8,開幕と幕開け - ①
結婚の儀式を終えて、正式に第七皇子妃になったルージェは、昨夜まで宿泊していた皇宮城の他国王家専用客室から、第七皇子宮に正妃として与えられた自室へ移り落ち着いた。
想定外の事が起こり、休息と念のための問診が必要とのことで、事態が収拾するとすぐに、皇宮城からの荷解きが済みすでに整えられた第七皇子宮に送り届けられたのだった。
夕食と湯浴みを終え、身体マッサージなど全身の手入れを終えたルージェは、身支度を調えてもらっている。
ルージェの頬は上気し、しっとりした身体全体も薄桃色に浮かび上がっていた。
色づいた肌を覆い隠すように純白のシルクで作られた夜着を着ていたが、それが却って夜着で隠しきれない部分から覗く肌の細やかさと色白さを余計に際立たせていた。
しかも髪の金色が、色づいた肌に光を添えているようだった。
夜着は肩紐と胸元と裾に色々な大きさの薔薇を象った刺繍が施され、太もも部分から斜めに三角の幅でレースの切り替えがあり、裾は踝まであった。
ルージェはその上に総レースの最高級のガウンを羽織っていた。
鏡台の前でヨアンナが、ルージェの金色の髪に丁寧に香油を塗り込みさらに磨きをかけて輝かせ、櫛で丁寧に整えている。
ヨアンナはふいにその髪をじっと見つめると、やっと部屋に着いた時のルージェを思い返した。これからよろしくと、入り口で部屋に向かって深くお辞儀をして律儀に挨拶しこの金色の髪を揺らしたルージェを思い出し、内心で可愛いかった~と叫び出したい衝動を抑え、仕上げにかかった。
「ルージェ様、もう本当に大丈夫ですか?」
ヨアンナは、ルージェの髪を梳かしながら聞いた。
「うん、私は大丈夫よ。落ち着いているわ。ありがとう」
大聖堂での一連の出来事の後、皇族のものだと分からないように偽装された馬車にヨアンナと乗り込んだルージェは、気丈に振る舞っていた反動からか、座り込んだ途端に糸が切れたようにすべてを拒むような放心状態になり目も当てられなかった。
初めて見るルージェに、ヨアンナは声を掛けるのが憚られ、斜向かいのルージェナをちらっと盗み見ては様子を窺っていた。
ルージェは規則正しい振動に揺られるうちに、晴れ渡る窓の外の流れる風景を追うようになった。
そして次第に目の焦点が定まってきて、食い入るように外を覗き始めた目元と頬に、だんだん赤みが差してきた。
ルージェのその変化を見ながら、どうやら気持ちの整理が着いてきたようだとヨアンナは感じた。何を思い、何のけりを付けたのか一従者の自分などには分かるはずもないが、ルージェは外の街並みや人々に興味を引かれたらしい。
城下はお祝いムードで華やいでいた。
じっと外を見つめていたルージェの金色の瞳に光が灯り、大きくなって輝き出していくのがヨアンナにもわかった。
そして第七皇子宮に着く頃には、いつものルージェの雰囲気に戻っていた。
ヨアンナは、今までもこうやってどんなことにも人知れずルージェは無言で耐え、いつもひとりで気持ちを作ってきていたのだろうと思うと、不敬ながら年下のまだあどけなさが残る可愛い少女を姉のように優しく包み、抱きしめたくなったのだった。
だからヨアンナは、何度も心配してしまう。
「お体の方も、お辛くはないですか?」
ヨアンナはルージェの落ち着いた受け答えを聞いたものの、戻りの馬車の中での様子を思い出して、無理をしているのではと愛しさの衝動から一転、今度は不安が押し寄せてきたのだった。
今日起こった出来事を思うと、やっぱりルージェの負担になっているのではないだろうか。
敵だらけの場所で、相手のことも分からずただ身を委ねるしかないなんて、と仕方のないことを歯がゆく感じていた。
一方でヨアンナは、困難続きの自分の宿命を呪わずに身を委ねられるルージェのことを、誇りに思ってもいた。
「本当に大丈夫。ふふ、何回聞くの。心配しすぎよ。今日は色々と順調にはいかなかったけど、もう、覚悟ができているのは変わらないから」
ルージェは決意を改めて確認したように、最後は静かに目を閉じて言った。
* * *
(私は何を言われようと、どんな態度を取られようと大丈夫)
ルージェの心は色々起こった後なのに、不思議と静けさの中にいた。
戦いの最中に声を掛けてくれたリーンハルトからは、屈折したものは感じなかった。
信じられるとさえ思った。
だからそんなに酷いことにはならないんじゃないかしら、とルージェは思う。
