数種類の果物が、それより小ぶりの二皿目には、色違い形違いの味の違うクッキーと一口サイズの形と飾りの違うチョコレートが並んでいた。
「もしかしたらと思っておりました。少しですけど、お願いしてご用意しておきましたので、お召し上がりになりませんか」
ルージェはそう言いながら、サーバーで取り皿にサンドイッチを取り分けた。
そして取り皿を持ったままソファーの元いた場所にまた座ると、リーンハルトの顔色を伺うようにゆっくり皿を手渡した。
渡された反射で素直に皿を受け取ったリーンハルトの顔を、ルージェは小首を傾げて心配そうにのぞき込んだ。
「食欲がないかもしれませんが、食べることで元気がでますよ」
「ああ、うん………」
手元の皿を呆然と見つめるリーンハルトを見て、やっぱり難しいのかなとルージェは考えた。
「差し出がましいこと申しました」
「え? いや、そんなことないよ。………ここまで心遣いをしてくれるとは思ってなかったから。驚いたんだ。あと、ルージェには夕食を取ったか聞いたけど、自分はそんなこと忘れてたなって思って。ヴォルが、ああ僕の首席補佐官なんだけど、ここに来る前に食堂へ寄れと言っていたのを思い出して。あれはそういう意味だったんだって」
一気に言い立てたリーンハルトに面食らいながら、ルージェは答えた。
「……殿下が食べられないのを心配して、ご夕食の用意ができているからちゃんと食べてくださいとお伝えしたかったんですね。優秀で気遣いのできるお優しい方なのですね」
「優秀は………うん、まあ、ん……仕方ない、認めるけど。…優しくは、ない」
表情が急に曇り、かなり渋々といった様子で認めた後、溜息をつくように強めに否定したリーンハルトの言い方が面白くて、ルージェは少し笑った。
「ふふ。殿下のことを誰よりもご心配されていると思いますよ」
「そうかもだけど、ここでの話は本人には内緒で」
「はい、かしこまりました」
パクリとサンドイッチを一口頬張ると、リーンハルトの目尻が緩んだ。
好みの味に当たったのかなとルージェはちょっと嬉しくなる。
呼び水になったように続けて食べるリーンハルトを見て、ルージェは安心し、リーンハルトのカップへお茶を注ぎ足した。
「ルージェは食べないの?」
「私はお夕食を充分いただきましたから。お酒や果物、甘いものもいかがですか? 私は甘いものを食べると元気が出るのですが……殿下はお好きですか?」
「好きだよ。ナッツ入りのクッキーが一番好き」
「では、今度はたくさんご用意しておきますね」
「夜にそんなに食べられないよ。お腹がこんなになったらどうするの」
「「ふふふっ………」」
お皿を太ももの上に置き、お腹が膨らんだ様子を両手で大きくなぞって表現して、いたずらっぽく言ったリーンハルトの言葉で、二人して笑い合った。
ひとしきり笑った後、リーンハルトが砕けた様子で言った。
「心配してくれて、ありがとう」
「いいえ。今日は本当に大変でしたね」
思わずそう言ってしまって、ルージェは自らの失言に気付いて、少し目を見開いて口に軽く手を当てた。
自分から触れる話題ではなかったのではないだろうか。
「大丈夫だよ。そんな顔しないで。その話はしなきゃいけないものだから」
顔色を変えたルージェに、リーンハルトは発言を後悔したり、心配しなくてもいいよと言い聞かせるように、優しく落ち着かせる声色で言った。
「ありがとうございます。お気を遣っていただいて」
(ああ、やはり………)
覚悟を決めて嫁いできた。
けれど戦い方を見聞きする度に、帝国の人間は容赦がない冷酷で残忍な人達なのかもしれないと不安になったこともあった。
そんなところに嫁ぐことが決まった夜は眠れなかった。
ついさっきだって、揺れていた。
(でも………やっぱり、この人は………)
心根がいい人だ。
だって自然と心が緩んでしまう。
お会いしたばかりなのに。
「そんなことはないけど………。……やっと、寛いだ顔になったね。安心した」
「殿下………」
指摘されてルージェは、瞳を伏せて顔を少し赤らめた。
ルージェは両手の指を揃えて赤くなった両頬に当てて、それを隠した。
その手の動きに釣られるように、リーンハルトはルージェの上気した頬と細い指先を呆然と見つめると、慌ててふいと視線を逸らした。
リーンハルトの頬も、うっすらと染まっていた。
腿の上の皿をテーブルに置き、リーンハルトはカップを掴みお茶をまた飲むと、それもテーブルに置いた。
そして意を決したように顔を引き締め、ルージェの方に膝を少し傾けて向き合った。