ルージェはヨアンナの心配を余所に、それよりも衝撃が収まってきた今は、目の前で起こったリーンハルトと実の兄との戦いの方が気になっていた。
「リーンハルト殿下は、あんな大変なことがあった後で、本当にいらっしゃるのかしら? だいぶ気落ちしてらしたように、お見受けしたけれど……」
ルージェはヨアンナにそう問いかけ、最後は自分へ感想を漏らすかのように小さめの声でつぶやくように言った。
ヨアンナは髪を梳かし終わると、鏡の中のルージェに首を振った。
ルージェの小さいつぶやきを聞くと、ヨアンナは表情を暗くした。
「何もお聞きしておりませんので、いらっしゃるかと………」
「そう。………きついわよね………きっと」
「………」
ルージェがリーンハルトを心配する言葉を出すと、ヨアンナは何も答えないまま、今までよりも顔を曇らせた。
そのまま無言で俯き加減に顔を背け、片付けを始める。
そんなヨアンナの様子には気付かず、ルージェはワーレンに近寄っていったリーンハルトを思い出していた。
あの時は、まるで浮かんで漂いながら、揺れる雲の上を歩いているかのように見えた。
そして………。
(多分、泣いていた)
横たわっているワーレン殿下を見つめているとき、立ち上がって大きく開いた天井から空を仰ぎ見ていたとき、多分。
「お二人は仲がよろしかったんじゃないかしら? だからお辛かった………そんな感じがしたわ。殿下に助け起こしていただいた時、上の空だったもの」
「………ルージェ様がそう感じたなら、そうなのかもしれません。ただ………」
「…? ただ、どうしたの?」
そこで初めて、ヨアンナの様子がおかしいことにルージェは気付いた。
いつもは明るくて勝ち気で言いたいことは言う、ルージェ以上にルージェに成り代わり思いっきり感情表現してくれるのに、その快活さがない。
疑問に思って、否定的な言葉が続く何かを思っていた様子だったのにもかかわらず、言い淀み飲み込んだヨアンナを促した。
けれどヨアンナは言葉を濁し、言い辛そうにしている。
「………終局は見ておりませんので………」
「うん、大丈夫、遠慮しないで」
珍しい態度が気になって、ルージェはヨアンナが口を開くのをじっと待った。
根負けしたというようにとうとうヨアンナは重たい口を開き、いつもより冷めた低い声で言った。
「……………実の兄殿下を………躊躇わずに、あんなにあっさりと攻撃するなんて………もしかしたら、残虐なお方なのでは……と」
その疑問にルージェが答える前に、控えめに扉を叩く音が聞こえ、部屋の外から扉を守る騎士のかけ声がした。
「妃殿下、リーンハルト殿下がいらっしゃいました」
二人は顔を見合わせた。
「殿下だわ」
「………お見えになりましたね。お迎えに行って参ります」
扉までヨアンナが迎えに出て、リーンハルトを迎え入れた。
「ご苦労」
リーンハルトはヨアンナに声を掛けると、静かに室内に入ってきた。
ゆっくりと近付いて来る。
ルージェは化粧台から立ち上がり、大きく長いソファーの横に移動した。
そこで一礼して、リーンハルトを迎えた。
リーンハルトのシルバーブロンドの髪が結婚式の時と違ってふわふわで、歩く度に柔らかそうに少し揺れていた。
その髪型のせいで、頭頂部とは対照的に、身体の線の細さがより強調されていた。
リーンハルトの姿は明らかに式の時より若返っていて、誰か違う人が入ってきたのかと、ルージェは遠目から見て一瞬驚き、胸騒ぎを感じた。
「そのまま座って。夜になると冷えるけど、寒くない?」
「ありがとうございます。ご心配いただき、申し訳ありません。寒さは感じません。この部屋は暖かいので。殿下はお寒くないですか?」
「うん。大丈夫。このガウン、見た目より分厚いんだ」
リーンハルトはそう言って、右手で、銀糸の蔓模様で縁を装飾された濃い紺色のガウンの胸元部分を持ち上げて、内側を見せた。
確かにしっかりした生地だ。
そのガウンの下の夜着は、それよりも薄い青色、というより、綺麗な水色だった。
「そうですね。暖かそうです」
うまく微笑むことができなくて、ルージェは口角だけ上げて笑みを作り答えた。
リーンハルトはルージェに近づき、再度手で座るように促すと、そのままルージェの横になるようにルージェが立つ同じソファーに座った。
リーンハルトが腰掛けたのを確かめて、そっとルージェも腰を下ろす。